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国会前でのハンスト座り込みもあっという間に1ヵ月半近くになろうとしている。この間、国会では「改憲手続国民投票法案」の衆院での強行採決があった。この法案は舞台が参院に移っている。そして、連休明けには参院での強行採決によって成立する趨勢にある。現在の与野党の力関係から見れば法案の成立は避けられないという情勢である。国会では憲法調査特別委員会を舞台にして憲法についての論議が重ねられてきたのであるが、憲法の問題は政党の政治的利害では扱わないということで慎重な審議がなされてきたと伝えられる。
これを破ったのは安倍首相の「任期中の改憲」発言であった。もとより、一国の首相がその国家の根本法である憲法の改定に言及することは問題ではないだろう。なぜなら、首相は一国の命運を決するかも知れない政治的判断をする立場にあるからだ。だが、そうは言ってもここには留保すべき問題もある。それは憲法が国家権力を縛るものであり、権力者の行為に拘束をかける存在であるということだ。また、憲法は主権在民を原理としているということだ。これは首相という一国の政治的判断を委ねられる存在を縛るものであり、彼が主権である国民の代表であるということを不断に自覚することを迫るものである。このことは憲法の改正は、国民の意向があって着手すべきものであるということを暗示している。
自民党という、政権を長年に渡って担当してきた党が、その中心的綱領として憲法の改正を掲げ、この党の総裁でもある首相が憲法の改正を1つの法案の改正のように語ることは異様なことだ。彼らもこのことにある意味では気がついている。そこで、この憲法がアメリカ軍によって強制されたものであるというレトリックを使ってきた。これには裏がある。アメリカによる憲法の改正の要請である。自衛隊の創設から憲法第9条の改定はアメリカの要請であり、その実現のために彼らは憲法の改正をせんとしてきた。この矛盾はアメリカの戦後支配からの脱却をアメリカの要請として行うことである。この矛盾を自覚することなく行えるのは何故か。誰しもが抱く疑問だ。それは彼らの権力観であり、憲法観のためである。日本の保守的な政治家や知識人にとって憲法は権力支配の道具であり、憲法が権力を縛るという考えはない。憲法が革命に由来するという精神を理解することも認識することもない。だからこそ、自民党が政権を担当しながら憲法の改正を綱領として掲げるという異様さに気が付かないのだ。
議会制民主主義も同じことである。それは彼らの支配のためのルールであり、精神なき形式に過ぎないのである。安倍内閣が衆院での多数を背景にして強行採決を連発するのも、憲法の改定を首相が政治課題に掲げる異様さに気が付かないのと同じである。現在の衆院での自民党の多数派形成は郵政民営化法案に対する支持の結果であって、安部首相の信任の結果ではない。まして自民党の法案の支持のためではない。安倍内閣の支持率は30%台であり、議会の員数とは一致しないのである。国民の意向を重要視するなら、おざなり審議と果ての強行採決は行うことなどできないはずだ。彼らは議会を法案成立のための形式的な装置と見なしているからこそ、こうした無謀が行えるのだ。それは彼らの常識であっても憲政の常識ではない。
「改憲手続国民投票法案」の成立を巡る問題も同じである。この法案が主権在民の発動と言うべき重要性を持つものなら、これは一般の法とは違った手続きを踏むべきものである。国民の意見が重要であり、それを汲み取る努力を手続きとして行うべきである。実際のところ国民はその内容をほとんど知らないが、その原因は審議の過程や手続きにある。国民に知らしめる手続き上の努力も工夫もなされてはいない。自民党や与党は国民が内容を知る前にこの法案を成立させたいというのが本音であろう。そう勘ぐられてもやむを得ないのが彼らの所業である。最低投票率の設定というこの法案の特殊性からか考慮さるべき最低限の事柄も無視されているが、法案成立の手続きも酷いものだ。
憲法の改定に反対する闘争が憲法精神の浸透や形成を含むものである以上、我々は国民投票法案から憲法の改定に至る自民党や政府と本質的な闘いを必要とする。それは憲法の創設に準ずる闘いである。国民投票法案を巡る攻防は憲法を巡る闘いの始めの一歩であるが、我々は長い射程を持ってそれに臨まなければならない。長い射程とは憲法の本質たる主権在民の実現を背後に持つということである。憲法第9条の改定の阻止と主権在民の実現は表裏一体のことであるからだ。
(三上治)
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