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(回答先: 国民投票法案 あきらめないことが必要 = 救援連絡センター 投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 5 月 14 日 20:12:31)
【9条改憲阻止の会公式ホームページ】 http://www.jca.apc.org/kyujokaikensoshi/
2007年5月3日発行 第30号
9条改憲阻止の会
TEL &FAX:03−3356−9932
E−mail:kyujokaikensoshi@utopia.ocn.ne.jp
憲法の核心は権力の問題である
■ 「今日は何の記念日?」と女房に言われて誰でも戸惑った経験があるだろう。結婚記念日や誕生
日のことであるが忘れていたとて別に不都合というわけではない。記憶の多くは忘れられるものだし、それはある意味で健全なことである。今日は憲法の記念日であるが、多くの人にとってあまり関心を引かないできたし、特に意識はされないできたのが実情であろう。でも、時には記念日のことを思い出し、いろいろのことを想起することも有意義である。多分、2007年5月3日の憲法記念日は後世に記憶されるような特別な日になるかも知れないのである。
■ 日本において憲法はあまり歓迎されないできた。それは出生に秘密とでもいうべきことによる。
憲法は革命という祝祭の中で生まれたものではなかった。憲法は権力を縛り、権力を制限するものとして生まれたがそれは同時に民衆が「自由や民主主義」を手に入れることであった。憲法の誕生は権力と民衆の歴史的な関係(権力関係)を大きく変える出来事であって、人々はそれを歴史上の特別な祝祭(出来事)として記憶してきた。日本における憲法は、明治維新の記憶があり、自由民権運動があったにしても民衆の力によって生まれたのではない。どちらかといえば、時の権力が対外的に近代政体(憲法によって運営される政治形態)をとる必要があるために創設された要素が強いのである。これは大日本帝国憲法の誕生の背後にあることだが、戦後の日本国憲法にはアメリカ占領軍の関与があった。これを権力は歓迎しない理由にしてきた。権力は自らを縛る憲法をもともと歓迎しないものだが、由来というか、出生の秘密がそれに輪をかけてきたといえる。だから、憲法は権力を縛るものではなく、権力支配の道具にしようとする傾向も出てくる。
■ 民衆(ネーション)が時の権力を縛り、権力を制限するものとして憲法を生み出したものではない
ことが現在の民衆の関心を規定しているのかもしれない。だから、日本では憲法の条文ではなく由来である憲法の精神がいつも問われるのもこうした理由からだろう。僕らにとって憲法精神は歴史的記憶の中ではなく、時の権力に対する不断の異議申した運動(行為)の中にしかない。権力を開き、その力を制限する運動や行為の中にしか憲法の精神は存在しない。それは憲法の条文に魂を吹き込み、生命を与える。条文を生きたものにするのは権力を開く行為であり、そのための抵抗である。
■ 憲法は国家権力、つまりは統治権力の存在を決める。そしてこの統治権力の性格はその下での国
民にとってだけでなく、隣接する他の国家や国民にも大きな影響を持つ。統治権力が開かれ、憲法の精神が生きているなら、自国民だけでなく、隣接する他の国家や国民は安心し、信頼する。それが紛争や戦争の芽を摘む第一歩である。何故なから国家権力は他国の統治権力の不安定さや恐怖
を戦争の与件にするのだ。この与件は相互的なものだ。自国の権力を開き、憲法精神が生きていること、つまりは自由で民主主義が機能することは、隣接の他の国民にも重大事だ。(文責 三上)
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