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(回答先: 死霊と死相が漂う、日本文壇政治屋 【石原 慎太郎 2,811,486 票】様への回答 新昆類 (4) 投稿者 愚民党 日時 2007 年 4 月 11 日 22:40:47)
http://plaza.rakuten.co.jp/masiroku/diary/?PageId=4&ctgy=11
2006年11月10日
小説 新昆類 (37−1) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
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大船駅西口から横浜市立場に行く神奈川中央交通のバスに乗ると、原宿交差点を過ぎ、
バスは米軍深谷通信基地沿いの道路を走っていく。深谷通信基地にはいくつもの電磁波塔
が林のごとく樹立していた。この基地の機能は、米海軍第七艦隊の艦船や、厚木海軍航空
機と横須賀の海軍司令部を結ぶことで、三十基のアンテナと五十五基の送信機で艦船に中
継送信をおこなっていた。その周りには畑であった。ふちのある丸い帽子を被った有留源
一郎は深谷通信基地手前のバス停で降りると、深谷小学校の方向に歩いていった。左手に
深谷小学校、右手には深谷通信基地のいくつも樹立している電磁波塔が見えた。
平成十八(二〇〇六)年八月六日広島原爆記念日の早朝だった。そして今日は日曜日だ
った。道路にはまだ車も走っていなければ人も歩いていなかった。有留源一郎は畑のあぜ
道を歩いていった。面前に電磁波塔がそびえている。彼は黒い肩掛けバックから虫カゴを
取り出すと、草のあぜ道にしゃがんだ。虫カゴを開けると中から茶色い昆虫が四匹飛び出
してきた。その昆虫はゴキブリとクモが合体したちいさな電磁波新昆類だった。電磁波を
体内から外に発生させる生物だった。電磁波に放射されながら飼育されたので、電磁波を
発生させる場所こそおのれが生存できる場所であると本能が起動して、草のあぜ道を新昆
類は勢いよく跳ねながら深谷通信基地の方向へと姿が消えていった。有留源一郎は八十五
歳になっていたが、意思的な後姿だった。空となった虫カゴを黒いバックのなかに戻し、
畑のあぜ道から道路に戻ると、彼は深谷小学校を過ぎ住宅地のなかを歩いていった。坂を
上り今度は左折して坂を下りていく路地を歩いていった。やがて廃墟となったドリームラ
ンドタワーが見えてきた。大きな道路に出ると下手にバス停が見えた。そのバス停の手前
に三菱ふそうの幌がある青い二トントラックが止まっていた。有留源一郎がそのトラック
まで歩いていくと、助手席のドアが開いた。有留源一郎は黙って乗り込む。運転席に座っ
ていたのはタオルを頭にまいた関塚茂だった。トラックは瀬谷の方向へと走り、相鉄線の
三ツ境駅で男をひろった。三ツ境駅から乗り込んで来たのは渡辺寛之だった。野球帽を被
りハイキングに行くかのようなの姿をしていた。渡辺寛之と関塚茂は五十三歳になってい
た。渡辺寛之はNECの早期退職に応じ、現在は高齢者相手にパソコンやインターネット
のやり方などを教える商売をしていた。
トラックは三ツ境駅から厚木街道に入り大和駅方向へと走っていった。幌に覆われた荷
台の後ろには、大き目のハイキング用ザック五個とひとつのダンボール箱のなかに一眼レ
フのデジタルカメラが五個、毛布に包まれて入っていた。荷台の前には三個のダンボール
箱が黒いゴムバンドによって、動かないように固定されていた。
大和警察署を過ぎると交差点の右側にファミリーレストランのガストが見えてきた。ト
ラックは交差点を右折してガストの駐車場に入った。時刻は朝八時前だったが、すでに真
夏の太陽はぎらついていた。渡辺寛之は運転助手席のドアを開けると、すぐさまトラック
の後ろに行き、幌を閉めているゴムバンドをはずしていった。運転をしていた関塚茂も幌
のゴムバンドをはずす。そして荷台に乗り込み、渡辺寛之に一つのハイクング用ザックと
一つのデシカメを渡した。渡辺寛之は後からトラックの後ろに歩いてきた有留源一郎にそ
れを渡した。そして自分が背負い身に付けるザックとデジタルカメラを受け取った。関塚
茂は荷台で自分のザックを背負い、デジタルカメラを首にかけると荷台の幌の中から外に
降りた。そして幌を閉めるゴムバンドを関塚茂と渡辺寛之はトラックにかけた。三人は店
のドアへと歩いていった。
ガストのドアから出てきたのは、めぐみ、渡辺寛之の妻である真知子、泥荒の三人だっ
た。めぐみは有留源一郎、渡辺寛之、関塚茂に眼を合わすことなく、先ほど関塚茂が運転
していたトラックへと歩いていった。真知子はすれ違うとき、夫の手に自分たちが乗って
きたワゴンのカギを渡した。
めぐみはトラックの運転席に乗り、渡辺真知子と泥荒は助手席に乗った。助手席には有
留源一郎が残していった黒い肩掛けバックがあった。それを真知子は座席の後ろに入れた。
めぐみが運転するトラックは大和警察署方向へと走り、厚木街道と四六七号線の交差点を
右折し四六七号線藤沢方向へと走っていった。すでに泥荒も関塚茂も鬼怒一族と有留一族
の秘密結社同盟の一員となっていた。
ガストで朝食を注文したのは有留源一郎、関塚茂だった。渡辺寛之はドリンクを注文し
た。三十分ほどくつろいで、三人はガストを出ると大和駅方向へと歩いていった。大和駅
のタクシー乗り場からタクシーに乗った。
「引地台公園までお願いします」
関塚茂が運転手に告げた。近距離は金にならないと、運転手はしかめ面で車を動かした。
朝から公園で趣味の写真とりかよ、公民館の写真サークルだなと運転手は思った。運転手
は鏡で後ろの客席の有留源一郎の顔をチラっと見ながら、この老人が写真サークルの先生
だと判断した。まったく元気で景気がいいのは年寄りばっかりだよと思った。続いて運転
手は鏡で渡辺寛之と関塚茂の顔をチラっとみた。五十歳代のこいつらは写真サークルの会
員だなと運転手は判断した。ケっ、趣味の写真かよ、日曜の撮影場所が公園かよ、まった
く金がかからない趣味だわ、こいつらケチケチしている五十歳代のサラリーマンが、夜の
街で飲まなくなってしまったので、本当に不景気だわと運転手は後ろの客を呪詛した。
引地台公園でタクシーから降りた三人は、それぞれがデジタルカメラをかまえ違う方向
へと散っていった。誰から見ても自然が好きな公園を散策する趣味を楽しむカメラマンだ
った。渡辺寛之は一時間ほど公園の樹木などをカメラで撮り、「やまと冒険の森」の方向
へ歩いていった。「やまと冒険の森」で、また彼は1時間ほど写真を撮った。それから米
軍厚木海軍飛行場の境の木陰で腰をおろし、ザックの中からビニール袋に入ったおにぎり
二個と冷茶のペットボトル取り出した。
ザックは開けたまま腰の後ろに置いた。渡辺寛之の後ろには広大な米軍厚木飛行場があ
った。ザックの中からちいさなゴキブリの群れが外に飛び出してきた。電磁波に反応し昆
虫ウィルスを体内に宿した新昆類だった。電磁波に放射されながら、日本人の精液をエサ
に飼育されてきた新昆類は渡辺寛之の子供たちでもあった。新昆類は日本人遺伝子には無
害だが白人の遺伝子をもった米国人には害悪になるだろうことを新昆類プログラム設計者
の渡辺寛之は知っていた。新昆類が宿す昆虫ウィルスは鳥インフルエンザよりも破壊力が
あった。米軍厚木飛行場の草むらで繁殖した新昆類昆虫ウィルスが米軍兵士に寄生し、新
インフルエンザとして破壊力を起動させるのは九年後の二〇一五年だった。それを鬼怒一
族と有留一族の秘密結社は2015年体制プログラムと命名していた。
渡辺寛之のザックから外に出た新昆類は米軍厚木飛行場から出す電磁波に反応し、草む
らの茂みに入っていった。夜に活動する新昆類は羽を広げ飛び、広大な米軍厚木飛行場の
あちこちに飛んでいき、ここは新昆類が生存する最高の領域になるだろうと渡辺寛之は思い、
夏草の匂いを嗅ぎながら令茶を飲みながらおにぎりを食べている。食べ終わると腰の後ろに
あったザックの中身を見たがもはや新昆類は一匹もいなかった。寛之はおにぎりを包んであ
ったラップをまるめ、ゴミ袋となったビニール袋に入れると、それをザックの中に入れた。
そして令茶のペットボトルを飲み干した。飲み干したペットボトルをザックのなかに入れ
ると、寛之はザックのチャクを閉めた。そして立ち上がった。向こうに有留源一郎が散策
しながら時折止まり写真を撮っている姿が見えた。
最終更新日 2006年11月11日 01時33分44秒
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小説 新昆類 (37−2) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
渡辺寛之が「やまと冒険の森」から外の道路に出ると、引地台公園方向から関塚茂が歩
いてくるのが見えた。空を見上げると真夏の太陽は頂点に位置していた。渡辺寛之は野球
帽の下から流れる額の汗を右手で拭くとそのまま大和駅方向へと歩いていった。有留源一
郎も関塚茂も渡辺寛之と同様に基地との境で、背負ったザックを開け、おにぎりを食べる
はずだった。渡辺寛之は有留源一郎の老体がこの暑さにやられないだろかと心配したが、
関塚茂が後ろについているから大丈夫だろうと心配を打ち消した。有留源一郎の強靭な意
志力にこの日の決行まで導かれてきたのだと思いながら渡辺寛之は大和駅に向かって街を
歩いていた。三人合わせて九十匹の新昆類が米軍厚木海軍飛行場に放されたことになる。
渡辺寛之は歩いてガストまで戻り、真知子たちが駐車場に置いていったトヨタワゴン・
カルディナを運転して、ガストの駐車場から車を出した。大和警察署を過ぎ厚木街道と四
六七号線の交差点を右折して四六七号線を藤沢方向へと走らせた。すぐ右側にファミリー
レストランのジョナサンが見えた。信号機のところで右折し渡辺寛之はトヨタワゴン・カ
ルディナをジョナサンの駐車場に入れた。そして車をロックして店に入っていった。やが
てこの店に有留源一郎と関塚茂が「やまと冒険の森」から戻ってくる手順になっていた。
渡辺寛之はドリンクのみを注文し、ドリンク・バーから氷を入れたアイスティを席に持っ
てきた。この後のプログラムは、有留源一郎と関塚茂を待ち、三人で栃木県矢板市の高原
山に向かうことだった。関東を北上するトヨタワゴン・カルディナの運転は関塚茂の任務
だった。
めぐみが運転する四六七号線藤沢方面に向かったトラックは、小田急江ノ島線桜ヶ丘駅
付近で泥荒を降ろした。泥荒は後ろの幌を開け、ザックと望遠付きデジタルカメラのセッ
ト二組を取り出し、幌をゴムバンドで閉めた。前の運転助手席のドアを開け、ザックとデ
ジタルカメラを渡辺真知子に渡した。そして自分用のザックを背負いカメラを首にかけ桜
ヶ丘駅方向に歩いていった。太陽がぎらついているので野球帽をかぶった。
