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(回答先: 左派諸派の違いとは?連帯にあたり注意すべきこととは? 投稿者 heart 日時 2008 年 1 月 13 日 22:27:00)
トロツキー研究をしてスターリン批判から日本共産党批判を行い日本共産党に代わる新しい共産党を作るとして活動をしてきました。私も第4インターの青年同盟に所属していた事があります。この阿修羅掲示板にはそれぞれの党派の党員かシンパがいるように思われます。共産党との違いは本人達は色々と言っておりますが私は今となってはこのような違いを現時点で殊更強調する意味は無いと考えます。但し、中核派と革マル派は内ゲバをやってきた党派でありその行動からどのような人間が潜入しているのかはなはだ怪しいと思っております。第4インター(かけはし)は内ゲバを中核派にやられても報復はしませんでした。内ゲバに反対しているからです。私は中核派から武装反革命のレッテルを貼られた時点で第4インターを脱退しました。死ぬのは嫌だったし脱退しても他の活動でやっていけばいいと思ったからです。
日本トロッキスト聯盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(日本トロツキスト聯盟 から転送)
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日本トロツキスト連盟(にほんトロツキストれんめい)は日本初の新左翼団体(トロツキズム)。通称はトロ連。なお、正式な表記は「日本トロッキスト聯盟」であった。革命的共産主義者同盟の母体である。
1955年の日本共産党が「農村から都市を包囲する」という中国革命に影響を受けた「武装闘争」方針を放棄した六全協、1956年のスターリン批判とハンガリー動乱、この三つの出来事を主な契機にして、共産主義者の間にそれまで絶対的権威をもっていた日本共産党とソ連への批判が起こり始める。批判者の一部はスターリンを批判していたレフ・トロツキーの理論に依拠した。
1952年ごろからトロツキー研究を始めていた日本共産党国際派所属の内田英世・富雄兄弟は、1956年「新しい共産党を作る」と称して群馬で新聞『反逆者』を創刊しつつ、第四インターナショナル日本支部設立準備会を結成。
1956年当時、「新しい共産党を作る」ために活動を開始していたグループは、内田兄弟の他に以下の4つがあった。これらのグループは、当初は面識もなかったが、著書などでお互いの存在を知り合い、共闘を実現していった。
山西英一。戦前からトロツキーの論文や文献を秘密裏に訳出していた。戦後、三多摩地域で日本社会党への加入活動を独自に続け、社会党組織の発行物に世界情勢分析を掲載したり、トロツキーを紹介していた(山西は時期尚早としてトロ連には参加しなかった)。
西京司・岡谷進。西は日本共産党京都府委員。後の第四インター日本支部の創始者の一人として「トロツキスト」の立場を貫いた。
太田竜。社会党青年部への加入戦術に失敗し、独自活動を行っていた。当時26歳。後の第四インターの創始者の一人。その後、アイヌ解放論者から反ユダヤ主義者へと転ずる。
黒田寛一。主体性論の研究を手がけ、マルクス主義のサークルを主催していた。当時29歳。後に反スターリン主義を定式化する革マル派の創始者。
1957年1月、そのまま日本トロツキスト連盟・第四インターナショナル日本支部に移行した。機関紙誌は、『第四インターナショナル』。
1957年7月、内田英世が離脱。 1957年12月、革命的共産主義者同盟に改称。
[編集] 参考文献
立花隆『中核VS革マル』講談社文庫
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カテゴリ: 新左翼 | 第四インターナショナル | 日本共産党諸派 | 政治関連のスタブ項目
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革命的共産主義者同盟全国委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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革命的共産主義者同盟全国委員会(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいぜんこくいいんかい)は、 日本の新左翼集団。通称中核派。新左翼の中で革マル派と並んで最大の規模・勢力を持つ。警察は「過激派」、「極左暴力集団」と呼称している。
「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと 万国の労働者団結せよ!」をスローガンに、マルクス・レーニン主義を掲げ、暴力革命による日本革命、世界革命の達成と共産主義社会の実現を目指す、としている。1960年代後半から70年代前半にかけての街頭実力闘争においてはその動員数と戦闘性で他セクトの群を抜いていた。70年安保・沖縄闘争が過ぎて運動の退潮期に入ると、かねてから敵対してきた革マル派との抗争(内ゲバ)を激化させた。80年代に入ると三里塚闘争での現地実力闘争とともに、成田空港関連の要人や職員への襲撃や放火などの赤色テロ、反国鉄分割民営化、反天皇制などをテーマに爆弾やロケット弾を用いたゲリラ活動を激化させた。現在に及ぶまでに敵対党派の活動家や警察官、5人の民間人の誤認・巻き添え殺人を含む50人以上を殺害、数千人を負傷させている。
目次 [非表示]
1 中核派の組織
2 中核派の概要
2.1 中核派の源流
2.2 中核派の誕生
2.3 70年安保・沖縄闘争
2.4 内ゲバの激化
2.5 ゲリラ闘争の激発
2.6 「5月テーゼ」と近年の動向
3 「中核派」の呼び名
4 沿革
5 中核派の学生運動
6 中核派の大衆運動 労働者運動
7 中核派をめぐる人たち
7.1 幹部・活動家
7.2 離脱した元幹部
7.3 現在、指名手配されている中核派のメンバー
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
[編集] 中核派の組織
指導者: 最高指導者は本多延嘉→清水丈夫
その他、中野洋、北小路敏、高木徹、秋山勝行、天田三紀夫、金山克己、仲山良介など。
機関紙誌:『前進』(週刊)(1974年、革マル派による印刷所襲撃によって『前進』は発行不能に陥り、代わりに『革共同通信』を発行していた)、『共産主義者』(理論誌)、『コミューン』(旧『武装』)など
学生組織:マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派)
青年労働者組織:マルクス主義青年労働者同盟(マル青労同)
軍事組織:人民革命軍、糺察隊
公然拠点:前進社
[編集] 中核派の概要
[編集] 中核派の源流
中核派の源流は、1957年に結成された日本トロツキスト連盟から発展した革命的共産主義者同盟(革共同)内の黒田寛一派(革命的マルクス主義者グループ-RMG)になる。黒田は後の革マル派の創始者で、中核派と革マル派は源流が同じである。
第2次大戦後、 日本共産党及びソ連は、共産主義者の間で絶対的な権威をもっていたが、1955年の日本共産党がそれまでの極左冒険主義の誤りの放棄をした六全協や、1956年のソ連最高指導者が否定されたスターリン批判、またはハンガリー動乱などの事件によって、その権威は揺らぎ始めた。新しい共産主義組織への模索が始まり、そうした中、スターリンと対立していたレフ・トロツキーを再評価する組織が生まれた。1957年12月、黒田寛一、太田竜らが結成し、西京司が加わった革共同と、1958年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)である。これがいわゆる新左翼の始まりである。
