★阿修羅♪ > 社会問題4 > 680.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 私の8月15日展より【東京新聞】 投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 8 月 15 日 08:19:14)
証言<4>私の8月15日展より 漫画家 小山賢太郎さん(68)
2007年8月16日
私の家は、鎌倉の海岸からほど近い寺の隣にありました。二十人くらいの兵隊さんがその寺を兵舎として使っていて、本土決戦に備えて、毎日訓練をしていました。兵隊さんの仕事に情報収集があって、わが家のラジオを聴くため、塀の外で耳を澄ませて待っていました。空襲情報を上官に伝えていたんでしょう。
鎌倉は空襲を受けませんでしたが、東京方面を空爆するときに必ず、上空をB29が飛んでいきました。その都度、空襲警報が鳴って、防空壕(ごう)へ逃げました。だから、大人たちはいつも緊張感があって、あまり子どもに構ってくれず、私は絵を描いて遊んでいました。それが漫画家の原点なのかもしれません。
ある日、夏の暑い日が静かになりました。特別な放送があるというので、いつもより多くの兵隊さんがラジオを聴いていました。六歳の私はよく分からなかったのですが、様子が変だと感じました。うれしかったのか、悲しかったのか、ほとんどの大人が泣いていました。それが八月十五日の記憶です。
翌日には寺から兵隊さんはいなくなり、「もう空襲はないんだ」と、開放感にあふれて、子ども同士で海岸に遊びに行くと、沖合に軍艦が並んでいました。水平線が見えないくらいでした。日本の兵隊さんが持っていた機関銃はわずかなのに、軍艦にはものすごい大砲。大人たちも「これじゃ勝てるわけない」と言っていたのを覚えています。力の差を知らされていなかったんです。
戦争が終わっても、日本兵が残した爆薬が爆発して、子どもが亡くなったり、手投げ弾が暴発してけがをしたり、戦争が残したもので、事故がずいぶんありました。
三年ほどたち、父がフィリピンで戦死したという知らせが来て、家族で泣きました。遺骨もありませんでした。父が出征したのは、終戦直前。もう少し戦争が早く終わっていれば、戦死しなくても済んだと思います。
今では、戦争を知らない世代が増え、戦争を美化した話が作られて、本当に悲惨な気持ちが伝わらなくなっているような気がします。戦場はもっと悲惨でしょうが、その裏にいる人だってすごい苦労がありました。もう戦争はしたくない。ただそう思います。
こやま・けんたろう 1939(昭和14)年、鎌倉市生まれ。明治学院大学文学部卒。東京証券取引所に勤めながら、東京デザインカレッジ漫画科を卒業し、漫画家として日刊紙、スポーツ紙などで活躍。作品は社会風刺の一コマ漫画や、政治・経済漫画、ゴルフ漫画など幅広い。2000年に東証を定年退職後、フリー。鎌倉市在住。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20070816/CK2007081602041378.html
証言<5>私の8月15日展より 漫画家 土田直敏さん(80)
2007年8月17日
八月十五日を熊本県山鹿の部隊で迎えました。十八歳でした。
学徒動員先の播磨造船所(兵庫県)で召集の電報を受け、京都・伏見の連隊に入営したのは、終戦目前の六月でした。まだ十七歳でしたが、異例の正規兵。その後、十代から四十代までのかき集め部隊は、外の景色がまったく見えない軍用列車で、熊本県の温泉町・山鹿まで移送されたのです。
配備された兵器は「ロタ砲」なるロケット対戦車砲。バズーカ砲の日本版ですが、誰一人として使い方を教えてくれない。本当に使えるのかどうかさえ疑問でした。
本土決戦に向け、慌ただしい軍務が続きましたが、“播磨地獄”の異名があった学徒動員に比べ、食事に困ることはなく入浴も温泉、上官からの体罰もまったくありませんでした。
連日、B29の大編隊が上空を通過し、大牟田や久留米が空襲を受け、北の空を真っ赤に染めました。八月九日の演習の帰り道、はるか西の地平線に奇妙な球形の雲を目撃しました。それが長崎の原爆だったと確信したのは、戦後何十年もたってからです。
山鹿には、グラマン戦闘機が、機上の米兵の顔が分かるほど超低空で襲ってきました。機銃掃射とともに爆弾を投下し、外にいた私は必死で身を伏せました。正気に戻ると煙がもうもうと立ち上り、爆弾が直撃した近くの民家では、赤ん坊が痛ましい犠牲となりました。遺書を書き、髪とつめを上官に提出し、半信半疑ながら最期を悟りました。
それから間もない八月十五日。拍子抜けしたように敵機が来ない。不気味な静寂の中、正午に「玉音放送」があると通達。徹底抗戦への激励だろうか。そう思いながら、いつも通り、ロケット弾を大八車で最寄り駅から火薬庫に運ぶ途中、民家から漏れるラジオの声を直立不動で聴きました。雑音だらけで内容は分からず、作業を続けました。夜になって隊内の気配で降伏を察しました。
無念でした。敗戦は夢にも思わなかったけれど、これで厳しい圧政から解放されるという安堵(あんど)感がじわっとわきました。その夜、兵士たちに会話は少なく、なかなか寝付けなかったのを思い出します。
つちだ・なおとし 1927(昭和2)年8月、京都府福知山市生まれ。京都新聞記者を経て時事漫画家に。共同通信、各新聞、週刊誌、テレビ報道番組などに描く。産経新聞の政治漫画連載は34年間、1万回余り続いた。鎌倉市在住。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20070817/CK2007081702041676.html