泥荒は桜ヶ丘駅から鈍行の小田急江ノ島線町田行きに乗った。町田駅から小田急小田原
線に乗り換える。泥荒は座間駅で降り、そこからタクシーに乗った。泥荒は富士山公園で
タクシーを降りると、一時間ほど公園の樹木などを撮影した。富士山公園の向こうは米軍
座間キャンプ基地だった。泥荒はそこで渡辺寛之と同様にザックを開け、おにぎりを食べ
る。ザックの中から這い出してきた新昆類は座間キャンプ基地が出す電磁波に反応し、草
むらのなかを基地の方向に蠢いていった。
白い帽子の渡辺真知子がトラックから降りたのは、四六七号線と戸塚茅ヶ崎線の交差点
である藤沢橋付近だった。真知子は遊行通りを藤沢駅北口まで歩いていくと、江ノ電に乗
り鎌倉で降りた。そこでJR横須賀線に乗りJR横須賀駅で降りた。目の前はヴェルニー
公園で、横須賀本港の海が見えた。渡辺真知子は三十分ほどデジタルカメラで撮影すると、
樹の木陰の下で、ザックを開けおにぎりを食べた。海軍基地が出す電磁波に反応した新昆
類がナップザックから外に出てくる。沈黙の昆虫ウィルスを宿した生物兵器は夏草のなか
に消えていった。渡辺真知子は海を見ながらハンカチで顔に流れる汗を拭った。渡辺真知
子は白い帽子をとると、髪を潮風にさらした。気持ちがいいと真知子は感じた。渡辺寛之
の姉さん女房である真知子は五十四歳になっていた。子供はひとりだった。真知子と寛之
の子供は史彦で広島大学工学部の学生だった。ヒューマノイド専門課程を勉強していた。
史彦はひとりで山口県にある米軍岩国基地へのアタック、新昆類放出を寛之と真知子と同
じように決行するはずだった。真知子は史彦が心配だった。史彦は決行後、岩国基地から
有留一族の根拠地がある広島県広島市安佐北区白木町大字有留に帰還する手はずだった。
有留村にあるアジトこそ有留源一郎が経営していた有留鉄工所だった。大きな工場は今、
看板をはずし工場は閉鎖され鉄工の生産をしていないがその代わり新昆類が秘密に生産さ
れていた。
史彦は二十歳だった。史彦は工場閉鎖された有留鉄工所から広島大に車で通学していた。
工場は史彦のヒューマノイド研究所へと変貌していた。史彦のヒューマノイド研究はコン
ピュータそのもののロボット化だった。言語の自動書記。ロボットが文章を書き、その文
章をメールとしてインターネットから携帯電話に無差別発信する。返信された人間のメー
ルからその人間の姿態をロボットが分析し、それに見合ったメールを返信するという実験
だった。携帯電話インターネットへのヒューマノイドによる介入である。ヒューマノイド
研究所へと転換された工場には、何台ものコンピュータがインターネットと接続されてい
た。コンピュータのキーボードを打っているのはヒューマノイドたるロボットだった。そ
のロボットは人間の手のみ模倣されていた。ロボットはパソコンによるあらゆるインター
ネット掲示板にも無差別に自動書き込みをしていた。それはヒューマノイドが文章のみに
よって人間と対話する実験だった。人間の自尊心をくすぐり喜ばせたり、人間を挑発し怒
らせたりしながら、ヒューマノイドは史彦の工場からインターネットに浸透していった。
そしてすでに株式市場にもヒューマノイドは介入していた。証券会社を挑発し株誤発注へ
と誘惑し、東京証券市場売買システムの弱点を突く工程だった。ヒューマノイドによる市
場数字の操作である。渡辺史彦はすでに個人投資家でもあった。
有留村の住民からも史彦は源一郎の孫として認知されていた。村人はこの八月、源一郎
がまた旅行に行ったので孫の史彦が留守番をしていると思っている。鬼怒一族と有留一族
を継承する正統の血筋として、有留源一郎の記憶と財産を譲り受ける男が史彦であった。
有留源一郎が死ねば史彦が棟梁になることが約束されていた。岩国基地へひとりでアタッ
クすることは棟梁への試練でもあった。
史彦は鎌倉寺山猿の一群によって密かに守られていた。その頭こそラフォーだった。
めぐみが運転するトラックは、藤沢橋を左折し遊行寺坂を上り戸塚茅ヶ崎線から横浜新
道に入り新保土ヶ谷ICから横浜横須賀高速道路に乗った。めぐみは横浜新道での渋滞か
ら解放され、一挙にスピードを上げる。目指すのは横須賀だった。昭和三十九(一九六四)
年生まれのめぐみは二十一世紀の今年四十一才になっていた。夫は五十三歳の関塚茂だっ
た。藤沢市鵠沼海岸に一戸住宅の中古を買って住んでいた。子供はふたりだった。ふたり
とも娘だった。上の子は真由美、下の子は亜紀という名だった。真由美は高校を卒業する
と神奈川県庁に就職し基地対策課で働いている。米軍基地の情報は真由美から手に入って
いた。亜紀はコンピュータ専門学校に通っている。夏休みの亜紀は今、沖縄へと遊びに行
っている。海水浴などをしながら八月いっぱいは米軍基地周辺の情報収集と手ごろなアジ
トになる別荘を物色する役目だった。
めぐみは横須賀ICから本町山中道路に乗り、JR横須賀駅沿いの一六号線に出た。ト
ラックは横須賀商店街手前で左折し三笠公園に入っていく。海には三笠記念艦船があった。
めぐみはトッラクを第一駐車場に止めた。一時間四百円で二十四時間の有料駐車場だった。
三笠公園は真夏のせいか観光客はまばらだった。すばやく有留めぐみはトラックの幌を開
け荷台のゴムバンドをはずし、三個のダンボール箱を前方から荷台の後ろに移動させる。
ダンボール箱のふたが開かないように貼ってあったガムテープを引き剥がす。公園の清掃
員が近くにいないことを確認すると、ダンボール箱をかかえ、トラック荷台後ろの草むら
に持っていった。そしてダンボールをひっくり返し、中から新昆類の群れを草むらに放し
た。幌が間昼間の死角となった。めぐみはその作業を三回反復すると、空になったダンボ
ール箱を荷台に戻し、濃い草色の幌を閉めた。そして公園の出入り口まで歩いていった。
公園前道路の向こうに「海軍さんのカレー」という食堂があったので、そこで食事をする
ことにした。
三笠公園の東には米海軍横須賀基地があった。そして横須賀は米海軍原子力空母の母港
でもあった。ヴェルニー公園と三笠公園の二ポイントでの新昆類放出、三笠公園では三個
のダンボール箱から三百匹の新昆類が放されたことになる。昆虫ウィルスの宿した生物兵
器の母体は原子力空母に侵入し、アメリカ本土へと太平洋を渡航していくはずだった。原
子力空母の乗務員は五千人だった。毎日五千人の食事をつくる空母の厨房はどのホテルよ
りも巨大だった。ゴキブリが進化した新昆類はそこで繁殖するはずだった。電磁波に放射
されながら飼育され世代を更新してきた新昆類、米海軍原子力空母が出す電磁波環境のな
かで新世代が誕生するプログラムでもあった。
横浜駅西口で渡辺真知子と泥荒をひろい、湾岸線から首都高速に入り、東北自動車道へ、
そして矢板ICで降り、高原山をめざす行程をめぐみはイメージしながら、「海軍さんの
カレー」の店で食事をした。外が暑いので冷えたビールを飲みたかったが、冷たいウーロ
ン茶でがまんをした。真夏の太陽に燃えたロードを南関東から北関東へトラックで走るの
は忍耐力がいる労働だったが、夜には高原山の麓でビールが飲めると楽しいイメージでお
のれを鼓舞した。
【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度) 第1次予選落選】
最終更新日 2006年11月11日 01時28分42秒
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2006年11月09日
小説 新昆類 (38−1) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
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関塚茂が運転し有留源一郎と渡辺寛之を乗せたトヨタワゴン・カルディナは、矢板IC
を降り片岡から旧国道四号線を北上した。内川の橋を越え右折し木幡の集落に入り、木幡
神社の駐車場に車をとめた。三人は鬼怒一族が創建したのにもかかわらず、わざと坂上田
村麻呂とその系譜である源氏の神社である記録させてきた木幡神社の石段を上がっていっ
た。本殿の前で三人は拍手をひとつ打ち、ていねいに頭を下げた。
木幡神社から旧国道四号線に戻ったトヨタワゴン・カルディナは、水田稲作の田園地帯
から矢板の町に入り左手にある矢板市役所と右手にある矢板小学校を過ぎていった。交差
点を直進して塩原町方面へと走る。商店街には人が歩いていなかった。真夏のゴーストタ
ウンのようだと渡辺寛之と関塚茂は故郷を感じた。
左手に寺山修司寺へ行く道が見えてきた。渡辺寛之はその方向を感慨深く見た。郷愁が
胸をしめつけてくる。妹の恵子に最後に会ったのは昭和五十二(一九七七)年の東京、春
爛漫だった。
寛之は中学一年から中学二年に進級する春休みにその寺を出て以来、一度も帰っていなか
った。妹の恵子とも高校生までは手紙を出し合っていたが、矢板市と広島市は遠すぎた。
寛之が広島の高校から東京三田にあるNEC工場に就職してからは、恵子との文通も途絶
えていった。恵子は矢板東高校を卒業すると宇都宮大学の教育学部に入り、寺山修司寺地
元の小学校教師となった。その後、京都にある真言宗智山派総本山智積院で修行した僧を
婿にとった。恵子の婿は渡辺日義を継ぎ檀家から寺山修司寺の住職となることを約束され
ていた。寛之は寺山修司寺に住む恵子に会いたいという慕情が沸き起こったが会わないほ
うがいいとすぐさま慕情を打ち消した。成人してから恵子とは昭和五十二(一九七七)年
の春、一度だけ東京で会ったことがある。恵子は二十歳だった。寛之は二十四歳だった。
突然、寛之の職場に恵子から昼休み電話がかかってきた。
「恵子です。東京に出てきたのでお会いしたいのですが、仕事が終わってから会えないで
しょうか?」
寛之は一瞬言葉が詰まった。何年も聞いていない声だった。そして声は子供ではなく大
人の声になっていた。寛之が今何処にいるのですかと聞いたら恵子は神田神保町の古本屋
街にいるといった。書籍を探しにやってきたのだといった。いつ帰るのかと寛之が聞いた
ら上野駅発の最終でと恵子が答えた。午後は何処に行くのかと寛之が聞いたら恵子は、神
保町の古本屋街で食事をしてから日比谷公園に行ってみるつもりだと答えた。それなら午
後六時に上野駅の上野公園開札口前にある東京文化会館のホール入り口で会おうと寛之は
恵子にいった。上野なら帰る時間を気にしないですむと恵子は承諾した。
「わたしは黒いコートを着たシーンズ姿でメガネをかけています、お兄さんは……?」
恵子が質問したとき、寛之は中学生のとき恵子と別れてからの年月で胸が詰まった。記
憶の重力だった。
「おれは緑色のジャンパーを着ている。わかるから大丈夫だよ」
上野公園開札口を出てすぐ前の東京文化会館に行くと、黒いコートを着た娘が立ってい
た。上野公園入り口の歩道は春爛漫で桜吹雪が夕風に舞っていた。久しぶりと寛之は笑顔