革共同は、トロツキーが作った国際組織第四インターナショナルへの合流を主張する太田竜らのトロツキスト派に対して、黒田をイデオローグ、本多延嘉を実務の筆頭にしたRMGが、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義による前衛党建設」を主張して対立した。1958年、当時の第四インターナショナルの各国支部が展開していた社会民主主義政党もしくはスターリン主義的共産党への組織的な加入戦術を日本社会党に適用することを主張して却下された太田派が、革共同から離脱し日本トロツキスト同志会を結成する。(「革共同第一次分裂」)。
その後も西京司らのトロツキスト派と、黒田、本多らのRMGとの対立は続き、そのなかで1959年初頭、黒田自らが、日本共産党の指導を受ける青年組織である民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚(いわゆる「黒田・大川スパイ問題」)。同年8月の革共同第一回大会で「スパイ行為という階級的裏切り」として黒田は除名される。このとき、本多延嘉(後の中核派の指導者)らRMGは、黒田の後を追って革共同を離党。黒田とともに「反帝・反スターリン主義」をテーゼとする革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を結成する(「革共同第二次分裂」)。黒田は議長、本多は書記長に就任した。
一方、もう一つの新左翼であるブントは、学生の大衆組織である全学連の指導権を握り、1960年の 安保闘争に組織をあげて突入していく(「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」)。ブント指導による「60年安保闘争」は国民的な盛り上がりとなるが、闘争は敗北に終わり、その結果ブントはプロレタリア通信派、革命の通達派、戦旗派などに分裂していく。革共同全国委は、安保闘争でのブントの闘争の意義を認めるよりは専ら批判を加え、自派勢力拡大のチャンスとばかりに理論闘争を仕掛けていく。安保後にブントが分解していったのとは対照的に、「革命的な左翼組織として、唯一の党的組織-組織的に存在し、思想的にも体系化されている-を持つのは革共同全国委だけ」と云われる状態になっていった。その結果、崩壊していったブントから戦旗派や、プロレタリア通信派の指導部の何名かなど、多数の活動家が革共同全国委に合流する。清水丈夫、北小路敏、陶山健一らはブントから革共同全国委に移行した人達であった。
[編集] 中核派の誕生
安保闘争後、 共産主義者同盟の多くの活動家を吸収し、組織拡大に成功してきた革共同全国委だが、1962年9月に行われた全国委総会(いわゆる「三全総」)において、本多が起草した議案の「党建設」「労働運動方針」を巡って、本多派と黒田派に分かれた大論争に発展。半年後の翌年四月、革共同全国委の議長黒田寛一、副議長松崎明らが脱党して日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成。中核派と革マル派の誕生である(革共同第三次分裂)。この分裂を「革共同生え抜き」と「ブントからの移行組」が決裂したものとする認識が流布されたが、本多はブントから移行した人間ではないので、これは正確ではない。なお中核派の名称であるが、本多派が全国委政治局の多数を握ったことから、引き続き正式名称は「革共同全国委」のままとなった。しかし、学生組織マルクス主義学生同盟の多数は黒田についたために、新しく作られた学生組織にマルクス主義学生同盟中核派と名づけられたことから、上部組織の革共同全国委も「中核派」と通称されるようになる。
[編集] 70年安保・沖縄闘争
1960年代後半から激しさを増していったベトナム戦争に対して世界的な反戦運動が高まる中で、一貫してアメリカの政策を支持していた当時の内閣総理大臣・佐藤栄作が1967年10月8日に、南ベトナムを訪問するために羽田空港に向かったとき、これを阻止しようとして集まった三派全学連(中核派、ブント、社青同解放派)系自治会で構成する全学連)や反戦青年委員会が初めてヘルメットと角材で「武装」して、警察の機動隊を突破しようとした。この事件以降、急進的な学生や青年労働者は1968年1月の佐世保基地における原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争や同年の10.21国際反戦デー闘争など、「ベトナム反戦-日本の参戦国化阻止」を掲げて激しい街頭闘争を繰り広げることになる。中核派はこれらの闘争を70年安保の前哨戦とし「激動の7ヶ月」と呼称して全力突入、その動員力、戦闘性において群を抜く存在だった。
また同時期、学生運動では当時世界的に広がったステューデント・パワーが、東大、日大をはじめ日本全国の大学にも波及し、全学ストライキとバリケード封鎖の嵐が巻き起こった。それは既成自治会を飛び越えて作られた全学共闘会議が主導することが多く、この時期の学生運動は「全共闘運動」とも呼称される。中核派も含む新左翼諸党派は、この「学生反乱」を「70年安保闘争」と一体のものとして参画していく。
激しい警察の弾圧によって組織が消耗した結果、70年6月の安保条約自動延長に際してはゲバルト=街頭実力闘争を手控えた中核派だが、戦闘力の回復した71年にはふたたび激しい街頭闘争を展開することになる。三里塚闘争における3月、7月、9月の行政代執行(強制代執行)において、他の新左翼党派同様に中核派も組織を挙げて現地闘争に参加した。
また、同時期に沖縄返還闘争(中核派のスローガンは「沖縄奪還」)にも熱心に取り組み10.21国際反戦デー、「渋谷大暴動を」と扇動して取り組んだ11.14渋谷闘争(機動隊員一名を殺害)、11.19日比谷暴動闘争を取り組んだ。これらの闘争は、「日本帝国主義はすでに政治的には崩壊状態であり、機動隊によってかろうじて維持されている'機動隊国家'である」という情勢認識から「機動隊せん滅」という警察官の殺傷そのものを目的としたスローガンが公然と掲げられ、実際に11.14闘争において殺害した(11.12沖縄ゼネスト時のデモにおいても、中核派の部隊は機動隊員を一人殺害している)。この一連の「沖縄決戦」において中核派は大量の逮捕者を出したが、68年の時期と比べると大衆的な広がりをもったとは言えず政治的な成果は乏しいものだった。また、革マル派の武装襲撃とそれに対する報復もこの時期に激しさを増し、70年安保・沖縄闘争における敗北感と路線喪失が次の時期の「内ゲバの季節」につながっていく。
[編集] 内ゲバの激化
70年安保闘争期、中核派を始めとする多くの新左翼党派は街頭実力闘争に熱心に取り組んだ。それに対して、組織の維持拡大を重視する革マル派は大学自治会の支配権獲得に力を注ぎ、街頭実力闘争を「権力に対する挑発行為」と批判。さらに東大闘争において1969年1月の機動隊導入の直前に「敵前逃亡」し、革マル派は完全に孤立した。そこで革マル派は「暴力的党派闘争による他党派解体と勢力拡大」を目指す路線を取り、民主青年同盟ならびにすべての新左翼、さらにはノンセクトに対してまで暴力的襲撃をはじめた。とりわけ、新左翼党派で同じく最大級の規模を持つ中核派と解放派に対しては激しく行われた。中核派は街頭実力闘争による大量逮捕で組織を弱体化させていたので、この攻撃で一時大きなダメージを受ける。これに対して中核派と解放派は組織を「軍隊化」させ、暴力的報復を開始。この中核派・解放派と革マル派の「内ゲバ」は、殺人を目的化した「殺し合い」へとエスカレートしていくことになる。これらの内ゲバは学生運動を弱体化させ、大衆が新左翼から離れてゆく大きな原因の一つとなった。
1975年[[3月1]、中核派の最高指導者だった本多延嘉が革マル派によって殺害された。この「最高指導者の暗殺」という事態に中核派は革マル派幹部である「黒田寛一、松崎明、土門肇の革命的処刑」を宣言し、凄まじい報復を行った。しかし、現在に至るまで3氏の「革命的処刑」は実現していない(黒田は2006年に80歳で病気で死去。中核派は「恥多き死を強制した」と称している)。
中核派の「軍事部門」を指揮してきた清水丈夫がまとめた統計によると「73年9.21以来の中核派の対革マル派『赤色テロ』は件数で436戦闘、『完全殲滅』(死亡)43人、そのうち、75年3.14(革マル派による本多殺害)以後の革マル派の死亡は31人」。革マル派と解放派の抗争の死者を併せて「内ゲバ戦争」は百名近くの死者を出した。
