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(回答先: ぅおっ!! 日さん、お久っす。 投稿者 CCマーク 日時 2007 年 9 月 19 日 22:39:42)
これが日のペースなのでご容赦ください(忙しかった)。
>こんなマニアックゾーン(昼休み板)も見てるんだねー。昼休み版、初お目見えってとこじゃないかな?
直ぐ下にもありますよ。その大分前にもね。
>無礼講で少し悪いなとは思うんだけど、俺は“ですます調”がどうも苦手なんだよね。気になるよーなら善処するけど、日さんもフレンドリーにたまにはどーかな?
気を使ってくれてありがとう。別に気にはなりませんし、私なりにフレンドリーなつもりなので、お互いにこのままでお願いします。
>で、俺が今回の日さんの投稿『真理と真実の混同です』を気に入ってんのはさー、内と外の両方から真理というものを見つめようとしているんじゃないかって感じたからなのさ。
>一般的には、外側の事象、つまり結果、言い換えれば過去の中に真理なり真実なり原因なりを探し出そうとするんだけど、より内面的なところ、つまり「今に生きる」ということ、言い換えるなら今における意思・決断・選択に、真理であるところの原因を見出そうとするところにちょっと共感を覚えたのさ。まっどっちかって言うと独我論的な世界感だとは思うけどね・・・。
抽象的な言い方ですね。やはり、その一字一句に対応する前にも共通認識を確認し合わないとならないかも知れませんが。
あの時は事実や真実や真理を同義で混ぜこぜに使ってしまう傾向に釘を刺しました。
そうすると時間軸が狂ってしまうのですよ。
WTCの崩壊という事実、爆破か重力崩壊かという虚実、その結論としての真実、そしてそれを成立せしめた真理、というように使い分けた時、たとえ真実の証明が不可能であっても、真理から真実を逆算し、想定上の対策を採ることに意義があると思ったのです。
帰納と演繹の違いとも言えます。
有るだけの、限られた事実の積み重ね→そこからの結論としての真実=帰納
これで終わっては真理もその対策行動も見えません。
帰納の結論真実も含めた事象→その成立する真理の推定(焦点と照準)=演繹
必要なのはその推定真理による今後の対策、個々人の行動化でしょう。
その真理の確信が個々人の中に宿るならば、次はそれを今と未来に敷衍してみるのが先ではないか、ということです。真実を世間に一人でも多く伝えるという作業よりも。
>もちろん興味深いのは、日さんの認識が上記のようなものだとして、どうして日さんがこのような認識を得るに至ったのかってとこかな。
前にカルト1の所で触れた通りです。
>またさ、せっかくだからさらに認識を深めてみようと思うんだけど、“今”ということについては、俺と日さんとの間に多少の誤差もあるかもしんないとは思っているんだ。
>つまりさ、「未来の事象の望むべき方向」があるということは、それを成り立たせている記憶に基づく過去があると思うんだよ。つまり過去がキッカケになっていると思うんだよ。だからそれは“過去”に生きていることになるんじゃないのかなーって。また「望む」ことすら、それは“今”ではなく“未来”に思いを馳せているわけだし、つまり未来に生きているということになるんじゃないのかなーって。
もちろん、「ライブに生きる」っていうのはさ、「生きる」という観念があること自体が、過去からの記憶の継続性を考慮したものであって、完全に“今”に拘るのであれば、「今に生きる」っていう表現も少し違和感を感じるんだよね。
>もちろん“今”というのが“真理”であると俺も思っているんだけど、ただ、“今”っていうのは、少し次元が違う概念のように感じるんだ。絶対性の世界感といったよーなね・・・。つまりそれは、「死」とか「無」とかいったような相対性の中にひょっこり現れた相容れない概念というか、表現しようのないものというか・・・。どう思う?
呼吸という営みを肉体がしているように、ですよ。
吸い続けたり、吐き続けることなどは出来ない。
過去を吸って、今に溜め、未来に吐く。
この一連の動作が今に生きるということです。
間違っていようとも、吸った(経験した)からには、吐く(行動する)しかないという事でも有ります。
単純明快にね。