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(回答先: 死霊と死相が漂う、日本文壇政治屋 【石原 慎太郎 2,811,486 票】様への回答 新昆類 (5) 投稿者 愚民党 日時 2007 年 4 月 11 日 22:51:13)
http://plaza.rakuten.co.jp/masiroku/diary/?PageId=5&ctgy=11
2006年11月06日
小説 新昆類 (40−3) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
泥荒は舗装された道路に戻り、すこし北に歩いた四つ角から農道に入り、かつてノブの
実家で、マサシによって取り壊された寛の家の跡地から山に向かったが昔あった道はすで
になかった。寛の家の跡地は小堀建設産業の資材置き場になって重機があった。マサシは
山のみならず平地も小堀建設産業に売ってしまっていたのである。平地と山の境界には不
気味な樹木が白い枯葉をつけていた。真知子が小堀建設産業から買収したのは増録の山の
みであって、ここらは小堀建設産業の私有地のままだった。
泥荒は道なき山の中に藪をかきわけ入っていった。登っていくと、馬頭観音の石碑があ
るところまで来た。ここから東に降りていけば豊田小学校に向かう道にでる。その道は西
豊田集落を南北に貫いている幹線道路である。太陽が沈む西へ行けばちいさな盆地の増録
の集落に出る。豊田に出る下り坂の北側には祠があった。そして村人の墓場も山にあった。
馬頭観音の石碑は山の頂点にあった。
そこは日向山と呼ばれていた。南にすこし登ると、昔、ノブとテルが畑に開墾した場所
に降りられるがそこはもう畑ではなく、ここも小堀建設産業の資材置き場であの重機が置
いてあった。マサシが死んだ場所である。泥荒はそこに立ち尽くすと右手をかざし念仏を
唱えた。マサシとその家族への鎮魂である。日向山には誰もいなかった。増録への山道を
降りていくと電磁波のうなる音が聞こえてきた。北側の山の中に携帯電話の電波中継鉄塔
があった。電磁波を発している場所が近くにあることは新昆類が山で野生化するのに都合
がよかった。増録の山で電磁波実験が出来るからである。増録の山で電磁波を出しても、
空を管理している米軍は、その電磁波の出所がこの携帯電話の電波中継鉄塔からであると
錯覚してくれるだろう。真知子が買収した山の周辺もよく調査することが泥荒の仕事でも
あった。しかし今日は昔あった山道が現在どうなっているかを調べるのが目的だった。山
道を調査するのも一日だけでは無理だと泥荒は判断した。すでに午後四時になっていた。
泥荒は増録への山道を急いで下っていった。
「父よ、何故あなたは狂ったのだ」ふと泥荒の脳裏に父ノブの面影がよぎった。父が発
狂したのは調布の都営住宅に住んでいた頃だった。調布飛行場の爆音が、ノブが勤めたい
た大田区大森の軍需工場への米軍B29による空爆、その無惨な工場壊滅の記憶を呼び出
したのだろうか。ノブはそのとき助かったが、一緒に集団就職で野崎尋常小学校から就職
した同級生は死んでしまった。昭和二十(一九四五)年一月にノブのところに陸軍宇都宮
連隊へ入隊しなければならない赤紙がきた。ノブは工場の従業員に送られ郷里へと同級生
より一足先に帰った。そして宇都宮連隊に入隊した。
その年の四月十五日〜十六日、京浜工業地帯へのB29による大空襲があった。それは
米軍第二十一爆撃機集団司令部一九四五年四月十四日付作戦命令第五号による空爆だった。
米軍の攻撃目標のひとつは第九十・十七-三六〇一区(現・大田区大森町・平和島付近)
東京市街第二地域でそこは米軍第七三航空団が担当した。
その日は川崎も空爆された。軍需産業を数多く抱える京浜地区は米軍の空爆によって壊
滅されてしまった。ノブは宇都宮連隊に入隊していたゆえに、京浜地区への大空襲からま
ぬがれことができた。終戦になりノブは宇都宮連隊の解散によって豊田に帰郷した。そし
