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(回答先: Re: 日のおっさん 投稿者 日 日時 2007 年 9 月 19 日 00:05:42)
こんなマニアックゾーン(昼休み板)も見てるんだねー。昼休み版、初お目見えってとこじゃないかな?
BBの時はちょっと精神錯乱状態で、日さんとはロクに話もできなかったんだけど、俺的には日さんの強烈なマイワールド状態は実に興味深いと思っているんだよ。
また、無礼講で少し悪いなとは思うんだけど、俺は“ですます調”がどうも苦手なんだよね。気になるよーなら善処するけど、日さんもフレンドリーにたまにはどーかな?
で、俺が今回の日さんの投稿『真理と真実の混同です』を気に入ってんのはさー、内と外の両方から真理というものを見つめようとしているんじゃないかって感じたからなのさ。
一般的には、外側の事象、つまり結果、言い換えれば過去の中に真理なり真実なり原因なりを探し出そうとするんだけど、より内面的なところ、つまり「今に生きる」ということ、言い換えるなら今における意思・決断・選択に、真理であるところの原因を見出そうとするところにちょっと共感を覚えたのさ。まっどっちかって言うと独我論的な世界感だとは思うけどね・・・。
もちろん興味深いのは、日さんの認識が上記のようなものだとして、どうして日さんがこのような認識を得るに至ったのかってとこかな。
またさ、せっかくだからさらに認識を深めてみようと思うんだけど、“今”ということについては、俺と日さんとの間に多少の誤差もあるかもしんないとは思っているんだ。
それはさ、日さんの書いた次の部分なんだけど、
>真実(事象)が何故にそのように発生するのか、その真理を解明すれば、未来の事象の望むべき方向に向かって照準が定まるのです。
>その照準が定まったら、事象の解明に関わっている時間は、必然減らさざるを得ません。そんな事は二の次になるほど、ライブに生きる事になります。
「その真理を解明すれば、未来の事象の望むべき方向に向かって照準が定まるのです。」って言うのはさ、まだライブ、つまり完全には“今”に生きてはいないなと感じるんだよね。
つまりさ、「未来の事象の望むべき方向」があるということは、それを成り立たせている記憶に基づく過去があると思うんだよ。つまり過去がキッカケになっていると思うんだよ。だからそれは“過去”に生きていることになるんじゃないのかなーって。また「望む」ことすら、それは“今”ではなく“未来”に思いを馳せているわけだし、つまり未来に生きているということになるんじゃないのかなーって。
もちろん、「ライブに生きる」っていうのはさ、「生きる」という観念があること自体が、過去からの記憶の継続性を考慮したものであって、完全に“今”に拘るのであれば、「今に生きる」っていう表現も少し違和感を感じるんだよね。
もちろん“今”というのが“真理”であると俺も思っているんだけど、ただ、“今”っていうのは、少し次元が違う概念のように感じるんだ。絶対性の世界感といったよーなね・・・
。つまりそれは、「死」とか「無」とかいったような相対性の中にひょっこり現れた相容れない概念というか、表現しようのないものというか・・・。どう思う?