でその娘の前に立った。恵子はみずみずしい大きなくりくりとした新鮮な目を開いて寛之
を見つめた。
「メガネをかけていないじゃないか」
そう寛之が恵子にいった。
「だってわたし小学生のときまだメガネをかけていなかったから……」
「そうかぁ……会えて嬉しいよ、大きくなったなぁ恵子……」
「お兄さんも……」そういって恵子は肩掛けバックからメガネを取り出し顔にかけた。
美しい女になったと寛之は恵子を見て思った。ジーンズの腰周りが魅力的だった。
寛之と恵子はそして沈黙した。十一年ぶりの兄と妹の再会だった。ふたりは桜が満開に
なった上野公園を歩きだした。
日比谷公園には行ってきたのかと寛之が恵子に聞いたら、探していた書籍がなかなか見
つからなかったので午後一時ごろまで神保町の古本屋街を歩いて、それから上野公園に来たと
恵子はいった。上野で美術館めぐりが出来て楽しい時間を過ごせたと恵子ははずむ声で話
した。寛之はそれなら日比谷公園で食事をしようと恵子に提案し、恵子がぜひともと承諾
したので上野駅に引き返した。山手線に乗り有楽町で降り、日比谷の森へと歩いていった。
今夜の日比谷公園はデモ隊ではなく恋人たちが歩く青春のエロスが支配していた。
大きな公園ねと恵子がいった。向こうにレストランがあると寛之がいった。日比谷松本楼
の明かりが見えてきた。二人は松本楼の店に入っていった。そして窓の席に着いた。窓か
ら有楽町方向にビルの明かりが見える。寛之はハンバーグステーキでいいかと恵子に聞き、
恵子がうなずいたのでそれを注文した。さらにお酒は飲めるかと恵子に聞き、恵子がすこ
しならと答えたので、ワイン赤を一本注文した。
二人はお互いを見つめ会いながら食事をした。そして寛之も恵子も言葉を探すかのよう
にワインを飲んだ。
「素敵なお店ね……お兄さんとこうして会え、こうしてお食事ができるなんて……
お寺からお兄さんが出ていったのは、わたしがちょうど小学四年生になるとき……」
「そうだったな、おれは広島市の中学校に転校して、見知らぬ土地で生きるのに精一杯だ
ったよ。まさかおれが捨て子だったとはな、その事実を寺山の親父さんから告げられたと
きはショックで打ちのめされたな。おれは塩原の炭焼きの子であると告げられ、本当の父
も母もおれが生まれてからすぐに死亡したという話には、自分の運命に仰天したよ、寺山
修司寺にやってきた源一郎おじさんがおれの唯一の親戚だったから、おれは広島に行くし
かないと理解するしかなかったんだ。寺山修司寺には二度と戻れないとおれは悟ったんだ。
だから広島に行っても、矢板のことは過去のこととして忘れようとした。恵子から手紙が
来たがあまり返事は出せなかった、悪いと思っている。広島の高校を卒業してNECの工
場に就職してからは毎日忙しくてな、大学卒のやつらに負けないためには仕事が終わって
も寮で電気通信の勉強もしなくてはならなかったしな、本当に恵子に手紙を書く余裕など
なかったんだ、わかってくれよ。東京で生き抜くためには、過去を切って捨て、明日へと
前進していく闘争心がないと敗北してしまうんだ。会社は今、コンピュータ事業に向かっ
ているし生き残りが工場でのスローガンなんだ。学習しない者は敗北してしまうんだ、ま
るで戦争だよ。矢板はおれにとってもう過去の共同体なんだ。東京で生き抜くためには過
去の共同体を切り捨てながら戦闘していくしかないんだ。今、会社で奨励されている職場
学習文献はクラウゼヴィッツの戦争論なんだ、おれは岩波文庫に赤線を引きながら学習し
ているよ。会社はコンピュータ事業についてこられない社員はいらないという組織方針だ
から、たいへんだよ」
寛之はワインを飲み干しながら一気に話した。
「たいへんなのね……戦争論なんてまるで新左翼の革命運動みたい」
恵子がそう応えたので寛之はほんとだと笑った。恵子も笑った。
「恵子は何の本を探しに東京に来たの?」
寛之が聞いた。
「田中正造に関する本を……今、栃木ではブームなの」
恵子が答えた。
「足尾鉱毒事件で天皇に直訴した政治家だよね」
寛之が質問すると、恵子がうなずいた。
「栃木県の近代史に興味があるの」
だから田中正造なのかと寛之は納得した。
「古代には興味がないのか? たとえば寺山修司寺の歴史とか……」
寛之は恵子の表情を読み取りながら質問した。
「矢板の郷土史も勉強するつもりよ、わたしお父さんと同じように学校の先生になるつも
りだから」
恵子が答えた。目標がある人間で安心したよと寛之は笑顔で同意した。
「寺のお義父さんとお義母さんは元気なのか?」寛之が聞いた。
「ええ、元気よ」と恵子が答えた。安心したよと寛之はワインを飲んだ。
「捨て子のおれを戸籍に入れたままにしていてくれていることには感謝しているよ。
寺のお義父さんとお義母さんに応えることは、おれがしっかり生きていくことだと思って
いるんだ」
寛之が話すと恵子は、お父さんもお母さんもわかっているわ、兄さんの様子は手紙で有
留源一郎さんからそのつど知らされてきたから、寛之は一生懸命がんばっているといつも
お父さんにわたし聞かされていたわと寛之に伝えた。
最終更新日 2006年11月10日 01時19分26秒
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小説 新昆類 (38−2) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
時刻は日比谷松本楼の閉店、夜の九時に近づいてきた。お客が帰りはじめたので寛之は、
レジで清算をしに立ち上がった。二人は松本楼の店を出て、暗い日比谷公園の森を歩いて
いく。ベンチには熱い恋人たちが溜息を外にだしながら抱擁している。日比谷はすでに恋
人たちの逢瀬の森だった。夜の恋人たちのなかを歩く恵子と寛之はいつかその雰囲気に呑
まれていった。恵子が寛之の手を握り頭を寄せてきた。酔ったみたいと恵子が吐息を出し
た。森は春爛漫、花と若葉の生殖の匂いに包まれている。
ベンチに座りたかったがすでにそこは恋人たちに占領されていたので、
寛之は恵子の手を握り樹木の中へと入っていった。
寛之は恵子のからだを抱きながら樹木の幹に押し付け、その唇を奪おうとした。いけない
…と恵子がささやいた。わたしたち兄と妹なのに…そう恵子は顔を横にずらした。
月明かりに恵子の髪が白い顔にかかっている。髪のあいだから見える紅い唇がふるえてい
る。寛之は恵子のメガネをはずし彼女のコートのポケットの中に入れた。そしてきれいだ
よと恵子の耳にささやいた。
「おれはもう寺に生涯帰ることはない、だからおれと恵子はもう兄妹ではないんだ……」
寛之は息で恵子の耳に言葉を入れた。
「そんな…」と恵子が唇を拒否する身振りをしながら腰を寛之に押し付けてくる。
寛之はついに恵子の唇を奪った。甘い感触、そして恵子のからだから甘い香りが上昇して
くる。
「会いたかった……とても……」
目を閉じた恵子のまつげが濡れ、涙が頬を伝わった。
「恵子…おれもだ」
寛之は愛しさの海におぼれ恵子を強く抱きしめた。うれしいと恵子が歓喜の息をはいた。
二人は日比谷の森を抜け、日比谷通りに出た。横断歩道を渡り、有楽町駅への道を手を
つなながら歩いていく。ビル街から春の夜風が恵子のコートを羽ばたかせた。恵子は立ち
止まった。
「寛之兄さん……」
「どうした?」
寛之が振り向く。
「帰りたくない……」
恵子は決意をこめて寛之に投げかけた。
「いいのか?」
寛之が聞くと恵子はまっすぐ寛之の顔を見てうなづいた。
「おれのアパートに泊まればいい、汚いところだけど……」
寛之は恵子の手を握ると恵子が強く握り返した。有楽町駅の時計の針は十時を刻んでい
た。
「五反田駅で降りるから……」
寛之は恵子に行き先を告げ、切符を二枚買い、一枚を恵子に渡した。
二人は有楽町駅から山手線に乗った。
「お義父さんとお義母さんは心配しないのか?」
電車が動き出してから寛之は恵子に質問した。
「わたしは宇都宮大近くのアパートに住んでいるの、寺山からは宇都宮に通えないから。
今日は宇都宮に帰るつもりで東京に来たから大丈夫。わたし、もう二十歳よ」
恵子が笑顔で答えた。そうか……と寛之はあらためて恵子を見た。
二人は五反田駅で山手線を降り、地下鉄の都営浅草線に乗り換えた。行く先は戸越駅だ
った。地下鉄の戸越駅を降りると二人は東急線の戸越公園駅方面に歩いていった。
戸越公園駅の踏み切りを渡り、商店街から右折し路地に入ると二階建ての木造アパートが
いくつも並んでいた。すこし歩くと桃源という中華料理店があった。その隣の二階建ての
木造アパートに寛之の部屋があった。恵子は寛之の後から階段を登った。ギシギシと音が
した。二階に上がり二つ目の部屋のドアを寛之はカギを回し開けた。部屋の蛍光灯をつけ、
入れよと恵子に云った。
六畳の部屋には玄関口にちいさな台所があった。そして部屋の中央には電気コタツがあ
った。
「今、湯を沸かす、寒いからコタツをつけてくないか」
寛之は恵子に云った。恵子は電気コタツのスイッチを探し、スイッチを入れると、本棚
にある本を見渡した。スチールの本棚がふたつあり、ぎっしりと本が並んでいた。電気通
信関係の本が多く、昆虫ゴキブリ生態学という変な本もあった。勉強しているのね、恵子
が云った。
「おれはウィスキーを飲むけど恵子はどうする」
わたしはお茶でいいと恵子は遠慮した。
外は夜の春風が吹いている。ガラス窓が音を立てていた。寛之は恵子にお茶を出し、自分
はグラスにサントリーウィスキーレッドを入れ、お湯割りにした。恵子は寛之の顔を見て
いる。どうしたと寛之が聞く。恵子が顔をうなだれたとき髪が額から鼻にかかった。美し
いと寛之は思った。
「わたしね、大学を卒業したら結婚するの」恵子がぽつりとつぶやいた。
「寺を守るために、京都の総本山から修行僧をお婿さんとして迎えるの」
恵子はおのれの定められた未来を語った。
「そうか……恵子もたいへんだな」寛之が同情する。
「実は……おれも結婚相手が決まっているんだ。広島の有留源一郎おじさんの長女で真知
子という人なんだけど、おれの年上なんだ。おれは有留の家で中学二年のときから育てら
れ高校も出してもらったから、有留の家に婿に入るようなもんだよ」
今度は寛之が自分の定められた未来を説明した。
いつ結婚するの? と恵子が聞いた。二年後、おれが二十六になってからだよと寛之が
答えた。
「わたしが結婚する時期と同じ頃に兄さんも結婚するのね」
恵子は電気コタツのテーブルをうつろに見ながら暗い声で云った。
「おれは高原山奥で炭焼きをしていた原住民の捨て子だからな……
本当は中卒で社会に出なくてはならなかったんだけど、工業高校も出してくれて、NEC
にも就職できたしな、寺山修司寺と有留源一郎おじさんのおかげで生きてこられたんだか
らな、おれの結婚はご恩返しみたいなもんだよ、おれが源一郎おじさんの娘と結婚すれば、
寺山のお義父さんもお義母さんも安心してくれると思うしな、定められた運命にまかせる
しかないよな」