てすぐ、大森の軍需工場で死んだ級友の線香をあげにいった。そのとき冷たい視線をノブ
は家族から浴びた。
「おめぇだけぇ生き残りやがって、ちくしょう、このくたばりぞこない野郎」
鬼の顔でノブに石を投げる老婆がいた。その夏の日からノブは豊田で無口になり、ただ
ニコニコ笑って、自己主張しないごまかす人間になった。ノブにとって戦時中より戦争が
終わってからの方が世間様は地獄だと思った。そしてすぐ占領軍指令による農地解放令が
やってきた。ノブは地主の家から没落の家に住むことになった。ノブの父である寛と母で
あるトキは昔の地主だった頃の繁栄を暗い囲炉裏でなつかしむ人間となった。自ら農作業
をあまりしたことがなく働くことが嫌いな地主階級はひたすら戦後、没落し世の中に遅れ
ていくしかなかった。それでもノブの実家は山を持っていたが、それもマサシが売り、と
うとう田畑まで全部売ってしまったのである。今、ノブが産まれた本宅は廃墟となり、そ
して誰もいなくなった。
ノブが死んだのは横浜市瀬谷区にある横浜相原病院だった。死因は心室細動、慢性硬膜
下水腫。ノブは横浜市港南区にある日野病院の精神病棟から転送され、横浜相原病院で息
をひきとったのは平成八(一九九六)年六月十六日午後0時三分だった。泥荒はそのとき
イタリアのミラノへ昆虫研究のため渡辺寛之と一緒に行っていたので臨終には会えなかっ
た。兄のトモユキとヨシヒコがノブの最後に立ち会った。ミラノの街で食事をしていたと
き、歯が欠けた。そのとき泥荒はノブが死んだと思った。泥荒がミラノから成田空港に降
りたとき、すでにノブの葬式は終わっていた。おれは冷たい人間だとあらためて泥荒は自
分を認識した。ノブは七十一歳であの世にいった。ノブは人生の半分を精神病院で過ごし
た。発病したのは第二次世界大戦が終戦しやってきた意味不明の戦後だった。精神史の敗
北をノブは人生において受苦し、身体の牢獄から世間様の転移を見てきたのである。発狂
してきたのは精神病棟の外側の世界であったのかもしれない。人はかろうじてバランス感
覚でおのれの精神を保持しているに過ぎない壊れ者としての人間である。おのれを発狂世
界の日常で制御するバランス感覚が失った人間は精神病棟へ送還されていく。これが市民
社会の秘密だった。
先月の十一月、泥荒は母テルに会いにいった。テルは八十六歳になっていた。テルは埼
玉県比企郡にある森林公園近くの病院に躁うつ病患者として入院していた。入院費は自分
の年金でまかなっていた。テルは矢板にいたとき、南に行けば運が開けるとよく言ってい
た。しかしここも南の海はなかった。父の治之助、母のサヨの故郷である広島からここは
あまりにも遠かった。泥荒が有留一族と鬼怒一族の構成員になったのも、祖母のサヨが広
島市の山である鎌倉寺山、その麓の村である有留で産まれ育ったからもしれないと、泥荒
は血の継承と運命を感じる。
病院に面会に行くと、車椅子に乗せられたテルは若い看護婦に付き添われ、精神病棟の
面会室までやってきた。看護婦がどの息子さんと聞くとテルは右手の指を三本突き出した。
泥荒が三男の息子であることを指で表示したのである。テルの脳回路はまだ鮮明だったが
言葉は一言も出さなかった。唇は固く結んだままだった。テルは目を見開いて泥荒の顔を
見る。動物的本能の母の臭覚でテルは泥荒の表情と身体から現在の生活状態の情報を感覚
で読もうとしていた。テルは泥荒が何かおそろしいことを企てているのではないかと知覚
した。看護婦は、帰るとき声をかけて下さいと面会室から出て行った。面会は決まりで三
十分間だった。
「母ちゃんがここを出るから、おまえがこの病院に残れ」
テルは歯が抜け固く閉ざしてきた唇を動かしゆっくりと断固した決意の言葉を発した。
さすがは困難を切り開きながら家族を生存させてきた母の動物的生命力と精神力であると
泥荒はテルを見た。テルはまっすぐなまなざしで泥荒を見定めている。泥荒はニガ笑いを
して話を切り替えた。
「おふくろ、いいか、百歳まで生き抜くんだぞ」