被害は両派とは関係のない一般人にまで及んでいる。1974年2月6日に琉球大学構内に、中核派が革マル派と誤認して比嘉照邦氏を殺害するなど、中核派は一般人を革マル派と間違って襲撃する「誤爆」事件を複数起こしている。1975年9月4日、中核派活動家が横須賀緑荘アジトで爆弾を製造しているところ、誤って爆発させ、同アパート住人2名が死亡(中核派活動家も三名死亡)した。83年6月7日には千葉県四街道市の成田空港関連の航空燃料用パイプライン敷設工事現場の飯場に放火して労働者2名を焼死させている。このような一般人の巻き添えのについて、中核派は未だ一つとして被害者遺族らに謝罪も賠償もしていない。
80年代に入ると、三里塚闘争で、「一坪再共有化運動」の是非をめぐって反対同盟内部での対立が激化し反対・賛成両派が分裂した。共有化運動を推進したのは「熱田派」と呼ばれ、第四インター派らが支持。共有化運動を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対したのは「北原派」で、中核派・革労協狭間派らが支持した。反対同盟内部の対立はそれぞれの支援党派の対立に発展してゆく。中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定した。そして1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、7月にふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃した。これらのテロによって8人が重傷を負い、その内一人は頭蓋骨陥没、一人が片足切断の重傷となった。『前進』紙上でこのテロの「戦果」を発表した際には、襲撃した第四インター派メンバーの本名と職場、そして地番までの住所を掲載した。さらに中核派は、第四インター派のメンバーや「熱田派」所属の空港反対派農家、あるいは「一坪共有者」の自宅や勤務先に押しかけたり、脅迫電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を展開する。第四インターの1984年8月15日付発行のパンフレットによると、登校中の子どもに対して「お前のお父さんを殺す」と中核派活動家が声を掛けることもあったという。ところが1998年に中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国千二百人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく180度転換した。ただし、第四インター派へのテロについては謝罪はしていない。
第四インター派が元々「内ゲバ反対」を掲げ、あらかじめ物理的な報復を行わないことを宣言していた党派であったことから、このテロに対しては激しい批判が集中した。のちに中核派を離脱した小西誠によると中核派組織内においてすら批判的な声は少なくなかったが、指導部の「批判するものは組織を去れ」という統制によって中核派内部の批判が公然化することはなかったという。この第四インターへのテロ襲撃は、それまで新左翼各党派や各種の大衆運動界隈の一部に存在していた中核派への好意的空気、同情的空気を決定的に失わせた。また、三里塚闘争の分裂は各種の大衆運動の分裂へと波及し、中核派はいくつかの大衆運動から革マル派とともに排除される傾向が強まることになった。当時の中核派は統一戦線より独自路線による運動展開を優先した側面もある。
[編集] ゲリラ闘争の激発
全共闘運動当時のような大衆的な拡大・勢いを失った中核派は、その後、80年代に入ってテロ・ゲリラにその活路を見出していくようになった。同派はこれまでに、建設省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)職員宅などに対する放火・放火未遂ゲリラ事件、自由民主党本部や鉄道施設などを狙った火炎瓶や火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件などを引き起こしている。1985年頃からは圧力釜爆弾や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾も使用するようになった。88年9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を襲撃。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(小川弁護士は2003年7月にこのテロの後遺症を苦に自殺する)。このテロに中核派は犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して「電話と手紙を集中せよ」として、他の収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載した。中核派は収用委員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け「家族ともども死刑台に乗っていると思え」という手紙が届いたこともあったという。その結果翌月、ついには収用委員全員が辞任する事態となる。 また、昭和天皇死去と現天皇の即位に関連して、1989年から約2年間にかけては「90年天皇決戦」と称して多くのテロ・ゲリラ事件を引き起こした。他にも同派は様々なテロ活動に手を染めた。
革マル派との内ゲバも、80年代に入ると国鉄分割民営化をめぐる対立で動労幹部などを殺害するなど激しく続いた。あるいは、かつて革マル派が行ってきたような、大学構内から他党派やノンセクトの活動家を暴力的に排除する「党派による恐怖支配」を中核派も法政大学、京都大学をはじめ、各地の大学で強めることになる。
[編集] 「5月テーゼ」と近年の動向
近年は若手獲得とこれ以上の孤立化を防ぐため、テロ・ゲリラ等を控えて、組織拡大に重点を置き、市民運動や労働組合への浸透を図る戦術を採っている。これは1991年に中核派が「将来の武装闘争に備えてテロ・ゲリラ戦術を堅持しつつも、当面は武装闘争を控え、大衆闘争を基軸に党建設を重視する」との方針を決めた「五月テーゼ」(03年以降は「新指導路線」と呼んでいる)に基づいた戦術である。ここで注意しなければいけないのは組織拡大とは単に同派の同盟員を増やすことだけではなく、同派と関連がある労組・団体(影響の程度は団体によってかなり異なる)の拡大や設立、ほとんど関係がなかった団体との交流による影響力拡大も含まれることである。労働運動の分野では自治体、郵政、教育、JRを「四大産別」として、労組への影響力拡大を図っている。また、毎年11月頃に「全国労働者総決起集会」を東京で開催しており、その動員数は年々増加傾向にある。2005年の「11.6全国労働者総決起集会」では過去最高の2700人を動員した(平成17年の警備情勢を顧みてより)。歴史教科書問題では、2005年、新しい歴史教科書をつくる会が執筆した扶桑社発行の 教科書採択反対運動に積極的に介入し、東京都杉並区などで激しい反対運動を起こしている。東京都杉並区、神奈川県、相模原市、大阪府、泉佐野市、高槻市の議会には中核派系の議員がおり、議会への進出度は日本労働党と並び、日本の新左翼の中では屈指。東京都知事選で青島幸男、国政選挙で社会民主党(個人では大田昌秀ら)、9条ネットのZAKIを支持、「都政を革新する会」の長谷川英憲を支援した。
2006年、労組内の主導権を重視する「労働戦線派」(多数派)と、これまでの路線を踏襲し各方面での大衆運動に関わることを重視する「諸戦線派」(少数派)の対立から、関西や九州などで「諸戦線派」に対する排除あるいは離脱などの内部対立が表面化した。同年に現役杉並区議2名も、議会闘争方針の対立から中核派の政治団体「都政を革新する会」から離脱した。
[編集] 「中核派」の呼び名