寛之はお湯割りのウィスキーを呑みながら話した。
「重い運命……運命を裏切ったらどうなるのかしら……」恵子はお茶を飲みながら云った。
「運命を裏ぎる……考えたこともないよ」寛之はゆっくりとした口調で返した。
ふたりはやがて無言になり、沈黙の時間に風が止まった。恵子はメガネをはずし電気コ
タツのテーブルに置いた。
「運命はつながらないのね」
恵子がつぶやいた。ちいさな肩がふるえていた。その肩を寛之は抱きしめた。寛之は恵
子の体をゆっくり押し倒し、両手で恵子の黒髪を撫でながら、恵子の唇に自分の唇を重ねた。
春爛漫の若い女と男の肉体の饗宴の幕が切って落とされた。夜の帳が春の風に波打った。
恵子の選択は、寛之との一生の思い出をつくるためにあった。一夜の契りは情熱の実証と
なった。一夜の思い出を根拠地にして、女は生活者となって生涯を貫いていく。恵子の
覚悟の総量を寛之は理解できなかった。ただ恵子の服のボタンをはずしながら、脱がし、
恵子の甘酸っぱい愛の匂い、恵子の柔らかな弾んだ艶のある白い肉体に夢中となって、快
楽と身体共鳴感覚に酔い、恵子の中心への男根を挿入していった。恵子の透き通った肌に
は紫色の血管が脈を打っていた。
寛之が恵子の乳首を唇と舌で吸ったとき、恵子の生命潮流である動物的本能が覚醒した。
恵子は初めて乳首を他者の唇で吸われた。乳首こそは生物本能の処女地だった。
恵子の体に熱い血潮が底から上昇する。恵子の肉体は海流となり、海底火山が爆発へと
構え溶岩が火山口から溢れ出ようとしている。熱い溶岩こそ愛液だった。男と女は津軽海
峡だった。沈黙のなか、体は熱く燃えていた。指が曲線の山並みを愛撫していく。
最終更新日 2006年11月10日 01時14分48秒
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小説 新昆類 (38−3) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
突然、寛之は「もし、子供が出来てしまったら」という恐怖に襲われた。脳細胞の奥か
ら、明日をシュミレーションする理性と論理思考の声がしてきた。あわてて、寛之は勃起
したきんたまを恵子のおまんこから抜いた。
「できない、おれにはできない、寺山修司寺のお義母さんとお義父さんを裏切ることは、
できない。もし恵子におれの子供ができたら、おれの二の舞だ。苦労を背負う子供にな
る」
男が女とのセックスによせる恐怖はいつも妊娠への恐怖だった。男の精液と精子は
女の卵へと泳ぐ種だった。おのれの精液を女の子宮へと発射することに恐怖する、あら
かじめ男は見えない子供の誕生におのれの人生と未来が規定されていた。
ムードをだいなしにして壊した、寛之の豹変に恵子は上半身を起こして怒った。
「わたし、帰る」
「こんな夜更けに、もう帰れないよ、恵子」
恵子は黙っている。
「ゴムを買ってくる」
寛之はパンツとズボンをはき、ジャンパーを着ると、サイフを手に持ち、木製のドアで
ある引き戸を開けた。そして階段を降り、ゴム草履をはくと、戸越公園駅商店街へと走っ
ていった。あの薬屋にコンドームの自動販売機があったはずだ。
薬屋の自動販売機でゴムを購入した寛之は、急いでアパートの部屋に戻った。恵子はコ
タツに入り、横を向いていた。顔はうつむき、黒髪がかかっていた。黒いコートを羽織っ
ていた。その姿が寛之は美しいと思った。黙ったまま、勃起した男根に寛之はコンドーム
をかぶせると、再度、恵子のふるえる肩を抱き、恵子の紅い唇を吸った。そのままふたり
の上半身は畳の上に、ゆっくりと寝ていく。恵子は目をつぶったままだった。ただ寛之の
抱擁に身を託していた。運命を裏切る夜の儀式だった。かえってその不倫理がふたりを燃
えさせた。内なる肉体の氾濫、恵子は気持ちいい感官の旅に出た。夜の官能の音楽、肌の
調べ。男と女の肌の摩擦は熱帯のリズムとなっていく。ふたりは兄と妹、幼馴染だった。
倫理は肉体の饗宴とともに溶解し、夜の快楽の間口へと遊泳していった。
恵子の処女膜は開いていった。「ウッ」と叫びながら寛之は、恵子のなかで精液を発射
した。恵子は涙を流していた。その涙の意味を理解することが寛之にはできなかった。い
つも男は女の肉体の前で幼かった。爆発のあとの虚脱を寛之は恵子の上で感じていた。
寛之の重力を恵子は感じていた。いつか思い出の記憶の重力になるはずだった。寛之が
恵子のおまんこからきんたまを抜いたとき、コンドームの先に恵子が流した血が付着して
いた。
「血だ……」
寛之は声も出さず言った。処女地が流した血だった。恵子が心配になった。
寛之はテッシュで紅い血を流した恵子の中心部をテッシュでふきとった。恵子は恥ずか
しさに片手で顔をおおっていた。寛之は男根からコンドームをはずし、テッシュで包み、
ゴミカゴに入れた。恵子は泣いていた。その涙の意味を寛之は理解することができなかっ
た。
寝よう、そういって、寛之は布団を押入れから出して敷いた。そして寛之は裸になった。
布団は一組しかないので、ふたりで抱き合って寝ることになる。恵子も裸になって布団の
上に座った。恥ずかしさに後ろを向いている。背中から腰に流れる曲線に寛之は魅せられ
ていた。なんという美しい曲線だろう。女の曲線は男を美の感動につつみこんだ。女の裸、
その後ろ姿には自然の曲線美があった。男の本能は女の曲線に敏感だった。女は男の気持
ちたる心を探ろうとする。男は女の外形たる曲線を指で探っていく。男はいつも女の裸に
は関心あるが女の心と感情には無関心だった。男は女の話が聴けない、女の感情を読むこ
とはできない。男は永遠に女が理解できない。日本の女は孤独だった。
布団に入ってからも恵子は泣いていた。寛之は恵子の黒髪を撫でながら、腕枕をしてや
った。再び会い再び別れる重さが寛之の感情をつまらせた。寛之の目頭から涙が出てきた。
ふたりは泣きながら抱き合っていた。うしろを向いた恵子は、小さい声で、お願い入れて
…といった。
兄さんのを中で感じたまま眠りたいの…と恵子は哀願した。寛之は半たちのきんたまを、
うしろから恵子のおまんこに挿入してあげた。恵子は背中で寛之の胸の筋肉を感じていた。
恵子の背中と腰、それを後ろから抱く寛之、その熱い血潮の肌と肌の間から高原山の若木
が芽を出す、緑の幻視を恵子は見ていた。エロスの樹木液、そしてそのまま恵子は宇宙銀
河を思い浮かべた。星と星は出合い別れていく。女の夢は液体だった。恵子の脳内から出
た睡眠薬が身体に回り、恵子はすやすやと安心して眠りに没入していった。恵子の睡眠音
その呼吸を聞きながら寛之も睡魔にゆだねていった。
早朝五時、寛之の意識が起き出す前に、きんたまは意識とは無関係に朝勃起していた。
きんたまの朝立ちだった。恵子もまだ眠っているにかかわらず、クリトルスは勃起しめく
れあがり、おまんこは開いていた。潤滑油である愛液はそんつど奥から配給されていた。
寛之のきんたまは恵子のおまんこの中で固く膨張をはじめドクンドクンと血管から海綿体
にエネルギーが送りだせれていく。ピクンピクンと蠢動している。きんたまの自立起動は
寛之が人間であるまえに生き物、動物である証だった。恵子のおまんこも寛之のきんたま
の固い膨張にあわせ、開いていく。ピクンピクンと律動していく。愛の性器官はそれ自身
が中枢回路を持ち、脳細胞からどんな麻薬もかなわない快楽物質を分泌していた。
眠っているにもかかわらず寛之と恵子の腰は和太鼓のリズムのように、いつのまにか律
動していた。きんたまが精液を発射する寸前で、寛之は目を覚ました。あわてて寛之は恵
子のおまんこからきんたまを抜いた。そして恵子の白くまるいおしりに精液をぶちまけて
しまった。恵子のおまんこはピクンピクンと律動している。恵子はまだ眠っている。寛之
は、テッシュで恵子のおしりにかかったおのれの精液をふき取った。そしておのれのきん
たまも拭き、その上からコンドームを被せた。出勤前の朝の愛の営みが始まった。恵子も
寛之の唇と愛無で眠りから起きだした。夜よりも激情な朝の真具合、男と女の摩擦は太陽
よりも熱があった。こすれ合いを愛液が満たしていった。寛之のきんたまは恵子のおまん
こに吸引され、寛之は恵子の宇宙のなかを遊泳していった。肉体の結合に壁は溶解してい
った。どこまでも深い愛の海綿体宇宙だった。
寛之と恵子は一緒にアパートを出た。戸越駅から五反田駅まで地下鉄に乗り、五反田駅
で上野行きの山手線に乗った。通勤電車は混雑していた。離れまいと寛之はしっかりと恵
子の手を握っていた。とうとう電車は、NEC工場がある田町駅に着いてしまった。元気
でな、寛之は恵子を励ましながら手を強く握った。恵子は寛之をしかっり見つめていた。
そして手を離した。ドアが開き朝の戦争、労働者階級が外へ波のように押し出てくる。恵
子の視線は一心に寛之の背中を追いかけていた。
電車は田町駅を離れ浜松町駅へと滑走していった。さようなら、恵子は心の中で叫んで
いた。わたしは思い出を体のなかに入れ、大人の女になった、何があろうと、運命がつな
がった一夜の思い出を根拠地にして生きていける、そう恵子は強い心で思った。一期一会
という言葉は恵子にとって肉体の思想となった。故郷が思想であるように……寛之に上か
ら抱かれた重力は記憶の物質となった。
運命……あのとき確か恵子はそう云っていた。重い一九七七年の再会だった。寛之は車
のなかで煙草を吸いながら過去の妹と対話していたが、目の前にそびえる高原山に心が高
揚しおれの出自とおのれの運命を再確認した。おれは高原山の鬼怒一族なのだと……
関塚茂が運転するトヨタワゴン・カルディナは塩原町との境界付近で山縣有朋記念館へ
の道へと左折した。山縣有朋記念館が広大な山縣農場の中に見えてきた。そこは伊佐野と
呼ばれていた。後ろの席では有留源一郎が眠っていた。高原山に太陽が沈み真夏の夕焼け
が空を燃やしている。
「篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりにこもる杉にひのきに」山縣有朋
山縣農場は明治十九(一八九四)年、山県有朋に明治政府から格安で払い下げられた場
所だった。明治維新政府は全国の山地を収奪し、それを天皇と維新軍閥がおのれの私有地
にしていった。
平成十七(二〇〇五)年に有留源一郎は栃木県矢板市高原山ふもとにある山縣農場の四
百ヘクタールのうち、百ヘクタールを買収することに成功していた。農場といってもほと
んど山林だった。買収の資金は有留一族が古代から鎌倉寺山の隠し場所に蓄財してきた黄
金色の金だった。
車は上伊佐野から下伊佐野に抜け、高原山の山林に入った。そこはもう有留源一郎が山
縣農場から買収した土地だった。
「車を止めるのじゃ」と有留源一郎は関塚茂に命令した。
トヨタワゴン・カルディナは高原山の山林に止まる。
「降りるのじゃ、高原山の猿王トネリがワシらを待っている」有留源一郎が壮言な声で命
令した。三人が車から外へ出ると、猿の群れが山林から姿を現した。前に進み出た老猿は