泥荒は両手十本の指を広げテルに云った。そしてテルの左手を握った。テルが強く握り
返す。今度はテルの右手を握り、あいた手でさすってやった。テルの表情がなごんできた。
母と息子に会話する話題はなかった。泥荒は三年前に妹のジュンコが四十六歳でガンで死
んだことはまだテルに告げられなかった。ジュンコはテルの娘だった。ジュンコが死んだ
ことを動物的本能で知覚したテルは三年前から言葉を忘れたかのように唇を固く閉ざした。
それじゃぁ、また来るから、がんばってねと泥荒はテルのまなざしに何回も別れを告げ、
精神病棟の扉の外に出た。泥荒にできることは二ヵ月に一回、テルに会いに来ることだっ
た。
泥荒は病院の駐車場に置いてあった自転車に乗った。その自転車は東武東上線の森林公
園駅から乗ってきたレンタル自転車だった。自転車が大きな道路に出ると左右は田園風景
だった。風はそれほど冷たくはなかった。風景に十一月の意味があった。今度は右折して
車が多い道路を疾走していく。左側のちいさな丘に神社があった。次の四つ角を左折する
と右側に骨川中学校が見えてきた。そしてまた自転車で走る。泥荒は汗ばんできた。大き
な道路に出る。そこを横断すると森林公園の入り口がある。そこからは駅までサイクリン
グコースだった。ところどころに平和をモチーフにした家族の像が立っている。そして空
を見上げると、埼玉県森林公園の上空には、米軍無人ヒューマノイド飛行機によるウィル
ス散布、ケムトレイルの飛行機雲が生成していた。泥荒は日本列島の植物にウィルスを蓄
積するのが、あのケムトレイルの目的ではないかと判断した。在日米軍は、米国軍産複合
体と国防省によって開発された新機種を、ケムトレイル実験のために投入し、日本列島上
空を自由自在に飛行させている。日本国民は牧場に飼われた実験動物とされていた。
日本でガン死亡率がトップなのは、在日米軍機によるウィルス散布であった。それを日
本政府とマスゴミはタバコ喫煙に原因があると日本国民を洗脳している。「喫煙撲滅」を
世界で展開している世界保健機構もイルミナティ機関だった。春の花粉症もスギの花粉に
原因があるのでなく、真犯人は米軍機によるウィルス散布、ケムトレイルだった。日本ば
かりでなく、世界各地でケムトレイルは軍事作戦として展開されていた。
鳥ウィルスの発生は米国宇宙軍によるケムトレイルが原因だった。すでに米国宇宙軍は
気象兵器、地震兵器を開発成功させ実験していた。フリーメーソンが上部機構に浸透した
フリーメーソン中国政府も、有人宇宙船「神船」を成功させ、2010年までに中国宇宙
軍を創設しようとしている。そして日本を裏で管理コントロールするのは、マフィア暗黒
王となったフリーメーソン池田大作だった。世界は全面展開として2015年体制に向か
っていた。重要なのは一点だった。その一点こそ、「もうひとつの日本」である鬼怒一族
と有留一族の人知れぬ事業の営みだった。一点を防衛できぬ者は、世界管理機構によって
人間牧場で飼育される屠所の群れになるはずだった。飼育された人間は日常に疑問を持た
ない。携帯電話と結合、見えない電磁波の鎖につながれ、飼育された人間こそ、世界牧場
の現代人だった。そして今、縄文以来の日本の野と山、森が米国宇宙軍によるウィルス散
布によって死滅しようとしていた。山岳修験道は防衛として復活するだろうか……
「ハハの国としての海と山」
米国宇宙軍と2010年に創設される中国宇宙軍に抵抗できるのは、ただ一点だった。
縄文の思想による昆虫情報体、「新昆類」だと泥荒は確信している。
「野に伏し、山に伏し、我、新昆類とともに在り」
泥荒は事業成功への強い自覚をもった。
【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】
最終更新日 2006年11月07日 05時15分34秒
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2006年11月01日
