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(回答先: Re: てすとだよ。気イ狂いそう。今度あかんかったらわしゃ寝る。おやすみ。 投稿者 染川瀝青 日時 2007 年 4 月 24 日 03:50:56)
昭和東北大凶作<娘身売りの時代>
河北新報
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe059/19991125tk.htm
特 集
時よ語れ 東北の二十世紀
(22)わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む
暗く冷たい雪雲の田んぼ道に、思い出す人ももういない、大凶作の村の「わかれっぱ」が浮かんだ。大根飯を流行語にした「おしん」の時代である。身売り同然に家を出され、辛抱を重ねて成功した東北の女の物語の陰に、おしんになれなかった無数の娘たちがいた |
高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。
東北に遊郭があったことを伝える古い和紙の帳面類。写真左の証文には、850円の借金を5年で返済するという契約が記されている |
近くの寺で「仙台睦(むつみ)之墓」という1904年(明治37年)建立の大きな墓石を見た。住職によれば、10年ほど前の墓地整理で下を掘ると、「一抱えもある石棺が現れ、累々と無縁の骨が詰まっていた」。楼主たちが建てたという墓の裏には、なぜか「慈照妙喜信女」の戒名がたった1つ。名も数も知れぬ女たちが遊郭に生き、死んでいった。
亀谷さんのお茶飲みは、遊郭が消えた後も続いたという。「そのまま近くに住み着いた女の人たちでね。長く体を痛めたから子宝はできなかったけど、好きな人と所帯を持って八十まで長生きして、みんな仏さんのところに行っちゃった」
帰りたかった古里を、「わかれっぱ」が永遠に隔ててしまったのだろうか。
(文・寺島 英弥/写真・門田 勲)
<娘身売りの時代> 世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7083人に達した」。山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです」と書いた。
1:伊佐沢村は山形県 | 2:村の身売り相談所 | 3:身売りされ救世軍に引き取られた子供達 |
写真 1 はhttp://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/panel.htmから拝借。
写真 2,3 はhttp://www.mni.ne.jp/~t44672/zibunnsi/zibunsi.htmから拝借。
http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html
この著者の家(岩手県の三陸海岸方面)は半農半漁で「まだ恵まれた方であった」そうだが、それでも年末にくる借金取りに利子さえ払えなかったこともあったという・・・