かつてのトネリだった。
「約束は守られた。よくぞ高原山に帰還した。紹介しよう。我の後を継ぐディアラフォー
だ。我が亡き後はこのディアラフォーが、お前たちを守る」
トネリは阿頼耶識において有留源一郎の意識化の意識に告げた。
有留源一郎はしっかりとトネリの横にいるディアラフォーの雄姿を見た。猿の戦士の風
格がディアラフォーの頭上にあった。猿の群れを前にした寛之の脳裏に、中学二年になる
前の早春、寺山修司寺を去ったときの記憶の重力が起動した。関塚茂は有留源一郎と寛之
の後ろで呆然と猿の軍団と対峙していた。
有留源一郎は両手の指で結界をつくり、意味不明の言葉を発した。
「ひえだみくりや、ひえだみくりや、でぃあらふぉー、うがんせん」
疾風のように猿の軍団は消えていた。残響は山林の静寂のみだった。
高い樹木に囲まれた山道、脇道へ入ると、別荘のような建物があった。車はそこで止ま
った。車から降りた関塚茂と渡辺寛之、そして有留源一郎はゆっくりと建物の中に入って
いった。後からここへ、関塚みどりが運転し泥荒と渡辺真知子を乗せたトラックもやって
くるはずだった。高原山の麓で2015年体制への準備が開始され、静かにもうひとつの
日本が進行していた。建物のなかの一部屋はもちろん新昆類の新世代が蠢いている蚕場で
もあった。新昆類の羽は閉ざされた部屋から新世界に飛び出したくてうずうずしていた。
台所では関塚茂とめぐみの長女、真由美が夕食を作っていた。真由美は神奈川県庁の仕事
を有給休暇で休み、一足先に別荘に来ていた。
【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】
最終更新日 2006年11月10日 01時11分28秒
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2006年11月07日
小説 新昆類 (39−1) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
8
その年の十二月中旬、日曜日だった。渡辺寛之は朝から別荘の書斎でパソコンのキーボ
ードを打ちながら、「ウィルス・イデオロギー」の続編である「ヒューマノイド経済原論
」を執筆していた。それが完成すればインターネットに流し、自民党・民主党・公明党に
よる連立政権を撹乱させるはずだった。連立政権を裏で支えていたのは、今や日本のマフ
ィア暗黒王となった創価学会のフリーメーソン池田大作だった。池田大作はフリーメーソ
ン中国政府とも通低していた。地球を支配しているイルミナティは日本をアメリカの属国
のまま中国の属国にまで転位させようとしていた。
真知子は朝、泥荒を矢板駅までワゴン車で乗せていった。帰りも車で迎えに行くからと
真知子は云ったが、いや別荘まで歩いて帰るから大丈夫と泥荒は真知子の申し出を断った。
泥荒の今日の予定は矢板駅からおのれが小学三年まで住んでいた増録をめざし歩いて行き、
増録の現在の外形を体感で探るのことだった。すでにディアラ神社がある増録の山は、矢
板の扇町にある小堀建設産業から真知子が買い取っていた。その山はかつて泥荒の祖父で
ある寛の山であったが、寛が脳卒中で死んで、遺産を相続した寛の長男であるマサシが矢
板の斉藤住宅産業に売ってしまった。斉藤住宅産業は小堀建設産業に転売した。
「神が住む山を売る者は地獄に落ちる」
そのような昔からの言い伝えが豊田村にあった。
山をまるごと売ったマサシは、やがてマサシの長男の代になって田畑も借金で取られて
しまった。ノブは寛の次男であったが、マサシに寛の山と田畑の遺産が移譲されたとき、
ノブには一銭も分けてもらえなかった。寛が死んだあと、ノブの母トキがやってきてノブ
はトキの要請どおりに黙ってハンコを遺産相続放棄の書類についた。トキはそれから数年
後に亡くなった。
八十四歳になったマサシは昨年、突然狂乱し、寛が生前使用していた猟銃を押入れの奥
から取り出し、家族を皆殺しにしてしまった。マサシは家族全員を銃殺した後、豊田の家
から増録に続く山に入っていった。そして昔、ノブとテルが開墾した日向山の窪地にやっ
てきた。そこはすでに小堀建設産業の資材置き場となっていた。重機が置いてあった。マ
サシは重機めがけて猟銃を発射した。弾丸は重機の鋼鉄に跳ね返り、マサシの脳天を貫い
た。その事件は全国のニュースとなった。豊田村は謎の家族皆殺し事件の報道現場となっ
た。東京からあふれるほどにテレビ報道クルーが押し寄せてきて、豊田という固有名詞は
毎日テレビで報道された。そしてテレビ報道クルーは一週間で去っていった。それ以降、
豊田はテレビに出ることはなく、テレビの報道と視聴者の関心は名古屋で起きた次の家庭
内殺人事件へと乗り換えていった。
小堀建設産業は増録の山を、成田村の道路から入れる場所に宅地開発したが二軒しか土
地が売れなかった。増録村沿いには二軒の別荘を建てて売ろうとしたが、そこも売れなか
った。どうするか困っているときに真知子が会社に現れた。山全体を買いたいというので
最初は無理だとていねいに断ったが、真知子が示した買取価格に魅せられ、売ることを承
諾した。なによりも不況で仕事が縮小していたご時世に、運転資金としての現金が欲しか
った。昨年は六本木ヒルズの最上階にかまえる巨大外資のゴールドマンサックスから山全
体をゴルフ場として開発したいという企画が持ち込まれ歓喜していたたのだが、マサシの
家族皆殺し事件によって場所のイメージが落ち、ゴールドマンサックスからは企画が中止
になったとファックスが入り、小堀建設産業は落胆していた。それが今年になって真知子
の話がやってきた。地方は不況で荒廃し、何よりも銭という現金を求めていた。
小堀建設産業は足利銀行矢板支店が角にある旧国道四号線の交差点からJR東北本線を
渡る陸橋の手前にあった。そこは昔、増録から引っ越してきた泥荒の家族が住んでいた長
屋があった。鉄道を越えた西側につつじで有名な長峰公園があった。貸し長屋の所有者は
旧矢板高校近くに住んでいた地主だった。昭和五十二(一九七七)年、大家さんは貸し長
屋の土地と建物を小堀建設産業に売った。そのとき貸し長屋には四所帯が住んでいた。泥
荒の家族は一番端の西側に住んでいた。長男のトモユキ、次男のヨシヒコ、妹のジュンコ
は矢板を出て東京・神奈川で働いていた。テルもNTTの電話交換機を作っている大興電
器の那須工場で臨時工として働いていたが、そこを突然、解雇されてしまった。
テルは矢板にいてもしょうがない南に行けば運が開けると横浜市戸塚の笠間町にあった
ちいさな平屋の貸家に住んでいたトモユキとヨシヒコを頼り、そこから住み込みの家政婦
の仕事を見つけた。トモユキは笠間町から新橋にある印刷所に通勤していた。ヨシヒコは
兜町の証券会社に通勤していた。ジュンコは東京大田区蒲田にある病院に住み込みで働い
ていた。
矢板の貸し長屋に残っていたのは泥荒のみだった。泥荒は矢板小学校前にある塗装店で
働いていた。ノブは箒川野崎橋手前にある佐藤病院の精神病棟に入院していた。貸し長屋
の解体が決定され、小堀建設産業から退去するように貸し長屋に入居しているそれぞれの
家族は通知された。泥荒は居住権があると最後まで抵抗した。建設重機は泥荒が住んでい
た部屋だけ残し無残に屋根から壊した。一ヵ月後、最後まで居座った泥荒は、とうとう長
屋から強制的に追い出され、タンスや家財道具などはすべて重機によって破壊され燃やさ
れてしまった。記憶ある物はすべて消却されてしまった。解体と廃棄の現場には、何故か
矢板警察署からも警官が十人も出動してきた。警官は小堀建設産業が無事、解体工事がで
きるようにと阻止線を張った。やめろやめろと小堀建設産業の人間を争いのとき殴ったの
で泥荒は矢板警察署の留置所に違法占拠と傷害罪容疑でぶちこまれてしまった。社会問題
化を恐れた小堀建設産業は泥荒への告訴を取り下げた。
泥荒が処分保留で留置所から出てきたとき、かつてあった長屋の記録は完全に消却され、
更地にされ黒いアスファルトが舗装されていた。ちくしょう、今にみていろと泥荒の体に
憎しみの赤い怨念の水が沸騰した。警察沙汰を起こし、下野新聞と栃木新聞に実名で逮捕
された報道が載ってしまったので、塗装店からも解雇されてしまった。
そして泥荒は矢板を去っていった。横浜戸塚の笠間町に住んでいた兄のところにころが
りこむしかなかった。テルはノブを矢板の佐藤病院から横浜港南区にある日野病院に移す
手続きをした。テルに命じられた泥荒は再び矢板に戻り、佐藤病院からノブを退院させ、
横浜に連れてきた。そしてノブの牢獄は矢板から横浜市港南区の日野病院の精神病棟とな
った。解体され更地となった場所には、三階建ての鉄筋コンクリートによる構造物が建っ
た。新装移転された小堀建設産業の本社だった。
兄たちのところに居候しながら、泥荒は仕事を探した。横浜市戸塚職業安定所での職探
しの帰り、戸塚駅東口の商店街の路地にあるパチンコ屋でパンチコをしていたら偶然、関
塚茂に出会った。関塚茂は泥荒の事情を聞き、ペンキが塗れるんだからこっちでも塗装の
仕事がいいと戸塚にある前田塗装店に紹介してくれた。
泥荒を矢板駅で降ろした真知子は、山縣農場の隣にある山林の別荘に戻ってきた。車か
ら降りて、別荘の裏に作った小屋に行くと、新昆類は冬眠中だった。しかし夜、動き出す
新昆類もいるので野菜屑のエサは用意してある。小屋は新昆類が外と中を出入り自由にで
きるようになっている。渡辺寛之のプログラムは新昆類の野生化にグレードアップしてい
た。別荘の部屋から新昆類を山林に放ったのは今年の九月だった。そして新昆類の餌場と
して別荘の裏に小屋を建てたのである。建てたのは泥荒だった。山林に飛んでいった新昆
類は小屋の中で電磁波を発射すると、それに反応して小屋に集まってきた。
小屋の様子を確認してから真知子は別荘に入り、紅茶を二階の書斎で仕事をしている寛
之のところまで運んでいった。昼の食事を準備するにはまだ時間がある。下に降りてきた
真知子は台所のテーブルに下野新聞を置いて、自分の紅茶を飲んだ。キッチンが真知子の
書斎だった。東窓から十二月の陽光が部屋にそそいでいる。林が風に揺らいでいる。真知
子は静かな別荘の生活に満足していた。父の有留源一郎は広島に帰っている。親戚のめぐ
み夫妻は鵠沼海岸で元気に仕事をしていることだろう。正月には真知子の息子で、有留一
族と鬼怒一族の次期棟梁である史彦も源一郎と一緒にここに帰ってくる。めぐみとその夫
である関塚茂、その娘たち真由美も、沖縄で夏を過ごした亜紀も帰ってくる。真知子は来
週になったら正月用の買出しに行こうと思った。
最終更新日 2006年11月08日 00時53分17秒
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小説 新昆類 (39−2) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