中核派という呼称は本来、革共同の分裂後、学生組織であるマルクス主義学生同盟の本多支持派が名乗った分派名であるが、分裂後比較的早い時期から上部団体である全国委員会も中核派を公称している。なお、機関紙名から当初は「前進派」と呼ばれることもあった。ちなみに、敵対党派の革マル派が呼称する「ブクロ派」は、かつて拠点の前進社が池袋にあったからである、
[編集] 沿革
1959年
8月 革命的共産主義者同盟から分裂し結成される(革共同第2次分裂)。
1962年
9月 議長・黒田寛一派と書記長・本多延嘉派の対立が表面化する。
1963年
2月 黒田派が分裂して日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成し、本多派は執行部を抑える(革共同第3次分裂)。
1970年
8月4日 東京教育大学(現・筑波大学)の学生だった革マル派の海老原俊夫を法政大学構内で襲撃し、殺害する。
1973年
3月 対革マル戦争の路線対立で政治局員・田川和夫が除名。
9月 部落問題をめぐる意見の対立から沢山保太郎が除名。
1974年
2月6日 琉球大学構内で、一般学生・比嘉照邦さんを「革マル派メンバー」と誤認して殺害する。
1975年
3月14日 書記長・本多延嘉が革マル派に殺害される。
1980年
対革マル戦争を担いロンドンに亡命していた上口孝夫が帰国し、正統本多派と称して「『勝利に向っての試練』編集委員会」(試練派)を立ち上げ、中核派から分裂した。(後に試練派は1983年、第四インターに近づくが失敗し、86年に「第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準備委員会)」(ボル派)を結成し、機関誌『ボルシェヴィキ』を創刊した)
1983年
3月8日 主に「一坪再共有化運動」の是非をめぐって三里塚・芝山連合空港反対同盟が分裂。「再共有化運動」に反対した中核派は、「北原派」を支持する。
1984年
1月 全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃。一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる。
7月 全国一斉にふたたび三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃。一人に片足切断の重傷を負わせる。
9月19日 中核派の地下軍事組織である「人民革命軍」が、火炎放射器で自由民主党の本部を襲撃。本部ビルの一部を焼失させる。(詳細は自由民主党本部放火襲撃事件の項を参照)
1985年
10月20日 三里塚交差点付近で、丸太、鉄パイプ、火炎瓶などを武器に、機動隊と大規模衝突を起こす(10.20成田現地闘争)。
11月29日 首都圏・大阪地区の国電運転線区で同時多発的に通信ケーブルを切断。さらに、浅草橋駅を占拠し、放火。(詳細は国電同時多発ゲリラ事件の項を参照)。
以降、街頭実力闘争は行っていない。
1986年
4月15日 在日米軍の横田飛行場を狙って、車の荷台から「迫撃弾」と称した発射物5発を射ち込む。
5月4日 東京サミットの式典会場となっていた迎賓館などを狙って、近くのマンションから「迫撃弾」と称した発射物5発を射ち込む。
1988年
9月21日 千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を鉄パイプで襲撃し、両足と左腕を骨折させる重傷を負わせる。それとともに「収用委員会解体闘争」として収用委員全員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け、翌月、収用委員全員が辞任し千葉県収用委員会の機能が完全に停止する。
1989年
7月3日 東京都議会選挙で中核派系とされる長谷川英憲が当選(「杉並革新連盟」として出馬、のちに「都政を革新する会(都革新)」と改称)。
1990年
4月 日本飛行機(株)専務宅放火殺人事件について、中核派革命軍による犯行声明が出される。
1991年
5月 「五月テーゼ」を決定
1997年
年末 議長に清水丈夫を、書記長に天田三紀夫を選出。
1998年
2月25日 午前二時三十分、革命軍が東京都世田谷区桜丘の運輸省元航空局長に火炎攻撃。「「成田空港二〇〇〇年平行滑走路完成」攻撃を絶対に粉砕することを明らかにする戦闘宣言」と発表。
1999年
11月 新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)次長の自宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。
2000年
6月5日 公式ホームページを開設
8月26日 運輸省(現・国土交通省)幹部の車両に時限式発火装置を仕掛け、放火。革命軍が「農民の営農破壊、生活破壊のためだけに暫定滑走路工事を強行してきた張本人」「強烈無比の爆破戦闘は、乗用車を大破し、家屋をも徹底的に破壊した」と軍報。
2002年
4月 千葉県職員宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。
12月18日 中核派元幹部で中核派を批判する本を書いていた白井朗が何者かに襲われる。
2003年
8月 千葉県警幹部と同姓同名の男性が住む民家に爆発物を仕掛け、放火(県警幹部と誤認した可能性が指摘されている)。
2005年
8月4日 杉並区役所での「新しい歴史教科書をつくる会」教科書採択反対デモの中で、参加者の中核派活動家が、ビデオ撮影をしていた男性に暴行を加えたとして逮捕される。
11月6日 同派及び関係労組らが主催する「全国労働者総決起集会」で過去最高の2700人(警察発表)を動員。
12月 警察庁の「治安の回顧と展望」と公安調査庁の「内外情勢の回顧と展望」は中核派について、同派と関係のある市民団体と共闘して、「つくる会」の教科書の採択反対運動に関与していることを強く示唆。
2006年
3月3日 迎賓館や在日米軍の横田飛行場などを狙って迫撃弾を発射し、爆発物取締罰則違反の罪に問われた中核派活動家に対し、東京地方裁判所が懲役12年の実刑判決を言い渡す。被告人側は即日控訴。
3月14日 中核派系全学連委員長ら29人が、法政大学で、大学敷地内で立て看板の撤去作業に抗議し、建造物侵入と威力業務妨害の容疑で現行犯逮捕される。
[編集] 中核派の学生運動
中核派が指導する学生組織として、「マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派)」がある。学生大衆組織に全日本学生自治会総連合(全学連)があるが現在分裂しており、その一つを中核派が握っている(いわゆる中核派全学連)。現在、まったく影響力のないもの、学生の支持・認知を得ていないものを含め、中核派が活動拠点と称している大学は以下の通り。
東北大学
法政大学
2006年3月14日、大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分された者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」なる団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。
京都大学
大阪市立大学
広島大学
富山大学
九州大学
[編集] 中核派の大衆運動 労働者運動
中核派が指導する青年労働者政治組織として「マルクス主義青年労働者同盟」(マル青労同-機関誌『ソリダリティ』-不定期刊)がある。 また中核派が実質的に指導する大衆団体(「百万人署名運動実行委員会」など)もある。
動労千葉
東京労組交流センター
都政を革新する会
杉並親の会
部落解放同盟全国連合会
三里塚・芝山連合空港反対同盟(北原派)
[編集] 中核派をめぐる人たち
[編集] 幹部・活動家
本多延嘉 中核派創設者。カリスマ的な指導者であったが、革マル派に虐殺された。
陶山健一(旧幹部)
北小路敏(活動家)
清水丈夫(活動家)
秋山勝行 三派全学連委員長として、中核派外でも人気が高かった。90年代、中核派の議長代行を務める。
[編集] 離脱した元幹部
白井朗(元幹部、除名、『中核派民主派宣言』著者)
角田富夫(元幹部)
