★阿修羅♪ > 社会問題4 > 671.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
証言<1>
私の8月15日展より 漫画家・「私の八月十五日」の会代表 森田拳次さん(68)
2007年8月12日
「あの日あの時、あなたは、どこで何を考え、何をしていましたか?」。一人の漫画家の問いかけで、戦争体験のある漫画家や作家らが終戦の日の記憶を“絵手紙”で表現した「私の八月十五日展」が静かな反響を呼んでいる。二〇〇三年八月にスタートして以降、全国各地を回り、十回目となる展示会を先月、県立地球市民かながわプラザ(横浜市)で終えた。まもなく六十三回目の八月十五日がやってくる。県内在住の作者に、体験を語ってもらった。
生後三カ月で旧満州に渡り、六歳のとき、八月十五日を奉天(現・中国瀋陽市)で迎えました。古い記憶をたぐりよせると、ラジオから聞こえてくる玉音放送に泣き崩れる大人たちの姿、それを戸惑いながら見つめる幼い自分にたどり着く。日本が負けたと聞かされても子供のことゆえ、危機感もなく家を抜け出し、眺めた日本人街は、不気味なほどに静まり返っていました。
次の記憶は、日本の敗戦を喜ぶ中国人でにぎわう奉天の大通りです。ゆっくりと進む馬車の荷台には数人の縛られた日本兵が乗せられていて、鞭(むち)や棒切れで殴られていました。鞭がしなるたび、見物している中国人のどよめきと拍手があたりを揺るがせるのでした。
数日後、日本人集落の周りには、中国人の襲撃を警戒して材木で城壁のようなものが築かれました。好奇心から、組まれた足場に登り、近くの工場の敷地を見ると、四人の日本兵がまさに銃殺されるところでした。日本兵の頭が首から下へガクッと傾くのを目にし、子供心に「死ぬってのは大したことないんだな」と思いました。
怖かったのは、略奪を繰り返す旧ソ連兵でした。機関銃を手にわが家へ乗り込んできたときは身がすくみました。あのころ女性たちは、旧ソ連兵の乱暴を恐れ、坊さんのように頭をそりあげ、顔に炭を塗っていました。
幸いにも敗戦の翌年、引き揚げ船に乗り、京都の舞鶴港に帰港できました。当時、娯楽といえば漫画ぐらいしかなく、また、ひもじさがしのげるような気がして、よく紙に食べ物の絵を描いていた。そんな体験もあって子供のころから漫画家を志しました。
中国や朝鮮半島に住んだ日本人は、あの八月十五日を境に追われる身となり、過酷な逃避行の途中、命を落とした犠牲者も大勢います。「私の八月十五日展」で紹介した絵と文章は、戦渦をくぐって生き延びた人々のドラマチックな一日を描いた作品であり、その一つ一つが平和な世界への道標です。
これからも年二回ほど各地をめぐって展示会を開きたいと思っています。多くの方に戦争と平和について考える機会にしてもらえれば幸いです。
もりた・けんじ 1939(昭和14)年東京生まれ。主な漫画作品に「丸出だめ夫」「ロボタン」「全ガキ連」「ミスタージャイアンツ」。日本漫画家協会賞(大賞と優秀賞)など受賞。「戦争を知らない世代に記憶を語り継ごう」と漫画家仲間らに呼びかけ、2003年8月、「私の八月十五日展」をスタート。横浜市金沢区在住。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20070812/CK2007081202040562.html
証言<2>
私の8月15日展より 森本清彦さん(72) 漫画家・イラストレーター
2007年8月14日
終戦は、今の兵庫県宝塚市の縁故疎開先で迎えました。十歳でした。
それ以前は、都内でカトリック系の小学男子校に通っていたのですが、ヨーロッパ系という理由で、学校は戦時体制から厳しく監視されていました。そのため、聖職者だった校長は、保身から信仰をかなぐり捨て、軍閥権力にすり寄っていきました。教師も危機感を持ち、そのストレスのはけ口は、常に子どもたち弱者に向けられ、必要もないのに不当な暴力を振るう。例えば、左利きというだけで問答無用で殴られた子もいて、今思い起こしても身も凍る恐怖の日々でした。
病弱だった私は、学校を休学し、自宅療養に縁故疎開などで、やがて敗戦を知りました。八月十五日当日はあまり印象にないのですが、できものだらけの栄養失調の身で、どうして死なずに生き残れたのか、ただフシギに思えてなりません。