真知子の運転で車に乗せてきてもらった泥荒は、矢板駅西口で車から降り、鉄橋を渡り
駅の東口に出た。末広町は再開発された街となっていた。昔、ここは日本通運の倉庫があっ
た巨大な敷地だった。矢板の農業や工業の産物はここから鉄道の貨物車によって運び出さ
れていた。しかし物流は鉄道から舗装された道路を走るトラックへと転換されていった。
その昔の面影は全部消却されていた。ただ大きな道路と区画整理された、どこにもあるよ
うな東京郊外の画一化された駅前と街になっていた。土建造成の実験場こそ故郷の壊れた
風景だった。家も土地もない借家住まいの人々は区画整理で追い出されていった。区画整
理に反対する人間は、街の発展を阻害する人間と認知されこの街から追放されていった。
批判とは近代の所産であるが、故郷とは批判を許さない全体主義に彩られた経済のみに唯
一の価値観があった。矢板駅東口、昔の末広町の記憶は壊滅していた。
泥荒は庶民の生活歴史ある街の営みと空間を区画整理で全面的に東京郊外の画一化され
た風景へと変貌させる造成思想に恐怖した。藤原不比等の造成による律令制度が全面展開
されている冷ややかで非人間的な空気が沈殿している。アメリカに突きつけられた公共事
業による内需拡大、六百四十兆円、九十年代初期から中期に展開された大規模公共事業の
ひとつの風景がここにあった。国と自治体に積みあがったものは千兆円の借金のみである。
泥荒は駅の東口から造成変貌した新しい街を歩いてみた。泥荒が毎朝毎夕、中学生の頃、
読売新聞を配達をしていたときの昔の末広町は何処を探しても皆無だった。
泥荒は踏み切りを渡り、矢板駅西口方向にある扇町の商店街を歩いてみようと思った。
踏み切りで初めて向こうから歩いてくる人間に出会った。十代の女の子だった。歩いてい
るのが十代の人間のみというのは、商店街の消費者はわずかな中学生か高校生のみではな
いか? と泥荒は思った。大人は家でテレビを見ているだけなのだろう。扇町に出るとこ
ちらの地域は区画整理という大改造がされなかったので昔の面影がそのまま残されている。
しかしいたるところで店は廃業し、看板は壊れたままで放置され店の廃屋がそのままにな
って虚無の匂いがする商店街になっている。ここも壊れた風景だった。大人はいつのまに
か道を歩くことがない慣習が形成され、商店街は廃墟となりゴーストタウンになる。区画
整理され全面的に変貌した末広町と昔のままの扇町は光景落差に歪んでいた。光景の落差
に通低していたのは黒い空洞だった。街は洞窟の墓、祠だった。理念が喪失し空洞のまま
横たわっているのは、故郷が批判する者を壊滅し街から追い出したからではないか? 泥
荒はそう思った。
矢板駅から百メートル北方向に矢板の主要商店街と末広町を結ぶ踏切があった。踏切を
越えると道路は二つに分かれ、長峰の山を登り、沢から東豊田をえて佐久山に至る道と、
中村を通り成田に出て、増録の山を迂回し矢板市喜連川町の境にある河戸を通り喜連川に
至る道路があった。増録へと至る矢板喜連川線の道こそに末広町の商店街があり町の幹線
道路だった。その道は旧矢板高校に通学する道であり、朝と夕べは高校生たちでにぎわっ
ていた。
踏み切りの近くに理髪店があった。泥荒がある日、読売新聞夕刊をその理髪店に配達す
ると、そこで働いている若い女の人が、いつもごくろうさまと紅いリンゴひとつをプレゼ
ントしてくれた。泥荒はありがとうございますと云って、その女の人がくれたリンゴを夕
刊配達が終わって、妹ジュンコと食べたことがある。おいしいリンゴだったがそれよりも
人の温もりある情が中学生の泥荒はただ嬉しかった。
その頃、人間と街と道は人が歩き活気に満ちていた。いつも夕刊配達すると赤いセータ
ーを着た幼い女の子が出迎えてくれる家があった。今はなき秋木工場の前の家だった。
朝刊配達のとき、街はまだ眠っているが、夕刊配達のときは、人と出会う。夕暮れを迎え
る街は活気に満ちていた。
夕刊配達のある三月、末広町のバス亭に増録村のマサちゃんとマサちゃんのお母さんが
立っていた。増録村に入る停留場の宮田を通る、「喜連川行き」の東野バスを待っていた。
マサちゃんは中学生服を着ていた。マサちゃんのお母さんは着物を着ていた。卒業式の日
だった。マサちゃんは中学を卒業し、遠いところへ就職していくのだろう。泥荒はなつか
しさに胸を躍らせ、二人に挨拶をした。挨拶してくれたマサちゃんとマサちゃんのお母さ
ん、あの暖かく明るさに満ちた笑顔を泥荒は生涯忘れいだろう。
増録村にいたころ、収穫祭はマサちゃんの家の田んぼでやった。ドント焼き。稲ワラを
積み上げ火をつける。パチパチと燃えるワラに串刺しのだんごを刺し、焼けただんごを子
供たちに食べさせてくれた。農村の行事はマサちゃんの家が中心だった。ワラでつくった
棒で庭を叩く「ボウジボッタレ」もマサちゃんの家から教わった。
テルはある日の夕暮れ、大声を出して、寛とケンカをした。戦前、小作人をいじめてき
た寛の悪癖は、テルへと向かった。テルが矢板の町でのニコヨン日雇い労働から帰ってく
ると、すぐ寛に呼び出され、隠居屋敷の囲炉裏で、寛にいびられた。風呂に入ることも許
されず、泥荒の一家は山道を歩いて西豊田の廣次の家に風呂をよばれに行った。とうとう
テルは隠居屋敷の裏に風呂場をつくった。しかし、水をやらぬと寛が断言したので、テル
の怒りが爆発した。テルが文句を言うと寛が怒り、テルを殴ろうと腕を振り下ろした。そ
の腕をテルはつかみ、ふたりの腕と腕は力の押し合いとなった。熱い夏だった。テルは紅
い腰巻しか身につけていなかった。長男のトモユキが縁側から駆け下り、「母ちゃん、や
めなよ」とテルの紅い腰巻に手を触れた。トモユキはテルが寛に鉄砲で射殺されるかもし
れないと危険を予測したのだった。テルは子供たちへの危険を予知し、すいませんでした
と、寛の前で土下座をした。寛は後味が悪くなり、引き上げていった。テルと寛のケンカ
の声は増録村に響き渡った。次男のヨシヒコと三男の泥荒はただじっと見ていた。そのと
きテルを助けることができなかった泥荒は、自分が無力で冷たい人間であることを重い悲
しみのなかで感じていた。敗北してもいいから強権の理不尽には決起することを、体をは
って寛と闘ったテルの力強い腕、後姿と紅い腰巻から教えられた。
寛はいつも自分が大室寅之祐王朝の近衛兵であったことを自慢していた。山県有朋に洗
脳された人間こそ寛だった。山に入り猟銃で動物を射殺するのが寛の趣味だった。弱者を
いじめ強権に奉仕し、大室寅之祐王朝への絶対服従が大日本帝国軍の掟だった。
翌日、マサちゃん家に遊びに行くと、マサちゃんの父である作蔵さんが、昨日は大変だ
ったなと、優しくいたわってくれた。作蔵夫婦は優しかった。泥荒がまだ小学校に入学で
きない幼き日、みんなが小学校へいったあと、いつも遊んでくれたのは作蔵さんだった。
作蔵さんの庭が増録村の子供たちの遊び場だった。
小学三年の冬、矢板の町に引っ越してから、泥荒は山の草や木の名前を忘れていくこと
に危機感をもった。空白の人間になってしまう。山で教えられた大切な言葉を町の生活で
忘れていく、おらは記憶喪失になっていく。泥荒は増録の山の夢ばかり見ていた。
大人になって矢板を去ってから、泥荒はよく末広町を新聞配達している夢を見た。配達
する家を忘れる夢は、俳優が舞台でセリフを忘れてしまう脅迫観念の夢と同じだった。
最終更新日 2006年11月10日 01時05分56秒
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小説 新昆類 (39−3) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
末広町は全面的に改造されていた。よそよそしいスタイルとポーズの偽装され捏造さ
れた構造が表層に漂っている。その深層にあるのは空洞である。区画整理というデスワー
クの設計思想はまるで全体社会主義国家のなせる業でもあった。二十一世紀の故郷は、歴
史が消却された非人間のヒューマノドの街へと変貌している。車が道路を疾走するばかり
で死んだ街になっている。九十年代に区画整理して大変貌した末広町、そして人は誰も道
を歩いていない。歩いているのが泥荒のみだった。もはやここで街を歩く大人は異邦人と
認識されてしまうのかもしれなかった。人が街の道を歩くのは自然であり、そこに店があ
り消費経済が生成する。歩行は経済の原点だった。末広町は車の町となり、そして道には
誰もいなくなった……人間の顔が見えない故郷に変貌していた。都市以上のよそよそしい
冷たさがあった。温もりが消え淋しい孤独な光景は歴史が消却された舗装の装いにあった。
泥荒は扇町の商店街から再び踏み切りを渡り、矢板駅東口から駅前添えにある南北に造
られた新しい大きな道路を南へと歩き始めた。歩行者のためのゾーンはあったが車両が往
来するための道路である。大人は誰も歩いていなかった。歩くものは車を私有していない
貧乏人の象徴としてここでは認知されるのだろう。道路を造る土建屋経済の成れの果てだ
と泥荒は区画整理され造成された末広町を歩きながら思った。左手西側に日本たばこ産業
株式会社の倉庫があった。矢板はたばこの葉の生産地でもあった。昔、増録にあった寛の
隠居屋敷の奥に住んでいたとき、寛はたばこの葉を乾かすため、泥荒の家族が住む部屋ま
でタバコの葉をつるした。天井はたばこの葉だらけとなり、その下で飯を食った。寛はた
ばこの他に椎茸も増録の山林で生産していた。そして趣味は鉄砲撃ちだった。山に入り猟
銃による獣狩りだった。日本たばこ産業の倉庫を過ぎると交差点があった。そこを左折す
ると泥荒が卒業した旧矢板高校がある。今の名称は矢板東高校である。その高校へ行く道
は造成された道路から行けるようになっている。全ての環境と風景が捏造されていた。日
本たばこ産業の近くにあり、ベニヤなどを加工していた秋田木材の大きな工場は閉鎖され
て消却されていた。その巨大な敷地には宅地造成され東京郊外の邸宅の街並へと画一化さ
れている。
泥荒は三十年ぶりに旧矢板高校の校庭を歩いてみた。まだ昔の面影が残っていたので安
堵した。校庭には生徒が誰もいなかったが体育館からはバレーボールを練習する女子生徒
の声が聞こえてきた。泥荒は昔、旧矢板高校に教室の黒板塗りの仕事で来たことがある。
それは緑色の黒板用塗料を下地を紙やすりで滑らかにした後、塗る仕事だった。昭和五十
一(一九七六)年の秋だった。生徒の授業がない土曜の午後から日曜にかけての仕事だっ
た。泥荒は旧矢板高校の校庭を横切り門から外の道路に出た。その道路は三十六年前に誘
致されたシャープ早川電器の工場裏に続く道だった。矢板駅の北側にあった大興電器も工
場閉鎖されその巨大な工場敷地の跡には、中心を貫く道路が造成され光景は変貌した。故
郷では巨大企業の工場しか生き残れなかったのだろうか? 時代の変遷に故郷の思想も生
き残ってきたのであろうか? 故郷の思想とは何なのだろうか? 泥荒は抽象的なことを、