小説 新昆類 (41−1) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
エピローグ
十二月の山道を歩いていた泥荒はテルのまなざしの意味をかんがえていた。やがて山道は南北に走るちいさな盆地に出た。山に囲まれた増録のちいさな田園風景である。道はここで二手に分かれる。ひとつは西側で今は消却された昔の寛の隠居屋敷への道で、道沿いに誰も使用していない別荘が二軒建っている。小堀建設産業が建設し売りに出した別荘だが買い手はいなかった。もうひとつの道は東側で、亡くなった作蔵さんの長男であるノリオさんの家に至り、喜連川の河戸へと続く道だった。泥荒の原体験こそこの増録の開墾された田んぼとそれを囲む森林だった。田んぼは稲刈りが終わる秋、一面に野草の花が咲いた。その花畑で子供たちは遊んだ。山に入ると植物の豊穣の海だった。台風が過ぎた山は雷によって木が裂かれていた。山のくぼ地には大雨によって湖が出来ていた。人は自然から学習していった。貧しかったが素朴で美しいものがかつての里山にはあった。変貌したのは人間とその環境だった。
泥荒は東側の道を歩いていった。ノリオさんの家の脇を通るのだが庭にはノリオさんの奥さんがこちらを不審の目で見ている。おそらく泥荒が財産を盗む人間であると判断していることは泥荒にも感じてくる。増録は本宅のマサシが山を売ってから開発業者に荒らされてきた。それで警戒の糸を張り巡らせているのだ。泥荒はお辞儀をしてまっすぐに歩いていった。やがて左側の山沿いに西豊田集落の共同茅場が見えてきた。ここは屋根をふく茅を育てていた場所だったが、いま茅の屋根の農家はほとんど皆無となっている。右側には泥荒の遠い親戚の農家と田んぼがあった。やがて泥荒は三叉路に出た。直線をそのまま行けば喜連川の河戸へと至り、左折すれば西豊田へと至る道だった。泥荒は河戸への道を歩いていく。田園風景の田んぼには東京電力が首都圏に電気を送る送電線の鉄塔が東京に向かって並んで建っている。冬の太陽は沈みかけている。河戸の商店である加藤雑貨店の四つ角に着いたのは午後五時近くになっていた。子供の頃、泥荒は増録からこの加藤雑貨店にテルにいわれ味噌や醤油、塩などの買い物に来たことが何度もあった。加藤雑貨店が今でも店をやっていることに泥荒には感銘した。記憶の店は現有していた。
そこから泥荒は矢板へ至る道へと右折した。右側の山に加茂神社があった。ここが増録から河戸に至る山並みの南端となる。泥荒はその山を囲む道を歩いてきたことになる。加茂神社は大きな神社だった。石段の前には神社を守る人家の小屋があった。泥荒は石段を登り社殿に参拝してみた。社殿の裏から山の頂へと続く細い山道が残存している。社殿の境内から下がった東側の場所に神輿が奉納されている社があった。しかし戸は風によって壊れ、神輿のところに倒れている。長いこと修復もされていないのは、祭りが途絶えたからであろう。泥荒は加茂神社の石段を降り、人家の小屋に明かりがついているので窓から声をかけてみた。窓から顔を出したのは一人暮らしの老いた男であった。人の良い顔をしていた。この老人とは知合いになっていた方がいいだろうと泥荒は判断した。山のことがいろいろ聞けるからである。
「神社の写真を撮りに来ました。旦那さんもひとつ撮らせてもらっていいですか?」
老人は愛想よく、うなづいたので泥荒は老人の顔をデジタルカメラで撮った。 「写真コンクールに入賞しましたら、お知らせしますので」
老人はあぁと云って笑った。また写真を撮りにきますのでと云って泥荒は老人に頭を下げた。これでまたここに来る理由ができた。泥荒は加茂神社の入り口から再び道路に戻り矢板方向に歩き始めた。車のみが道路を疾走している。ここを歩いて行けば再度、昔あったバス停留場の宮田へと至る。道は山を囲み回り込む形だった。その増録に続く山にはちいさな神社の鳥居がいくつ道路から見えた。猿田彦の神社もあった。泥荒はそれらの神社をくまなく時間をかけて観察した。そして社の風景をデジタル写真で撮る。後で分析するためだった。増録から河戸へと南北に伸びるこの山の一帯がいかなる時間の場所であるのかを解析するには、まずいかなる神社が山にあるのか? それを知ることが始まりだった。鬼怒一族と有留一族が手に入れた増録の山の領域を新昆類家畜牧場にするためには、接続する一帯の山並みを六面体から多角的に調査する必要があった。それが泥荒の仕事だった。