彼らは中核派を批判した後、2002年12月に襲撃され重傷を負った。
小西誠(いわゆる「反戦自衛官」。2000年頃、「清水による独裁体制」を批判して脱党。『中核派vs反戦自衛官』『検証 内ゲバ』などの著書で中核派を批判し続けている)
[編集] 現在、指名手配されている中核派のメンバー
()内は現在の年齢
大坂正明 (58)警備中の警察官を襲撃し殺害・他4件
古川康三 (42)現住建造物放火
木下治人 (60)集団暴力事件
山本寛 (58)集団暴力事件
[編集] 参考文献
立花隆 『中核vs革マル』上巻 講談社〈文庫〉、1983年、ISBN 4061341839
立花隆 『中核vs革マル』下巻 講談社〈文庫〉、1983年、ISBN 4061341847
野村旗守 『Z(革マル派)の研究』月曜評論社 2003年、ISBN 4990163702
警察庁 「平成17年の警備情勢を顧みて-回顧と展望-」『焦点』272号、2006年
警察庁 「平成16年の警備情勢を顧みて-回顧と展望-」『焦点』270号、2005年
警察庁 「警備警察50年-警備警察50年 〜現行警察法施行50周年記念特集号-」『焦点』269号、2004年
[編集] 関連項目
前進社(公然拠点)
反スターリン主義
スターリニズム
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派
マルクス主義学生同盟
全日本学生自治会総連合
国鉄千葉動力車労働組合
全国部落青年戦闘同志会
部落解放同盟全国連合会
自由民主党本部放火襲撃事件
国電同時多発ゲリラ事件
中核vs革マル
[編集] 外部リンク
中核派(前進)(公式サイト)
全日本学生自治会総連合(中核派系)
部落解放同盟全国連合会
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の左翼団体 | 新左翼
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http://www.jrcl.net/web/frame050321f.html
かけはし2005.3.21号
帝国主義の戦争と新自由主義グローバリゼーション、憲法改悪と「戦争国家」化に対決する新しい左翼政治組織の統合へ、討論を開始しよう
日本革命的共産主義者同盟(JRCL)中央委員会
(1)
二一世紀の始まりは、資本の新自由主義的グローバリゼーションの一層の深まりとともに、新たな戦争と破壊の時代の様相をいっそうきわだたせている。労働者・民衆が幾世代もの闘いを通じてかちとってきた諸権利は、グローバル化した資本の無制限で自由な利潤追求の論理によって大きな後退を余儀なくされた。「テロリズム」との闘いを名目にしたアメリカ帝国主義の先制的予防戦争が、2001年の「9・11」を決定的契機にして、アフガニスタンとイラクに対して発動された。国際法や国連憲章をもふみにじった一方的侵略戦争と占領が、「自由と民主主義」の名において強行された。
「北」=帝国主義中枢と「南」の第三世界の間では、後者をグローバル資本主義の下に統合しつつ、いっそうの格差が進行している。「南」の世界は、グローバル資本主義の支配の下で、主権を侵害され、貧困と飢餓、生活の場と環境の破壊にさらされ、生存すらが困難な絶望的状況に投げ込まれた。エイズなどの疾病と内戦が、子ども、老人、女性などもっとも傷つきやすい「弱者」にとって、明日の生命もおぼつかない苦難を強制している。しかしグローバル資本主義がもたらす「底辺への競争」は北の先進資本主義諸国においても例外ではない。雇用の破壊と失業・貧困の増大、労働者・民衆の社会的諸権利の清算、民主主義の破壊と差別や排外主義の増大をともなった「優勝劣敗」の論理の下に労働者・民衆は駆り立てられている。
ソ連・東欧のスターリニズム官僚独裁体制の崩壊と「社会主義」理念の信頼性の喪失は、資本主義の攻勢と既成の労働者政党、労働組合の後退を促進することとなった。戦後「福祉国家」の主要な担い手であった社会民主主義と労働組合運動は、資本の攻勢に協力し、新自由主義の下に統合されてその積極的推進者となっている。民営化と規制緩和、市場主義・競争主義の先兵となっている。それはブッシュの帝国主義戦争の忠実な同盟者となっているイギリス・ブレアの「ニュー労働党」だけではない。多くが政権党となっているEU諸国の社民党は、大資本の利害の忠実な担い手となっている。そして旧スターリニズム諸党の多くは、スターリニズムの真剣な克服の努力を放棄したまま、路線的にはますますこの「社会自由主義」化した社会民主主義に同化し、共通の運命をたどりつつある。
(2)
他方、1990年代の階級闘争の主体的危機をくぐりぬける中で、いま新しい労働者・民衆の闘いが世界的に始まっている。2001年から始まった「世界社会フォーラム」運動に体現される「反グローバリゼーション運動」(グローバル・ジャスティス運動ないしオルター・グローバリゼーション運動)は、今日のグローバル資本主義の新自由主義的攻勢とブッシュ米政権が解き放ったグローバル戦争に対する多様で大規模な抵抗の運動として発展しつつある。労働者、農民、失業者、都市貧困層、移民、女性、青年たちの運動をつなぎあわせ、自由、平等、平和とエコロジカルで公正な連帯社会をめざし、今日の資本の新自由主義的グローバリゼーションに代わるオルタナティブな価値を追求する政治・社会運動としての性格を明らかにしつつある。
それは同時に、スターリニズムや社会民主主義に代わる新しい左翼政治勢力=反資本主義左翼の大衆的登場を緊急の課題としている。そのための挑戦がすでに始まっている。われわれがその旗の下に闘ってきた第四インターナショナル=国際的なトロツキスト運動は、この反グローバリゼーション運動の先頭に立ちつつ、自ら、多元主義的で民主主義的な新しい左翼勢力の形成のための闘いをめざそうとしている。
われわれがここで「反資本主義左翼」という意味は、今日の新自由主義的なグローバル資本主義とアメリカ帝国主義の軍事的一極体制に対する「現実主義的」対案、すなわちより「公正な資本主義」に、「反グローバリゼーション運動」の展望をあらかじめ制限するのではなく、戦争と新自由主義に対する抵抗の中から、資本主義に代わる公正で民主主義的な社会、すなわちスターリニズムの一切の現れを徹底的に克服した新しい社会主義のための展望を切り開こうとするからである。
第四インターナショナルは、現実の運動に基礎を置きつつ、その中でのさまざまな意見の相違を慎重に討論し、誠実な共同闘争の経験の上に立った、新しい時代が必要とする新しい左翼の組織的形成に貢献しようとしている。それは、われわれがその一部となるような、異なった潮流が多元的に存在する民主主義的な左翼組織のための闘いである。
(3)
ブッシュ政権と軌を一にして登場した小泉政権の下での日本の現実は、とりわけ厳しいものがある。小泉内閣は、日本資本主義の長期にわたる危機の中で、新自由主義的構造改革の徹底的遂行の旗手として登場した。小泉内閣は、ブッシュ政権の「対テロ」戦争を無条件に支持して、アフガニスタン侵略に呼応して米軍支援のために自衛隊をインド洋に派兵するとともに、イラク戦争・占領においても自衛隊を占領軍の一員として派兵した。それは違憲・違法な参戦の既成事実化にほかならなかった。沖縄や「本土」の米軍基地の再編・再配置をふくむ「トランスフォーメーション」を通じて、米軍と自衛隊はグローバル戦争遂行のレベルでますます一体化しようとしている。そしていま、小泉政権は有事法制の確立、海外派兵の恒常化の上に、戦後憲法の改悪に踏み込んでいる。
こうした憲法改悪・「参戦国家」体制づくりとともに、小泉政権の4年間で、社会・経済の新自由主義的再編は大きく進んでいる。郵政民営化攻撃を軸に公共サービスの民営化が拡大し、雇用の破壊、失業と労働力の非正規化による低賃金、無権利化がいっそう拡大している。年収300万円以下の労働者はいまや全労働者の半数に達している。社会不安の中で自殺者は3万人を越え、国家主義と排外主義・差別主義のキャンペーンが溢れ出ている。「日の丸・君が代」の強制、教育基本法の改悪は、そうした国家主義的キャンペーンの焦点となっており、こうした攻撃の中で天皇の「元首化」、天皇を日本の「国柄」の象徴とする自民党の憲法改悪案が浮上している。