かんがえながら、シャープ早川電器工場裏に至る道路を横断し、東町の住宅街を通り抜け、
新国道四号線を横断した。この道は片岡からのバイパスとしてシャープを工場誘致したと
きに造成された道路だった。それが国道四号線となったのである。矢板の商店街を走って
いた幹線道路は旧国道四号線となった。
泥荒は誰も歩いていない舗装道路を歩き中村へと入った。道路はやがて東北新幹線の下
をくぐっていく。田園から道は森林に入る。右手南側にゴルフ場アロエースの入り口門が
あった。ゴルフ場へと造成された山は多かった。昔、泥荒は二十代前半の頃、ひとりこの
山にキノコとりに入ったことがある。塗装の仕事が休みの日曜日だった。山はしかしゴル
フ場に造成される工事現場となっていた。それは畑の開墾ではなかった。山肌は重機の鋼
鉄の爪によってかきむしられ、赤土が噴出していた。それは山の赤い血だと泥荒は感じた。
木々がなぎ倒されている。無残な光景だった。無残に山の古よりの自然を壊滅して造成さ
れたのがゴルフ場アロエースだった。泥荒にとってゴルフ場の広大な緑の芝生は、ウソの
緑だった。捏造と欺瞞の緑色を泥荒は憎んだ。そこを通り過ぎると成田だった。増録が近
づいてきた。
矢板駅から増録への道を歩いてきた泥荒に、昔あった宮田という東野バス停留場が見え
てきた。宮田は三叉路の角に昔あった。矢板から来た道は宮田で右折し矢板と喜連川の境
にある河戸に入る。宮田から左折すれば成田村沿いに行く道路だった。昔、増録村に入る
のは宮田から獣道の山を越え村に入った。山を降りたところに泥荒の祖父である寛の隠居
屋敷があった。増録村の人間は寛の隠居屋敷の庭を横切り、ディアラ神社がある山を越え、
宮田に出て、矢板行のバスに乗った。矢板から帰るときは矢板で喜連川行きのバスに乗り、
宮田で降りて山を越え寛の家の庭を横切り、家に帰っていった。
寛はマサシに豊田の家と田畑だけ家督を譲ると、増録村に隠居屋敷を建て、よく遊びに
行っていた塩原温泉から、或る芸者をを妾として迎え入れ、その女と一緒に増録で暮らし
た。田畑は長男のマサシに譲ったが山だけは譲らなかった。妻のトキは豊田の家に置かれ
たままだった。豊田の家は百年の年季がある農家だった。調布市の都営住宅から、ノブと
テルは寛の隠居屋敷の奥に居候して増録で暮らし始めた。昭和三十一(一九五六)年だっ
た。寛の弟である廣次の後家に入ったミツ子に預けられていた泥荒も、テルが呼び戻し、
ミツ子に連れられ増録にやってきた。泥荒は初めて増録にミツ子に連れられ来た時のこと
を今でも鮮明に覚えている。
廣次の家がある豊田から山に入り急な山道を登ると、高い樹木に覆われたなだらかな道
が西へと続いていた。山道から開けたちいさな盆地に出ると、田畑が北から南へと細長く
息をしていた。その西はまた山だった。ちいさな盆地は山に囲まれていた。豊田から開墾
で増録に居をかまえた作蔵さんの家の脇にある農道を西に進むと、山の麓に寛の隠居屋敷
がった。隠居屋敷は瓦屋根が寺のようにひさしが反り返っていた。豊田の地主であった寛
の見栄が主張されていた。隠居屋敷は東から西に作られ、庭を横切ると山に向かっていく。
増録の人間は寛の庭を横切って山を登り、矢板〜喜連川の街道に出るのだった。山を降り
た三叉路の角に東野バス宮田停留場があった。そこからはもう成田村の豊かで広い田園地
帯だった。泥荒はミツ子に連れられ寛の隠居屋敷の庭を横切り奥に来た時、テルが喜んで
迎えた。あがれあがれと泥荒は家に上がらせられた。泥荒はすぐさま貧乏という崩壊の匂
いを部屋の暗さから嗅ぎ取った。廣次の家にある秩序がここにはなかった。泥荒の兄であ
る長男のトモユキと次男のヨシヒコがいた。ヨシヒコはノブの実家である豊田のマサシの
家に預けられテルに呼び戻され増録にきたばかりだった。トモユキはテルとともに調布か
ら増録にやってきた。テルがヨシヒコにおもちゃを与えてやれと命じた。ヨシヒコはおも
ちゃを探してきて弟がきたと嬉しそうに泥荒の手におもちゃを差し出す。泥荒をそれを握
ったが、ミツ子の行方が心配だった。いつのまにかミツ子は姿を消していた。泥荒は靴と
云った。泥荒のそばにいたヨシヒコが、おめぇの靴ならちゃんとあるから心配すんなと云
った。泥荒はなんとしても外に出てミツ子の後を追い、自分がいままで生活していた廣次
の家に帰りたかった。ここに置き去りにされることが意味不明だった。四歳の泥荒は新し
い家族の様子と周りを見ながら、ここから脱出する方法のみを考えていた。外でションベ
ン、と泥荒ヨシヒコに云った。泥荒は初めて生き抜くために人をごまかすことに成功した。
ヨシヒコは泥荒を縁側に連れていき、ほらあすこにあると泥荒の靴を指し示した。泥荒は
縁側を降り自分の靴を履いて外に飛び出した。そして泣きながらミツ子の後を追っていっ
た。泥荒の大きな泣き声は増録の盆地に響いた。それを聞いたミツ子は農道のところに立
っていた。ミツ子はしかたがなく泥荒を連れて廣次の家に戻った。廣次の家に戻った泥荒
はそこはもう自分が帰るべき場所ではないことを雰囲気で理解した。数日後、テルが迎え
に来た時、泥荒はおとなしく廣次の家から去った。増録という新しい環境に適応すること
が唯一の生存方法であると、泥荒に動物的本能の呼び声が内部から聞こえていた。
増録で生活するようになって泥荒の遊び場は平地の田園から、冒険に満ちた山となった。
そして泥荒が五歳になったとき、妹のジュンコが産まれた。テルは矢板の町に日雇いの土
方の仕事に行っていたので、ジュンコのお守りは長男のトモユキがした。トモユキはジュ
ンコを背におぶり、次男のヨシヒコ、三男の泥荒はよく作蔵さんの家に遊びにいった。作
蔵さんの家にはミノちゃんとマサちゃんがいた。ミノちゃんはガキ大将として統率し、増
録の盆地を覆う山に毎日冒険をしに行った。ディアラ神社は増録の子供たちが遊ぶ中心地
となっていた。泥荒が小学三年になった二月、家族は寛の隠居屋敷の奥から矢板の町に引
っ越すことになった。貧しい家財を積んだリヤカーを引き家族は砂利道の街道を矢板へと
歩いていった。
【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】
最終更新日 2006年11月10日 01時04分32秒
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小説 新昆類 (40−1) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
今の矢板〜喜連川線の街道はアスファルト道路を乗用車が疾走するばかりで、バス路線
は廃止されている。昔はジャリ道が田園を貫いている道路だった。向こうから犬を連れ赤
い服を着た年配の肥えた婦人がやってきた。小堀建設産業が宅地造成した家の人間だった。
田舎の人間は犬を連れて散歩などしない。都会から移り住んだ女だった。泥荒は犬をなぜ
てやった。犬は喜んで尻尾をふっている。いい犬ですね、と泥荒は犬の主人にほめてやっ
た。年配の女は笑顔になり、今日は天気がいいですね、と無防備な姿で云った。空は群青
の日本晴れだったが、一筋の飛行機雲が見えた。ケムトレイルだと泥荒は判断した。こん
なところにも米軍は日本国民の身体抵抗力を弱めるためインフルエンザ物質を空から散布
している。日本は今もアメリカの占領地だった。西には高原山が雄大にそびえていた。何
をしに来たんですか? と無防備な女が聞いてきたので泥荒は写真を撮りに歩いているん
ですと答えた。女は笑顔だが不審のまなざしを隠さず、犬を連れて田園の舗装道路を歩い
ていった。
三叉路の宮田から増録に入る山道はもうなかった。泥荒にとって増録の山に入るのは小
学生以来だった。泥荒はしかたがなく造成された家に向かった。家の横に舗装された増録
に入る道路があった。道路から泥荒は十二月の山の中に入っていった。山頂をめざしそこ
から峰伝いに歩いて行けばデイアラ神社があるはずだった。小屋のトタン屋根が見えてき
た。あれだと泥荒は確信した。藪を押しのけ泥荒はそこにたどり着いた。デイアラ神社だ
った。社である小屋の前はちいさな広場で高く広いイチョウの幹が相対で空にそびえてい
た。広場から細い坂道が街道に下りているが何年も誰もおまいりに来た形跡はなかった。
坂道の途中に鳥居があった。そこから古い注連縄が釣られていた。縄は雨風に侵食されそ
うとうに古くなっていた。参拝する細い坂道の両脇には高い杉の木が空に枝をつんざし呼
吸していた。空を仰ぐとき杉の枝に高貴な精神の営みがあった。植物情報体は山の精神を
守っていた。そこに精神史の記憶が現有していた。泥荒は坂道を降り成田村の街道からの
入り口のところにやってきた。入り口は笹で覆われていたが石があった。そこには「安永
九年干支庚子二十三夜供養」という文字が刻まれていた。泥荒は再び参拝の坂道を登り鳥
居の下で膝をおり正座をした。小屋の社殿に向かって頭を地につけ、お参りをした。
「帰ってまりました」
泥荒の腹から胸にその音声なき言葉が響き渡り、脳波から言葉は社へと波動していった。
相対するイチョウの枝葉が風に踊り音をたてた。杉の枝からひとすじの陽光がそそいでい
る。植物情報体は何も云わなかったがひたすらデイアラ神社を守っていた。その品格ある
記憶の重力に泥荒は感覚の観応によって圧倒されていた。ここに日本があった。古の日本
があった。そして泥荒は鬼怒一族と有留一族の部族であった。その力によってようやくこ
の増録の山を矢板の土建会社から買い戻したのであった。
泥荒は立ち上がり社殿の小屋の左側から再び山の藪の中に入った。そして先ほどの舗装
してある道に出る。そこを下ると増録のちいさな田畑の盆地が見えてきた。田畑は作蔵さ
んの田んぼだった。その手前に竹の林があり、竹の前には廃残物が落ちていた。泥荒の祖
父である寛の隠居屋敷の跡だった。昔、泥荒もここに住んでいたのだ。しばらく泥荒はお
の原点に立ち尽くしていた。廃墟の匂いは湿っていた。廃残物が四十六年前の記憶を呼び
戻す。泥荒の家族がこの原点から矢板の町に去ったのは、泥荒が小学三年の二月だった。
矢板の町の貸し長屋に引っ越してから一週間ほどたって、泥荒は兄と母に連れられ豊田小
学校に転校の挨拶にいった。級友が鉛筆をプレゼントしてくれた。泥荒はその暖かさが嬉
しかった。冬将軍の二月ほど人の暖かい春の灯火が感じられことを泥荒は始めて学んだ。
豊田小学校でクラスの仲間から学んだことが泥荒の原点となった。優しさである。
宅地造成された家の方から土建屋の作業服を着た男が歩いてきた。
小堀建設産業の人間だった。この山はすでに真知子の山として登記されているにもかか
わらずこの山に入っているのは、木を切り出す盗賊に来たのであろうと泥荒は判断した。
大不況のなか地方はすでに盗賊経済に突入していた。農協の倉庫からは大量の米俵が盗ま
れ、農家の倉庫からは農耕機械がまるごと盗まれていた。油断はできないと泥荒は思った。
