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(回答先: Re: てすとだよ。うまくいったらおなぐさみ。第二弾。 投稿者 染川瀝青 日時 2007 年 4 月 24 日 03:18:27)
昭和東北大凶作<娘身売りの時代>
特 集
時よ語れ 東北の二十世紀
(22)わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む
暗く冷たい雪雲の田んぼ道に、思い出す人ももういない 、大凶作の村の「わかれっぱ」が浮かんだ。大根飯を流行語にした「おしん」の時代 である。身売り同然に家を出され、辛抱を重ねて成功した東北の女の物語の陰に、お しんになれなかった無数の娘たちがいた |
積んであった」と、仙台の庶民史研究家である持ち主も偶然に見つけた品だ。
帳面には20数人の女性の名前が並ぶ。東北6県の村の出身者。昭和恐慌や大凶作
で東北が疲弊した1920−30年代(大正末−昭和初め)、村から「売られてきた
」娘たちと、遊郭のある楼主との、生々しい証文(契約覚書)だった。
「壱千(いっせん)参百(さんびゃく)円也(なり) 正金貸(まさにかねかす)
但(ただし)無利子 稼業所得ヲ以(もっ)テ返済ノ約 契約方は満5年トス 玉
代(水揚げ)ハ楼主5分本人5分ノ割合」
「当時、仙台では1000円で2階建ての家を買えた」という。証文では女性本人
が借用人。だが、現実には農家である親が楼主から大金を借り、その形として娘を遊
郭で働かせ、肉体と心を犠牲にした稼ぎで返済させた。親は「連帯人」、本家や地主
が「保証人」に名を連ね、契約を破れば全員が責任をかぶる。親思いであればあるほ
ど、娘をがんじがらめにする契約だった。
「人身売買である」とGHQ(連合国軍総司令部)は46年(昭和21年)、娼妓
(しょうぎ)解放を指令したが、遊郭は12年後の売春防止法施行まで存在した。中
でも仙台の遊郭は「三十三楼、娼妓300人」。東北一のにぎわいは農村の陰画だっ
た、と古い証文は物語る。
高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」
と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解
放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな
話が伝わる。
子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産
んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘
は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ
、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死
んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだ
れも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃ
んがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずに
いる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。
「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に
「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れ
る。遊郭への周旋人と知るよしもなく。
東北に遊郭があったことを伝える古い和紙の帳面類。写真左の証文には、850円の 借金を5年で返済するという契約が記されている |
く、道で途方に暮れていると、駄菓子屋の奥から「お茶っこ飲んでがい」。
間もなく創業100年という亀谷まさ子さん(81)の店では「昔は郭(くるわ)
の女衆に反物や白足袋を売ってた。毎日、お茶飲みをしたもんだ」。
遊郭は1つの町のように大門があり、夏には各楼が景気良さを競う七夕祭りや盆踊
り。だんな衆や大漁祝いの船乗り、兵隊も来た。
茶飲み友達には、同じ年ごろの姉妹がいた。「同情したけれど、恨みつらみは聞か
なかった。見栄でも張るくらい強くならなきゃ、生きていけなかったんだ」
亀谷さんは、大騒ぎになった事件を覚えている。借金を払いきれず、その立て替え
を条件に関西に「くら替え」(再身売り)が決まった女性が遊郭を抜け、鉄道の高い
鉄橋から恋人と身を投げた。「道行きの汽車の中で、遊郭の女の印である日本髪をほ
どいていたんだと。古里と別れ、好きな人とも別れ…。そんな人生がいやだったんだ
べもな」
近くの寺で「仙台睦(むつみ)之墓」という1904年(明治37年)建立の大き
な墓石を見た。住職によれば、10年ほど前の墓地整理で下を掘ると、「一抱えもあ
る石棺が現れ、累々と無縁の骨が詰まっていた」。楼主たちが建てたという墓の裏に
は、なぜか「慈照妙喜信女」の戒名がたった1つ。名も数も知れぬ女たちが遊郭に生
き、死んでいった。
亀谷さんのお茶飲みは、遊郭が消えた後も続いたという。「そのまま近くに住み着
いた女の人たちでね。長く体を痛めたから子宝はできなかったけど、好きな人と所帯
を持って八十まで長生きして、みんな仏さんのところに行っちゃった」
帰りたかった古里を、「わかれっぱ」が永遠に隔ててしまったのだろうか。
(文・寺島 英弥/写真・門田 勲)
<娘身売りの時代> 世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった
東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売り
が急増した。「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸
平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売ら
れた者は累計7083人に達した」。山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さ
んは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとその
ことばかり心配で眠れないのです」と書いた。
五事件は1932年。二・二六事件は1936年。
写真 1 はhttp://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/panel.htmか
ら拝借。
/~t44672/zibunnsi/zibunsi.htm
写真 2,3 はhref="http://www.mni.ne.jp/~t44672/zibunnsi/zibunsi.htm">http://www.mni.ne.jp
この著者の家(岩手県の三陸海岸方面)は半
農半漁で「まだ恵まれた方であった」そうだが、それでも年末にくる借金取りに利子
さえ払えなかったこともあったという・・・