戦後の翌年遅く、学校に復学しましたが、教師の多くは復員兵で、とてもすさんでいました。変わり身の早い校長は、今まで使用した軍国版教科書に墨を塗らせる一方、もう狂ったようにアメリカに顔を向けた教師は、いち早く、明けても暮れても野球練習ばかりを強制しました。
体力も劣る私はついていけずに、度々怒鳴られたり、傷つけられたりの、屈辱の連続でした。
子ども心にも、大人たちの変身ぶりのあまりの早さに驚くと同時に、何ら以前と変わらない本質をそこに見ました。
今、無謀な戦争をもたらした軍国主義体制や、多大な戦禍も知らぬまま、ネット上にはびこる、戦無派右翼を見るにつけ、その言動が戦前、戦中と変わりなく、当時とオーバーラップされてきてやみません。
かつてのように、弱い者、抑圧されている者が、さらにより弱い者に牙をむく図式の社会が、またも再来しているではありませんか。過去の歴史の教訓から何も学ばずに一体どうするのでしょうか。どうやって未来を語れるのでしょうか。
あの忌まわしい時代を振り返り、まさに暗たんたる思いに駆られます。
もりもと・きよひこ 1974年から79年まで滞仏。「アサヒグラフ」「週刊ポスト」連載のほか、創作絵本、アンソロジー、単行本イラストなどで活躍。日本漫画家協会優秀賞、国際ユーモア・サロン特別賞、テヘラン国際絵本原画展金賞など受賞。県内在住。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20070814/CK2007081402040850.html
証言<3>
私の8月15日展より 漫画家 猪俣昭良さん(79)
2007年8月15日
「イルボン(日本)だ」という大声に続き、人込みの中から引っ張り出されました。突き倒され、殴ったりけられたり打ちのめされた。「独立」にわく、韓国・釜山での終戦の夜の出来事だった。「もうよせよ。子どもじゃないか」という白髪の老人の一言に救われました。
当時、無線電信講習所実習生として釜山海軍特殊無線局で、ソ連の暗号を解読する諜報(ちょうほう)探知業務に就いていました。このため、現地で迎える日本の「敗戦」は、不安感をかき立てました。上官から「母親がいるなら逃げろ」と声をかけられ、脱走しました。
逃げるというのは追われるということ。憲兵か特高警察、それともソ連の国家保安委員会(KGB)か。雲をつかむような追っ手から逃げるため、暗闇の中を必死で走りました。とにかく怖かった。「イルボン(日本)だ」と見破られ、袋だたきにあうのは、「独立」にわく群衆の中に紛れ込んで町を通り抜けようとしていたときでした。どうして日本人とわかったのか…。
その後、たまたま釜山港に停泊中の日本の貨物船を見つけ、命からがら飛び乗りました。後年、漫画の世界に入り、そのときの出来事をテーマに描いたのが「釜山港脱出」です。そこには、警備隊の銃撃を浴びながら離岸するため、おのでロープを切る日本船の乗組員とその後方に潜む自分の姿があります。
帰国してから、ほとんどの人が帰っていないことを知り、「運が良かった」と思いました。多くの人はシベリアに抑留されたり、現地で亡くなったりして、日本の土を踏めませんでした。
戦後は、船舶通信士として働き、外洋航海での台風遭遇、室蘭沖からハワイ沖まで大漂流したこともあります。海上保安庁に入り、死の一歩手前の海難事故や漂流を経験しました。
漫画家に転身してからは、一枚漫画を描いています。「不沈漫画艦」では日本漫画家協会理事長賞を受賞しました。体験した海に関する作品が多い。絵に社会風刺を盛り込むことを忘れないようにしています。
いのまた・あきら 鹿児島県出身の父親の満鉄勤務の関係で北朝鮮・清津で生まれる。無線電信講習所を経て海軍無線施設で旧ソ連の暗号無線傍受の諜報探知業務。終戦後に帰国し、通信士などとして乗った船で多数の海難事故に遭遇。「人生は漂流」をテーマに一枚漫画を中心に描く。小田原市で妻と2人暮らしの79歳。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20070815/CK2007081502041118.html