他の帝国主義諸国と比較しても、日本における階級闘争・大衆運動の低迷は深刻である。労働者階級の新自由主義的「構造改革」に対する集団的抵抗は、ごく少数の戦闘的労組を除けば、形をとった形で存在せず、社会生活に影響をもたらすストライキなどの闘争は、1975年のスト権スト、1978年末〜79年初の全逓労働者の「反マル生」闘争以来絶えて久しい。こうした中で、国鉄労働者の分割・民営化に対する闘いは孤立を余儀なくされてきた。昨年のプロ野球選手会のストが、多くの共感を獲得したのは、こうした労働組合運動の現実に対する社会的不満が広がっていることをも反映している。われわれが述べてきた「階級の敗北」という現実がここに投影されている。
1980年代から90年代にかけて、地域の市民運動・住民運動が環境・福祉などさまざまなテーマで発展し、多くの地方議会にも進出し、自治体行政にもその意見を反映させていった。また国際協力NGOも多くの青年たちの社会参加・国際連帯の意欲を引き出していった。それは市民・住民の民主主義のスペースを拡大する貴重な成果であったが、大衆的な社会的抵抗の運動が不在の中で、こうした試みはますます新自由主義的構造改革の枠内に統合されていく傾向に引きずられがちである。
(4)
戦後日本政治の中に大きな足跡を残してきた社会党(社会民主党)と共産党は、こうした全体としての「左翼の危機」の中で、急速にその力量と影響力を低下させている。2003年の総選挙、2004年の参院選挙において、「護憲・平和」勢力としての共産党、社民党は得票率において約13%、議席においては5%以下(衆院では3%)の極小勢力に落ち込んでしまった。ともに新自由主義的グローバリゼーションと憲法改悪、そして「国際協力」という名の自衛隊の海外派兵を原則的に肯定する自民、民主のブルジョア「二大政党」制の枠組みに、日本の議会政治は収斂されつつある。
他方、1960年代後半から70年代初頭にかけた青年・学生の急進的闘争を主導した、われわれをふくむ広義の「新左翼」勢力は、内ゲバ主義とテロリズムによる腐敗を大きな主体的要因として、いっそうの周辺化と分散化をたどってきた。今日の大衆運動の低迷と「左翼の危機」をもたらした原因は、こうしたわれわれをふくむ急進主義的「新左翼」勢力の敗北もその大きな要素であることを、われわれは自覚している。
旧第四インター日本支部は1980年代に露呈した女性差別問題を通じて、その深刻な政治的・組織的欠陥を確認せざるをえなかった。そして全体としての大衆運動の衰退局面と自らの急進主義的政治展望の破綻、そして世界的な「社会主義」の信頼性の崩壊の中で組織的に分裂し、その力量を大きく後退させた。こうしたことはわれわれの闘いの総括と、その限界の克服を迫るものであった。
われわれは、その間、内ゲバ主義に反対する1980年代以来の共同行動を発展させながら社会主義政治連合に参加し、その一翼をになって、新しい政治潮流の形成にむけた努力をともに進めてきた。しかしながら、全体としての大衆運動の衰退局面を逆転させるイニシアティブを作りだすことはできなかったのである。
こうした中でわれわれは欧州やラテンアメリカの第四インターナショナルの成功と失敗の経験に学びつつ、複数主義にもとづく左翼の新たな政治組織的再編・統合の実現を、戦略的追求目標として掲げてきたが、それはあくまで大衆運動の新しい攻勢局面のはじまりを土台にしたものでなければならず、新しい組織的統合のための政治的基盤はいまだ成熟していない、と考えてきた。
スターリニズムや社会民主主義の歴史的没落にかわる新しい反資本主義左翼=オルタナティブ左翼の形成は、たしかにその運動的・社会的基盤の成長と軌を一にした形でしか現実のものにならないだろう。しかし問題は、その「基盤の成熟」を待つという態度では、そこに向かう一歩の踏み出しができないことである。われわれに問われているのはそのことである。
新しい反資本主義的=オルタナティブな左翼政治組織の建設のための闘いは、今日の情勢の下で、大衆運動に献身し、平和・民主主義・人権・公正などの諸価値を実践し、戦争と新自由主義グローバリゼーションとの闘いを先頭に立って切り開こうとする政治組織間の、相互の信頼にもとづく共同の討論、行動の積み重ねによって、よりダイナミックに推進されるべきであるとわれわれは考える。
それはたんなる組織間の共同行動・統一戦線や連合にとどまらず、組織的な統一の可能性をも追求するものになる。
われわれは、現在の段階でこうしたオルタナティブ左翼の建設をめざす新しい政治組織的統合の可能性をふくめた具体的な討論を開始している。
(5)
日本帝国主義支配階級の攻勢の当面の政治的焦点は、有事・派兵国家化の既成事実の上にたった憲法改悪に定められている。ここ数年間をかけた憲法改悪の政治過程は、新しい左翼の形成にとっても決定的に重大な位置を占めている。
2003年のイラク反戦運動は、ベトナム反戦運動以来、30年ぶりの規模の大衆的な結集を実現した。「反グローバリゼーション運動」(グローバル・ジャスティス運動ないしオルター・グローバリゼーション運動)もまた、ATTACジャパンなどの闘いを通じて確実にその意義が社会的に浸透する状況を迎えている。
われわれはこの新たな可能性を、憲法改悪阻止の闘いと結びつける左翼的イニシアティブを共同の力で作りだしていかなければならない。
bわれわれがめざす反資本主義的左翼政治組織とは、帝国主義の戦争と資本の新自由主義的グローバリゼーションに反対し、平和・人権・公正・民主主義のグローバルな実現に基礎を置いた新しい社会主義のために闘う政治組織である。
bそれは、起源を異にする多様な潮流・個人の存在を認め、共同の討論と学習と闘いを作りだしていく複数主義的な民主主義を組織の基本原則とする。
bそれは、共同の課題に向けた大衆的で闘争的な統一戦線、共同闘争を真摯に追求する。
bそれは、全世界、とりわけアジアの労働者・民衆や、その中で進歩的役割を担っている政治組織と連携し、共同の闘いを実現していく国際的な展望に裏づけられた政治組織である。中国の「資本主義大国」化、民衆に飢餓、人権抑圧を強制する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)・金正日独裁体制の危機の進行の中で、東アジアのグローバル資本主義体制に対する労働者民衆の連帯した闘いこそが求められている。
われわれがこれから呼びかけ、ともに作りだそうとする政治組織は、いますぐには大衆的基盤を持った新たな左翼イニシアティブとはなりえないだろう。それは、当面、過渡的な性格を持った将来に向けた「先行投資」であり、大衆的な新しい左翼政治組織のための共同推進者という性格を持っている。しかしそこにおいても、組織の多元主義と民主主義が貫かれなければならない。内ゲバ主義・テロリズムを批判せず、その「正当性」に固執するグループは、共同の政治組織を建設する対象にはなりえない。
この新たな政治組織は、革命運動の歴史的アイデンティティーの共有を前提とするものではない。われわれは第四インターナショナルの綱領的アイデンティティーに踏まえ、その今日的豊富化と刷新を追求していこうとするが、共同で作りだされるべき新しい政治組織は、「トロツキスト」的伝統を共通の背景にしたものではない。
歴史的経過と潮流を異にする、他の社会主義政治組織との統合は、われわれにとっても初めての経験である。したがって、その目標を実現するには多くの試行錯誤と困難がつきまとうだろう。しかしわれわれは、あえてこの課題に挑戦する。新しい時代における社会主義と革命運動の刷新・再生のためには、この挑戦は避けがたいものである。
「左翼の危機」の中での、政府・支配階級の憲法改悪・「参戦国家」体制作りと、新自由主義的「構造改革」の加速化は、新しい左翼イニシアティブに登場に向けた闘いを緊急の任務としている。こうした政治組織的統合は、あらかじめわれわれの側からの一方的プログラムに基づくものではない。共通の原則、課題を討論し一致させていく過程そのものが、具体的な統合の条件を規定する。
社会主義の再生、新しい左翼政治組織の建設のためにともに討論し、行動しよう!