牧歌的な田園の共同体はすでに崩壊し人心は荒廃していた。誰もが動物のハイエナのごと
く他人の財産を狙っていた。泥荒は小堀建設産業の人間にデジタルカメラを向け、風景を
撮るようにシャッターを切った。デジタルカメラの電子音が耳に響く。小堀建設産業の人
間は舗装された道路を引き返していった。
田んぼの向こうに見える作蔵さんの家は昔と変わらなかった。作蔵さんの家の年配の女
の人がこちらを不審そうに見ていたので、泥荒は農道をまっすぐに歩き作蔵さんの家のと
ころまでやってきた。
「昔、増録に住んでいた泥荒です」
泥荒が挨拶すると女の人はああと四十年前を思い出してくれた。彼女は作蔵さんの長男
の嫁さんだった。まもなく作蔵さんの長男であるノリオさんがやってきた。小柄なノリオ
さんはもう七十歳になっていた。作蔵さんとその奥さんはもう亡くなっていた。泥荒が子
供の頃よく遊んだひとつ年が上のマサちゃんは家の裏にある離れのプレハブ小屋に住んで
いた。ノリオさんの奥さんは起きているかどうかわからないと云った。いつも昼ごろ起き
だすとのことだった。マサちゃんの小屋の前に行くとマサちゃんが戸を開け顔をだした。
マサちゃんの顔は作蔵さんに似ていた。増録の子供たちが小学校に行き、まだ入学前でひ
とり増録に残された泥荒を相手にいつも遊んでくれたのが作蔵さんだった。遊び場は作蔵
さんの家の庭だった。マサちゃんはただニコニコなつかしそうに笑っていた。増録のガキ
大将だったマサちゃんの兄であるミノちゃんは、今、矢板の町の市営住宅に住んでいると
のことだった。
泥荒はマサちゃんと別れ、子供の頃、豊田小学校へ通っていた道を歩いていった。とき
おり山の中に入り、山の状態を調べた。高原山の別荘に帰ったら、渡辺寛之と真知子に報
告しなくてならなかった。しかし山の調査は一日だけでは無理であった。今日は山道のみ
を確認すればいいだろうと泥荒は判断した。渡辺寛之が進めている新昆類のグレードアッ
プ、新昆類の野生化のためには、高原山に大々的に放すことはできない。高原山は観光地
化され、有留源一郎が山縣農場から買収した山地の隣は栃木県が管理する「県民の森」だ
った。そして高原山は矢板市の職員がそのつど管理のために入っている。まだ新昆類が行
政の人間に見つかってはならなかった。そこでこの増録の山が新昆類の野生化のための牧
場として決定されたのである。その新昆類家畜牧場計画の現場責任者こそ泥荒だった。
泥荒は再び作蔵さんの家に行く東側の脇道まで戻った。そこから豊田にある廣次の家に
行く山道に入る。この山道は泥荒が四歳のときミツ子に連れられ、初めて増録に来た山道
であった。ミツ子と廣次は七十年代初期に亡くなった。真知子が購入した山は増録から成
田への西側の山であり、この増録から豊田への東側の山は他人の山である。その山は豊田
の人間がまだ持っていたが、いずれここも買収できれば、新昆類家畜牧場はより広大に展
開できると泥荒は判断した。静寂でなだらかな細い山道だった。そこから急な坂を下ると
広大な田園風景の豊田が見えてきた。
泥荒はその昔、四歳まで世話になった廣次の家に寄ってみた。廣次の家に、廣次の娘で
あるトモちゃんの婿に佐久山から入ったカツトシさんがひとり住んでいた。カツトシさん
は泥荒に上がれとすすめ、お茶を出してくれた。廣次の家は寛の長男が継いだマサシの家
を本宅と呼んでいた。その本宅のマサシが一家皆殺し銃殺事件を昨年起こしたのである。
「本宅があんな事件を起こしてしまってなぁ……テレビで豊田も有名になってしまった、
ハハッハ……おら、外にも出ずひっそりと暮らしているだよ。おらもう八十歳だんべ……
女房のトモエも二十年前に死んでしまってなぁ……長男のトシオは十年前にトラックで交
通事故を起こして死んでしまったし…トシオの借金一千万がおらの肩にのしかかってきた
っぺ……おら、やっとこさ、その借金、払い終わったとこだんべ……おらの人生、何もい
いことながったんべよぉ……しかしよぉ、おらぁ、土地だけは意地でも売らなかった。百
姓が田んぼや山を売れば地獄に落ちる……本宅がいい見本だんべ……それにしても本宅の
マサシさんは何であんな事件起こしてしまったんだんべ……」
カツトシさんは、お茶をすすりながら話した。カツトシさんの楽しみは嫁いだ長女のヨ
リコと次女のキミコが子供を連れて帰って来てくれることだった。泥荒は今来た山道、増
録の西側から豊田にかけての山の所有者を教えてくれと聞こうとしたが、いきなりそれは
まずいと判断し、聞くのをやめた。その代わり、どうも子供の頃はお世話になりましたと
頭を深く下げ感謝の礼をした。カツトシさんは笑顔だったが、何故、泥荒が突然訪問して
きたのか不審の目をしていた。カツトシさんは八十歳には思えぬほど意志力がみなぎり身
体からは垂直の背骨を感じさせた。泥荒はこれからカツトシさんの家族の墓参りをして矢
板に帰りますと云って、玄関を後にした。そしてふと、あの山の一部の所有者にカツトシ
さんもなっているかもしれない思った。
最終更新日 2006年11月07日 05時52分50秒
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小説 新昆類 (40−2) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
廣次のあとを継いだカツトシさんの家から泥荒は北へと歩いていった。豊田集落を北から
南へと貫く道路だった。太陽が昇る東側を見ると田園のなかに那須与一を祀った湯泉神社
があった。湯泉神社は那須国の神社だった。新しく建て替えられたばかりだった。泥荒の父
ノブの兄であるマサシの家は没落し壊滅していったが、この集落は金を持ってると泥荒は判
断した。金がなければ神社など新装できない。空を見上げると、米軍によるケムトレイル見
えた。飛行機雲を出しながら高原山の方向に銀色の米軍C135空軍機が飛んでいく。そし
てひとすじの飛行機雲は拡散していく。インフルエンザを引き起こしてしまう物質を散布し
ているのである。明日の朝にはその物質がこの豊田にも落ちてくるだろう。そして人はイン
セルエンザ風邪にかかってしまうのある。まずやられるのは朝、歩いて登校する子供たちだ
った。そしてインフルエンザは子供から親に伝染していく。どんな田舎の空であろうとそこ
は米軍の制空権にあり、米軍は好きなように物質を散布し、好きなように実験しているので
ある。実験対象のモルモットは日本人でった。日本人は日本列島という牧場に飼われた家畜
でもあった。
三叉路だった。西への道は集落の寺である浄光院への小道だった。三叉路の角には昔、
高い半鐘があったが今はない。北側にある家は泥荒の幼馴染の家だった。豊田小学校から
の帰り、よくこの家に寄り遊んだ記憶がよみがえった。さらにこの家の近くの家に、小学
二年のとき、ノート代にあと五円足りなくて借りに行ったことがある。その朝、泥荒はノ
ートを買う金が足りなくて、増録からミツ子に頼もうと廣次の家にやってきた。ミツ子は
いなかった。ノート代は二十円した。手元には十五円しかなかった。廣次の家にミツ子は
いなかった。しかたがなく泥荒は豊田小学校への道を歩いていった。そのとき向こうに女
の人が見えたのである。その家は三叉路の手前の奥にあった。ちいさい家だった。
「すいません。ノートを買うのにあと五円足りないんです。貸してくれませんか?」
泥荒は一生懸命に頼んだのである。泥荒はノート代のことしか考えていなかった。やが
てミツ子がやってきた。女の人はほら来たよといってミツ子が向こうから来たことを教え
てくれた。ミツ子は泥荒を廣次の家の近くまで連れていった。風を遮る杉の木が立ってい
た。ミツはここで待っていろと泥荒に云った。ミツ子は廣次の家から戻り二十円を泥荒の
手に渡した。哀れと悲しみのミツ子の表情があった。記憶は重力でもあった。
泥荒は冷たい人間だった。ミツ子が死んだのは昭和四十九(一九七四)年三月五日だっ
た。そのとき矢板にいてシャープの下請けの電器製造会社に勤めていた泥荒は、母テルと
一緒に廣次の家まで、親戚の人の車に乗せられ通夜に行った。次の日は葬式だった。お茶
を飲んでいるとき、泥荒は廣次に「おまえは冷たい人間だ」と言われたのである。泥荒は
ミツ子が入院しているときに見舞いに行かなかったからである。子供の頃はあんなにもお
まえのめんどうをみたのに、おまえは成長してからミツ子に冷たかった。何の恩返しもし
なかったと、そう廣次は泥荒に言おうとしたのである。泥荒は頭を垂れるしかなかった。
廣次はミツの後を追うようにしてその年の十一月二十五日に亡くなった。
泥荒は浄光院の門をくぐり、山に隣接した高台にある墓場まで歩いていった。そして廣
次の家の墓を探した。廣次の家の墓はそこにあった。線香を持っていなかったので泥荒は
寺で分けてもらおうと思い、寺の玄関から、すいませんと声をかけた。出てきたのは美し
い二十歳くらいの乙女だった。お参りに来たのですが線香がなくて……すいませんが少し
分けてもらえませんでしょうか? と、ていねいに娘に頼んだ。娘はこころよく線香を持
ってきてくれた。泥荒ていねいに頭を下げ、そして水桶に水を入れ、廣次の家の墓を洗い、
線香を燃やした。いままでこれなくてすいませんでした。お許しくださいと墓の前で手を
合わせた。墓には廣次とミツ子そしてカツトシさんの妻トモエさんとカツトシさんの長男で
あるトシオちゃんの名前が刻まれていた。
泥荒は水桶を寺の設定場所に戻し、再度、寺の玄関ですいませんと声をかけた。娘が出
てきた。お坊さんにあいさつをして帰りたいのですがと頼むと、娘は部屋の奥におとうさ
んと呼びかけた。寺の裏から住職が普段着で下駄をはいて出てきた。住職は泥荒の兄であ
るトモユキの同級生だった。トモユキちゃんは元気ですかとなつかしく嬉しそうに住職が
聞いてきたので、泥荒は兄は元気にやっていますと答えた。それからありがとうございま
したと住職に礼を言って御辞儀をして浄光院を後にした。
次に泥荒が向かうところは、マサシの家だった。マサシの家は浄光院入り口の三叉路に
戻りそこから豊田小学校方向の北に歩いていくとそこにマサシの家の入り口の道があった。
家は山を背にした西側である。道の東側は佐久山に行く街道沿いの西豊田まで田んぼが広
大に続いていた。ここは関東平野の最北端でもあった。マサシの家には誰も住んでいなか
った。廃墟である。この家を新築したのはミツ子と廣次が死んだ年だった。以前はもっと
奥にある百年もたったからぶき屋根の古い江戸末期の農家だったが、そこを打ち壊し、西
豊田集落の南北を貫く道路の近くに屋敷をかまえた。庭の中央で泥荒は屋敷を見ながら立
ち尽くしていた。十二月の風が廃墟に舞っていた。山と田畑をすべて売った屋敷には、そ
して誰もいなくなった。
最終更新日 2006年11月07日 05時49分59秒
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