河戸から歩いてきた泥荒は増録に入る三叉路の角にある宮田の近くまで来ると、もはや誰にも見分けがつかないだろう笹に覆われたデイアラ神社の入り口に立った。そして頭を下げ礼をした。この山の一体は神社がたくさんある霊的ゾーンでもあった。ゾーンは絶望する者だけを通すという言葉を泥荒は思い出していた。山の生態系がゾーンなのだと泥荒は確信した。かつて高原山を追われた鬼怒一族が住んでいた場所だったからであろう……高原山と増録の山、その植物情報体は今でも交信していると泥荒は体に感じた。そのとき山の頂の上空にふたつの火の玉が飛んでいるのを泥荒は見た。子供の頃、増録で見た火の玉を泥荒は思い出した。夜、火の玉は作蔵さんの家の上空を飛んでいた。あれは夏休みだった。夜、増録の子供たちが蛍狩りをしていたとき、火の玉は山から田んぼの上空に現れ作蔵さんの家の上空を旋回し、そしてまた山の方向に消えていった。泥荒は声を出して火の玉の行方を追っていた。
あれも夏だった。寛の隠居屋敷の奥にある泥荒の貧しい家族の部屋で寝ていると、開けてあった雨戸から、ちいさなふたつの火の玉が入ってきた。泥荒は恐怖に震え、ふとんを頭からかけ、すこしだけ顔を出し、その火の玉の動きをおそるおそる見ていた。泥荒の他は家族のみんながいびきをかき寝ていた。ふたつの火の玉はやがて雨戸の外に出て行った。それから泥荒は眠ってしまった。朝、目覚めるとそこは山の中だった。泥荒は自分が何故ここに寝ているのか理解不能だった。おそらく兄たちがいたずらをして泥荒が寝ているとき、ここまで部屋からかついできて、置き去りにしたのだろうと泥荒は思った。そこは寛の隠居屋敷の奥からまっすぐに伸びた細い山道沿いの場所だった。泥荒は朝もやのなかを家族が寝ている家まで歩いて帰った。裸足だった。寛の隠居屋敷その奥に住む家族の部屋の雨戸は開けてあった。そこから泥荒は中に入ると自分の寝床に入りまた眠ったのである。それは意味不明の体験だった。泥荒は火の玉の導くまま連れてこられ、山の中で鬼怒一族の記憶装置を体の中にインプットされたのかもしれなかった。それから泥荒は山の中で眠るのが好きになった。泥荒は豊田小学校に入学しても一年生からよく学校をずる休みして昼間は山の中で過ごした。学校は山だった。山をひとり歩き山のゆるやかな草の上でひとり眠るのだった。泥荒は間違いなく山に憑依された子供だった。そして泥荒は山の神の声が動物的本能で聞こえる人間となった。
もう一度だけ、もう一度だけデイアラ神社にお参りをしていこうと、泥荒は夜の帳が下りる奥の細道を登った。木で造られた鳥居をくぐり社の前で拍手をひとつ打った。音は増録の山に浸透していく。礼をして下を振り返ると成田の田園風景が夕暮れの濃紺に染まり、人家のちいさい灯りが見えた。時間は午後六時になっていた。泥荒は今日の調査はここまでだと判断した。次回はここから北の成田へと接続している山の領域を調査する必要があった。山道を確認しそして神社を確認する、デイアラ神社から山の頂にそって南側の河戸方向の山中も調査しなくてならない。今日の歩きは外形をなぞったに過ぎなかった。時間はたっぷりとあると泥荒は山から三叉路の宮田まで降りていき、アスファルト道路から成田の田園地帯を見回した。前方の矢板方向の山はゴルフ場になっている。泥荒は矢板の町の方向、太陽が沈んだ西へと歩き出した。車が何台もスピードを上げて疾走していた。泥荒にとって調査とは歩行だった。乗用車に依存した文明は没落すると泥荒は確信していた。
