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大連立騒動は、そろそろ収束しつつある。潮目も変わり、風向きも自公“合体”政権に対して厳しくなりつつある。そうなのである。大連立などという時代がかった“構想”の意図は、この工作に関わった人物たちをみればよく分かる。自民党や公明党の幹部たちは事前に福田首相から“大連立構想”を聞いていたという。彼らのうち誰一人としてこれに異を唱えた節はない。そうなのだ。彼らにはおよそ民主主義的なマインドなどないのである。
私は安倍首相が参議院選挙に負けてもなお続投することに異論を投げかけた。しかし、結局はこれを是認された。安倍首相の無責任の辞任を受けて行われた自民党総裁選のやり方にも疑問を呈した。福田首相が安倍内閣の閣僚のほとんどを引き続いて任用したこともおかしいといった。このことを省みれば、このようなことを平気でやった自民党や公明党の幹部だけではなく、両党の議員にも民主主義的なマインドなどほとんどないのである。両党の議員の中には老人もいない訳ではないが、いまやそのほとんどは戦後の民主主義教育を受けてきた者である。福田首相も生まれは戦前だが、教育は主として戦後の民主主義教育を受けてきたのである。きっと真面目で素直な生徒ではなかったのだろう(笑)。
民主主義は、全体主義国家でないかぎり政治の基本中の基本である。民主主義国家では、政治の主権者は国民大衆であるということである。わが国の主権者が現在の政治状況=国会の勢力関係を作ったのである。民主主義的な政治家は、この主権者の意思を戴して政治を行わなければならない。自公“合体”政権がぜひ通したいと思っている法律案や政策案は、国民が否定したのである。それなのに自公“合体”政権は自説にこだわり、これを通すことができない国会の状況を“ねじれ”ていると考える。自民党と公明党で衆議院の3分の2をはるかに超える議席をもっていることがそう考えさせるのだろう。
しかし、自公“合体”政権が衆議院でもっている議席は、小泉首相が「郵政民営化法案」への国民投票と演出した“詐術的手法”で詐取した議席に過ぎないのである。このことに思いをいたせば、こんな議席にこだわること自体が恥ずかしいことであり、愚かなことなのである。自公“合体”政権は、もう野党の賛成が得られる政策しか実行できないのである。そう覚悟を決めれば、国会は何もねじれていないのである。「ねじれているのは、自民党や公明党の根性だ」と私がいう所以である。
野党が反対したら国民から見放されるような立派な法律案を考えればそれでよいのである。新テロ特措法案など、国民は少しも望んでいないから野党は反対できるのである。しかし、野党も参議院の数だけに頼って反対していたのではダメである。もっと説得力のある議論を展開しなければ、自公“合体”政権の憲法59条2項の再議決を阻止することはできない。私が解せないのは「アフガン戦争後、アフガニスタンではテロが多くなっているではないか」という反対論である。アフガン戦争は、アフガニスタンのテロを防止するために行われた戦争とはアメリカもいっていない。アルカイダなどが行なう“国際的テロ”を防止するための戦争だといったのである。
アフガニスタンという国を目茶目茶にすれば、治安が乱れアフガニスタン国内のテロが増えるのは当たり前のことである。それはイラクも同じことである。戦争である国の統治機構を壊しておいて、新しい秩序を作るということはそもそも簡単にできない。戦争には勝てても、一国の秩序を作ることに成功するのはきわめて稀なのである。私が問題にしているのは、国際的テロを防止するためには、戦争ではなく情報機関や治安機関や入国管理機関などの国際的協力関係の構築しかないのではないかということなのである。だからといって、カードのよる10万円以上の送金を禁止するなどといったことは児戯に等しい。またテロを誘引するような政策を止めることも肝要である。こういうことについて、迫力ある説得力をもった議論を展開して欲しい。
わが国は自公“合体”政権が実行したいと考える政策案や法律案など通らなくても少しも機能不全に陥っていない。この数年間自公“合体”政権はトコロテンのように法律を通してきたが、碌な法律はない。これは良い法律だったと国民から評価されるような法律があったら、自公“合体”政権は具体例を挙げて説明をしてもらいたい。自公“合体”政権は、“改革”政権であるという。特に小泉内閣になってからその傾向が強くなった。しかし、元(げん)の名宰相・耶律楚材(やりつそざい)の「一利を興すは、一害を除くに若かず」をもち出すまでもなく、“改革”という名のゴミが積み上げられていると国民は感じているのである。現実が少しも良くなっていないという単純な事実なのである。もう“改革という虎の威”は、通用しない。
以上を要すれば、国民は自公“合体”体制に政権担当能力があるとは思っていないのである。自公“合体”政権の本質が、“ただ政権党でいたい”という浅ましい強欲な連立政権だということに、国民は気が付きはじめたのである。民主主義国家において、政権を担当することは厳粛なことなのである。自公“合体”政権の政治家には、その厳粛なことをやっているという威厳がない。創価学会という怪しげな団体を恐れ、あるいはこれにひれ伏している政治家に、威厳など生まれる筈がない。私は、自民党の国会議員が創価学会を恐れ、これにひれ伏していった過程の目撃者である。国民を恐れるのではなく、創価学会を恐れる政治家を私は信用しない。国民を恐れない政治家は、およそ民主主義的な政治家ではない。
それでは、また明日。
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