(2005年2月)
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日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)
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日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)(にほんかくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめい だいよんインターナショナルにほんしぶ)は、日本の新左翼党派(トロツキー主義)。略称、第四インター(口語体はインター)。部外者から四トロ(よんとろ)と呼ばれることもある。第四インターの「四」とトロツキストの「トロ」を組み合わせた名称である。侮蔑的なニュアンスを含む。
指導者は、西京司(大屋史朗)、岡谷進、太田竜、酒井与七、織田進ら。 機関紙誌は、『世界革命』(旧『第四インターナショナル』)。
1957年12月、日本トロツキスト聯盟から革命的共産主義者同盟に改称。 1958年8月、社会党への全面的加入戦術の提起を却下された太田龍派が脱党して、トロツキスト同志会が結成される(革共同第一次分裂)。 1959年1月、革共同議長だった黒田寛一が警視庁公安部に民主青年同盟の情報を売ろうとしていたことが発覚。8月の革共同第一回大会で黒田を除名するが、本多延嘉ら黒田を擁護した反スターリン主義派が脱党、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成する(革共同第二次分裂)。
70年代には「極東解放革命-急進主義統一戦線」を掲げて、とりわけ三里塚闘争に力を入れ、1978年には成田空港管制塔占拠事件を主導し、日本支部が掲げた成田空港の「3月30日開港阻止」のスローガンを実現させた。
1991年、第四インターナショナル統一書記局派の第13回世界大会は、80年代初頭に表面化した「性差別問題」を理由に、日本支部から「支部」としての資格を剥奪する。世界大会の決定は「女性同志の意志に応じて女性同志を第四インターナショナルのメンバーとみなす」とした。この時点で組織としての日本支部は解体した 現在、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と国際主義労働者全国協議会(労働者の力)の二つのグループが「支部」ではなく「パーマネント・オブザーバー・グループ」として第四インターナショナル統一書記局に参加している。1987年に形成された第四インター女性解放グループは1995年に実質的に解散した。
目次 [非表示]
1 革共同関西派
2 第四インターナショナル日本支部
2.1 70年代
2.2 80年代以降
3 関連項目
4 外部リンク
[編集] 革共同関西派
指導者は、西京司(大屋史朗)、岡谷進。 機関紙誌は、『世界革命』、『第四インターナショナル』、『プロレタリアート』。
1960年11月、第四インターナショナル日本委員会多数派と統合して第四インター日本支部を形成。
西、岡谷は、50年代初頭の日本共産党の「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの武装闘争時代の体験から、とりわけ学生の実力闘争主義的傾向には常に批判的だった。1957年に開始される日本共産党綱領論争において、京都の共産党学生対策部(学対)の責任者でもあった西が執筆した『レーニン主義の綱領のために』(「沢村義雄」名義)は、学生共産党員はもとより当時共産主義者同盟が指導する全学連の内部においても、よく読まれ影響を与えたという。しかし、60年安保闘争における全学連の突出戦術を厳しく批判し、また安保闘争よりも、当時一方で高揚していた三池闘争を重要視し、「三池-全国炭鉱国営化・労働者管理」のスローガンを対置する傾向に、当時の急進的な学生から「経済主義者」と批判され、離反を招いたといえる。
[編集] 第四インターナショナル日本支部
指導者は、西京司(大屋史朗)、酒井与七、今野求、織田進。 機関紙『世界革命』(1976年から週刊化、96年に『かけはし』に改題)、理論誌『第四インターナショナル』(不定期刊)。
1965年2月、国際主義共産党(ICP 太田派)と統合して日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)を形成。1966年頃に、前年の太田が指導した三多摩社青同による立川米軍基地突入闘争(太田龍の項参照)と日韓条約批准反対闘争の総括をめぐって批判された太田が離脱、太田とICPが形成していた三多摩社青同の「トロツキスト・フラクション」も崩壊する。一方で67年頃から独自に形成されてきた「トロツキスト」を標榜する社青同国際主義派が登場し、日本支部に接近する。社青同国際主義派は、68年の10.21国際反戦デー新宿闘争への800人動員をピークに「新しいトロツキスト潮流の登場」を印象付けた。69年、社青同国際主義派は日本支部に正式に合流して、学生組織「学生インター」に発展する。
酒井らの「新しい世界的青年反乱の時代の始まり」を基本的情勢認識とする急進主義派と、西らの「旧関西指導部」の「労働者革命主義」とでも言うべき当時としては「右派」的な傾向がしばらく共存した日本支部だったが、1969年5月31日におこった大阪教員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に第四インター系の「国際主義高校生戦線」のメンバーを含む210人の反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、壇上を占拠するという事態の評価をめぐって論争が発生する。西派は「高校生の行動は運動破壊にすぎない」と断じたのに対して、酒井派は「現在起こっている事態は、フランス五月革命に代表される新しい世代の新しい挑戦なのである。青年の文字どおり急進的な大衆闘争の発展を伝統的改良主義運動の抑圧から防衛しようとしなければならない」と反論、酒井派が多数となる。
以後、西は指導部の第一線からは退き、「全人民急進化の時代」という情勢認識による「極東解放革命」(沖縄、韓国の軍事化を前提とした日本「本土」の -日本社会党および日本共産党的な- 「一国平和主義」に反対し、反植民地運動-アジア人民と「本土」人民の連帯と結合による東アジア総体の反帝国主義闘争の高揚によって米日韓軍事同盟を打ち破る、とする理論)を掲げた「ラディカリズムの極としてのトロツキスト運動」を牽引する酒井、織田の路線が、70年代の日本支部の基調となる。
[編集] 70年代
この「極東解放革命」路線のもとで、日本支部は、
三里塚闘争(「全国住民運動の頂点としての三里塚」という位置づけ)
70年安保・沖縄闘争(沖縄で起こっているのは軍事植民地に対する「反植民地運動-沖縄革命」であり、また、沖縄住民の九割が要求する本土復帰に対する「反返還」や「沖縄独立」はセクト的な反動スローガンである、という認識から「沖縄人民の本土復帰要求支持・沖縄労農自治政府の樹立」をスローガンとする)
ベトナム革命連帯(チェ・ゲバラの「第二、第三、もっと多くのベトナムを!」という呼びかけに応えて、ベトナム戦争を一般的な「反戦」ではなく、植民地解放革命の進行の過程と捉えて連帯するという立場)
韓国民主化運動連帯
部落解放闘争(「狭山差別裁判」糾弾闘争、映画『橋のない川』上映反対運動など)
その他、霞ヶ浦高浜入干拓事業反対運動(干拓事業は1978年に中止を決定)やロッキード疑獄糾弾闘争などの大衆運動に積極的に取り組んだ。