泥荒の歩行は2015年体制への準備だった。新昆類は増録の山で野生化し、やがて日本列島の山中に棲息していくだろう。弥生人に復讐する縄文人の荒魂は新昆類に託された昆虫情報体の羽根にあった。羽根は世界を昆虫の交通関係として構築していくエネルギーだった。羽根は植物情報体の豊饒の海で育っていく。それが山の中身だった。鬼怒一族と有留一族が進行させている新昆類の事業こそは、もうひとつの日本でもあった。二十一世紀に縄文の血を継承し、山岳修験道の鬼怒一族と有留一族が、今なお生存していることにひとつの奇蹟があった。泥荒はひたすら高原山をめざし夜の中を夜に溶けて夜を歩いていった。2015年に実修実証の朝はやってくるはずだった。
最終更新日 2006年11月02日 02時35分32秒
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小説 新昆類 (41−2) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】 [ 小説 新昆類 ]
欺瞞を強権によって貫徹した大室寅之祐明治天皇王朝のラストエンペラーは……2015年体制へのオリエンテーションこそ新昆類だった。
新しい朝は、明治より古い朝の継承でもあった。
「さあ、行くべ」
ミツ子の声が泥荒を不安に満ちた未来への歩行へと励ました。
平成十八年、十二月二十九日、有留源一郎と史彦は鎌倉寺山を出発した。鎌倉寺山の森
林からラフォーと猿の群れが見送っていた。史彦は高原山でディアラフォーと対面するは
ずだった。史彦の阿頼耶識はラフォーによって訓練されていた。意識下の意識、そこにも
うひとつの日本があった。高原山で史彦が「でぃあらふぉー」と叫ぶとき、間違いなく、
2015年体制は記憶の重力となって、猿人類の地球マトリックス、その母体が船となって
WINDOWSから見える異史は記述されていく。そして寺山の修司は現在進行形だった。
(了)
四百字詰換算 458枚
【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】
41回に分割しアップロードさせていただくことになりました。
2007年度秋、応募投稿締め切りの第2回日本経済新聞小説大賞への応募投稿めざして、新作を構想中であります。
日本文芸界の創造的破壊を試みるのは、第1回日経小説大賞応募者の圧倒的多数であった50歳代〜60歳代の男性です。
第1回敗退から再び、第2回応募へと挑戦し、1千万円を奪い取りましょう。いつまでも女どもに負けてはいられません……
日本文芸界の創造的破壊に挑戦できるのは、われわれ50歳代〜60歳代の野生化した動物化した男たちです。
おのれのきんたまを握りながら、書いていきましょう。孤独のなか、文が出てくるまで、耐えがたき耐え、偲びがたきを偲び、持久戦争として構え、一文一行へと進んでまいりましょう。
「出来る 出来る やる気があれば 必ず出来る」「この小説をラストシーンまでもって走り続け、必ず、エピローグのピリオドを打つ」
刻苦奮闘の精神で書いていきましょう。
机の前で考え込みうなってばかりいると、体が肥満になり健康を害しますので、散歩へ行き、体操をしましょう。
書いていると胸を圧迫し、呼吸が浅くなってしまいます。三十分間に1回は外に出て、新鮮な空気を吸い、深呼吸しましょう。
酸素を取り入れなければ、思考が働きません。小説はほんとんど時間をかけた思考労働の産物であります。
気合を入れて、1時間に1回は大声を出しましょう。
とにかく書いていきましょう。がんばりましょう。
読んでいただき、ありがとうございました。
この小説を、2006年3月21日、朝方、スーパーマーケットの駐車場で亡くなった【新じねん】おーるさんに捧げます。
【新じねん】http://csx.jp/~gabana/index.html
【新じねん保存サイト】http://oriharu.net/gabana_n/
-----------------------------------------阿修羅より転載
大室寅之祐近代国民言語に抗する「実践と場所」−−マルクス主義の日本的土着化http://www.asyura2.com/0610/bd46/msg/369.html投稿者 竹中半兵衛 日時 2006 年 10 月 29 日 11:04:20:
(回答先: イギリス大帝国の傀儡、日本帝国の現人神、大室寅之祐近代国民言語に抗する「実践と場所」 投稿者 愚民党 日時 2006 年 10 月 28 日 18:21:17)
>日本文芸界の創造的破壊に挑戦できるのは、われわれ50歳代〜60歳代の野生化した動物化した男たちです。
いやあ立派な決意だす。その意気で日本の文芸界さ新風ば送りこむべす。芸術家が文化理論戦線の一部ば構成して、しかも理論的には退廃の一途だ。何たる脱イデオロギー。
団塊世代がたくらむのは、革命めざして立ち上がったにもかかわらず、70年安保で挫折すたおのれとの苦しい戦いさ終止符ば打つこと。サラリーマンさなってもう卒業だかんね。人生の卒業ではねぐて疎外労働とのお別れだ。そのごに待ってる地獄のような年金生活。サラリーマンやってたぐらいまだ生きるんだよ、まだ。年金は反比例のスライドだべ。蛇の生殺しだべ。モーレツに働いたごほうびがこれだ。やっぱすい、こんだけ大量の世代がいつまでも生き残るってことは、こりゃなんかあるぜ、おっしゃるとおりだ、愚民党さあ。大量の読者が待ってるぜ。
みながみな日和ったわけではねえはずだす。優秀な活動家が一級公務員さなったすい、大企業の重役までなってるだが、それでもおらみてな乞食と会うし、むがすに戻ってパンツずらすてきんたまにぎりあって喜び合う。んで腹ばようぐ見るんだ、黒くなってねえか。んで、黒くねえかわりに膨らんでる。みな腹さ一物もってっるってわけだ。みなおらより読書家だ。
町内のそこいらじゅうさ年寄りが佃煮のごとく溢れる。なぜか政治づいてる。楽しみだにゃ。
読者が待ってるのは愚民党さんの意気込みの入った小説だべ。
「実践と場所」はクロカンの代表作だなす。マルクス主義哲学ば日本的土壌さどのように定着さすべきかば示す名作だべ。んだから、日本の「民俗」ばようく研究してるし、その研究態度・方法は本署の底に唯物史観が貫かれてる、いわば唯物論的民俗学だな。おらもクロカンが死んでから買ったんだ。読みたくてもカネがねぐて、そのうちよむべって思ってたら、死んだって聞いたもんで、大慌てで買ってきたんだ。
その前に「社会の弁証法」ば買って読み直してる最中だすよ。これはむがすのシャタン(社・探、「社会観の探求」)の改版なんだども、何十年かぶりに読み直してるわけだす。
サラリーマン時代で哲学書はストップすてたもんで、老人パワーの原点ば再確立(あるいは新たにスタート)するために、今度はていねいに読んでる。「実践と場所」はまさすく哲学の「場」でありそれは「現在」だと思う。つまりおらの生きている社会だべす。愚民党さんが現在小説の中さ対象化すようとすてる現実だべな。
ただすい、小説ば書くときは、社会ば分析した上で小説ば書くっつうのは手法上は間違いだな。んだらばそれは社会科学の領域であり、論文とすての産物だ。すると、小説の中味は論文の例証に終わる。作者も例証さこれ勤めるために、登場人物が動かねぐなるんだべ。んで、分析できねげればそれで小説は終わりとなる、あとが書けねぐなんのよ。フィクションであれ、作家の直感が大事だ。その上で描かれた内容が活き活きとすた人間や社会が描かれているならば、すぐれた作品となんだべつ。これは「社会の弁証法」さ書かれてる。
だとすても、この国家独占資本主義のもとで疎外された人間の社会ばリアルに描き出す小説ができあがることば期待すてっかんね、おらは。
あえて言わせてもらえば、実践とは哲学実的践も含んでいるがんね。この苦闘の伝わらねえ作品なんて、読んだだけ時間の無駄だ。「蟹工船」「夜明け前」ば超えた小説ば望む。
忠告だすが、おらのこの欲望さしばられねえように、まい進してけろ。基本はあくまで言語表現だ。丸山健二だよ。校正校正校正、改稿改稿改稿。忘れねで。
------------------
最終更新日 2006年11月10日 20時28分41秒
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