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(回答先: Re: て 投稿者 染川瀝青 日時 2007 年 4 月 25 日 02:00:37)
河北新報 http://www.kahoku.co.jp/spe/spe059/19991125tk.htm | ||||||
特 集 時よ語れ 東北の二十世紀 | ||||||
(22)わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む | ||||||
古い和紙の分厚い帳面に出合った。「10年ほど前だ。古道具屋の棚に、無造作に積んであった」と、仙台の庶民史研究家である持ち主も偶然に見つけた品だ。 帳面には20数人の女性の名前が並ぶ。東北6県の村の出身者。昭和恐慌や大凶作で東北が疲弊した1920−30年代(大正末−昭和初め)、村から「売られてきた」娘たちと、遊郭のある楼主との、生々しい証文(契約覚書)だった。 「壱千(いっせん)参百(さんびゃく)円也(なり) 正金貸(まさにかねかす) 但(ただし)無利子 稼業所得ヲ以(もっ)テ返済ノ約 契約方は満5年トス 玉代(水揚げ)ハ楼主5分本人5分ノ割合」 「当時、仙台では1000円で2階建ての家を買えた」という。証文では女性本人が借用人。だが、現実には農家である親が楼主から大金を借り、その形として娘を遊郭で働かせ、肉体と心を犠牲にした稼ぎで返済させた。親は「連帯人」、本家や地主が「保証人」に名を連ね、契約を破れば全員が責任をかぶる。親思いであればあるほど、娘をがんじがらめにする契約だった。 「人身売買である」とGHQ(連合国軍総司令部)は46年(昭和21年)、娼妓(しょうぎ)解放を指令したが、遊郭は12年後の売春防止法施行まで存在した。中でも仙台の遊郭は「三十三楼、娼妓300人」。東北一のにぎわいは農村の陰画だった、と古い証文は物語る。 高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。 | ||||||
マンションや商店が立ち並ぶ、仙台の街の一角。遊郭があったと想像するのも難しく、道で途方に暮れていると、駄菓子屋の奥から「お茶っこ飲んでがい」。 間もなく創業100年という亀谷まさ子さん(81)の店では「昔は郭(くるわ)の女衆に反物や白足袋を売ってた。毎日、お茶飲みをしたもんだ」。 遊郭は1つの町のように大門があり、夏には各楼が景気良さを競う七夕祭りや盆踊り。だんな衆や大漁祝いの船乗り、兵隊も来た。 茶飲み友達には、同じ年ごろの姉妹がいた。「同情したけれど、恨みつらみは聞かなかった。見栄でも張るくらい強くならなきゃ、生きていけなかったんだ」 亀谷さんは、大騒ぎになった事件を覚えている。借金を払いきれず、その立て替えを条件に関西に「くら替え」(再身売り)が決まった女性が遊郭を抜け、鉄道の高い鉄橋から恋人と身を投げた。「道行きの汽車の中で、遊郭の女の印である日本髪をほどいていたんだと。古里と別れ、好きな人とも別れ…。そんな人生がいやだったんだべもな」 近くの寺で「仙台睦(むつみ)之墓」という1904年(明治37年)建立の大きな墓石を見た。住職によれば、10年ほど前の墓地整理で下を掘ると、「一抱えもある石棺が現れ、累々と無縁の骨が詰まっていた」。楼主たちが建てたという墓の裏には、なぜか「慈照妙喜信女」の戒名がたった1つ。名も数も知れぬ女たちが遊郭に生き、死んでいった。 (文・寺島 英弥/写真・門田 勲) | ||||||
<娘身売りの時代> 世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7083人に達した」。山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです」と書いた。 | ||||||
これらはその大凶作(1934年)のころの写真。満州事変は1931年。五・一五事件は1932年。二・二六事件は1936年。 | ||||||
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写真 1 はhttp://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/panel.htmから拝借。 写真 2,3 はhttp://www.mni.ne.jp/~t44672/zibunnsi/zibunsi.htmから拝借。 | ||||||
毎日新聞2001年1月30日 |