その路線的特徴としては、官公労などの「労働者本隊」の戦闘化とその内部での組織化を推し進めつつ、当時ベトナムに代表された植民地解放運動や「労働者本隊」の外で展開されている三里塚や反公害などの住民運動や部落解放運動を結合することによって、「人民総体の反帝国主義化による権力闘争」の高揚を図る、とでも言うべきものだった。また、左翼内部の物理的抗争(内ゲバ)や爆弾などを用いたテロリズムを否定して「大衆運動主義-大衆的実力闘争」を掲げていた。
1972年以降、それまでの新左翼運動の三大党派であった革マル派、中核派、解放派が三つ巴の「内ゲバ戦争」を激化させる中、日本支部は急速に勢力を伸ばしていく。75年には、学生インターと国際主義高校生戦線、そして主に東北地方の反戦青年委員会のトロツキスト・フラクションとして青年労働者を組織していた国際主義労働者委員会(指導者:石森健、大門健一、遠藤一郎ら)が統一して、青年組織・日本共産青年同盟を1400名で結成する。また、自衛官向け宣伝誌『兵士と労働者』(80年代半ば頃まで発行)を発行し、自衛官の組織化を位置づけていた。あるいは「社会主義をめざす婦人運動を」をスローガンに『婦人通信』を発行し、1978年に女性大衆組織・社会主義婦人会議を結成する。
1978年3月26日、「空港包囲・突入・占拠」をスローガンに成田空港開港を阻止する実力闘争を構造改革派のプロレタリア青年同盟、共産主義者同盟戦旗派とともに展開し、地下道から空港内に突入した十五名の行動隊が空港の管制塔に突入して通信機器を破壊した。それと同時に、四千名もの実力闘争部隊が空港各所から突入し、ついには警官隊が発砲する大騒乱となり、成田空港の開港を二ヶ月遅らせたいわゆる「管制塔占拠闘争」を主導した。
[編集] 80年代以降
80年代に入ると、「成田空港の二期工事着工阻止-空港廃港」を最大のテーマに、反戦-反安保-反核、労働運動の右翼的統一反対などを掲げて、運動を展開する。82年、三里塚現地闘争本部の指導的幹部による「性的接触」が被害女性メンバーの告発によって発覚する。当時の左翼のウーマン・リブやフェミニズム軽視の傾向や、まだ「セクシャル・ハラスメント」や「デートレイプ」などの概念や言葉もなかった時代ということもあり、当初は加害者の行為の定義をめぐって議論が紛糾する。議論の末、「女性の望まない性的接触はすべてレイプである」というフェミニズム的解釈を受け入れ、加害者の行為を「レイプ」と定義し、83年に組織として問題を公表し「自己批判」した上で除名する。また、組織内調査の結果、複数の「女性の望まない性的接触」および「女性差別的な組織対応」が発覚し、加害男性メンバーはいずれも除名される(いわゆる「ABCD問題」)。
この同時期、日本支部は三里塚闘争の方針をめぐって、中核派との対立を深めていた。農民の土地を多くの支援者たちで共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせる、いわゆる「一坪再共有化運動」の是非をめぐる空港反対同盟内の農民の対立を背景に、83年3月8日に空港反対同盟は日本支部などが支援する「熱田派」と中核派などが支援する「北原派」に分裂する。この分裂に際して「新しい型の反革命と化した第四インターが、一坪再共有化によって土地を政府・公団に切り売りしようとしている」とした中核派は、1984年の1月に同時五箇所の日本支部メンバーの自宅、そして7月にも同時に三箇所のメンバー自宅を襲撃し、計八人の日本支部メンバーを頭蓋骨陥没や左足切断の重傷者二人を含む負傷をさせる。
このテロに対しては、日本支部は物理的報復ではなく「中核派糾弾キャンペーン」を広範に行うことで、運動圏において中核派を孤立化させることに一定成功する。しかし、「組織の集団生活化」も含むテロへの警戒態勢のなかで、「組織内女性差別問題発生の根拠と総括」をめぐる議論が、中断することになる。その一方で、国鉄分割民営化反対運動の敗北の総括と総評の全民労協への吸収過程(のちに連合を形成する)をめぐる評価(織田進の「階級の敗北」論)や労働運動方針などをめぐって87年頃から公然と分派闘争が開始され、このことも女性メンバーの不信を募らせる結果になり、数年かけて女性メンバーが日本支部の組織から総離脱していくことになる。
1987年に女性メンバーによって第四インター女性解放グループが結成され、これへの対応をめぐって「女性メンバーの組織内独自結集」に反対した第4インターナショナル日本支部再建準備グループ(MELT)が分裂。さらに1989年には第四インターナショナル日本支部全国協議会(労働者の力)が分裂した。1991年、第四インターナショナル統一書記局派の第13回世界大会では、「日本小委員会の報告と提案」が報告され女性メンバーたちを除いた旧日本支部の状況を「第四インターナショナル支部としての資格欠如」と判断した。その根拠は、80年代初頭に表面化した性差別問題に男性メンバーの側が自己批判、総括を行いえていないこと、その結果、女性メンバー達の一部が独自のグループを結成する(第四インター女性解放グループ)事態をもたらし、女性と男性が事実上別個の組織に属するという事態を引き起こしていた点にあった。また、女性メンバーすべてが第四インター女性解放グループに結集できていた訳ではないことに加え、第四インター女性解放グループを組織内分派として承認しないと主張して分派闘争を始めていた第4インターナショナル日本支部再建準備グループ(MELT)にも、旧日本支部女性メンバーは参加していた。世界大会の決定は「女性同志の意志に応じて女性同志を第四インターナショナルのメンバーとみなす」というものであり、女性解放グループが日本支部としての資格を承認されたという理解は誤りである。しかし、この時点で組織としての日本支部は事実上解体した。第四インター女性解放グループは結集軸であった社会主義婦人会議が1995年に解散し、それとともに女性解放グループの活動も停止した。
現在、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と国際主義労働者全国協議会(労働者の力)の二つのグループが「支部」ではなく「パーマネント・オブザーバー・グループ」として第四インターナショナル統一書記局に参加している。1975年に中核派から第四インターに加盟し、1980年に脱退した村岡到は同年に個人党派「政治グループ稲妻」を「結成」するが、1995年に「解散」を発表。その後「ロゴスの会」「オルタフォーラムQ」などを運営している。2007年には「政治の変革をめざす市民連帯」に関与している。
[編集] 関連項目
トロツキズム
スターリニズム
エルネスト・マンデル
全学共闘会議
反スターリン主義
ニセ「左翼」暴力集団
革命的共産主義者同盟 (フランス)
[編集] 外部リンク
『日本革命的共産主義者同盟小史』党史編纂委員会・編 国際革命文庫 新時代社
『三多摩社青同闘争史』織田進 著 国際革命文庫 新時代社
トロツキー研究所
週刊かけはし
アジア連帯講座
労働者の力
第四インタナショナル中央書記局
ロゴスの会
スパルタシスト
インターナショナル
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F%EF%BC%88%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%AF%E9%83%A8%EF%BC%89" より作成
カテゴリ: 新左翼 | 日本の左翼団体 | 共産主義 | 社会主義 | 第四インターナショナル
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最終更新 2007年12月15日 (土) 12:18。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)
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