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(回答先: 日々雑感、歴史を見る感性 投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2007 年 4 月 18 日 17:32:44)
各種ご投稿を読ませていただいた。
inosisi80氏が憲法の形成過程の非合理を説明するば、するほど、細部にこだわればこだわるほど、「真実」 から離れていく印象をうける、最後まで付き合う忍耐力はかけているが。。。
数学の証明問題で、「公式、定理」を無視して「緻密に」論理展開する姿に似ている。
詭弁ではないつもりだ。
ひとつの国家システムが、国民に多大なる人的、財的 及び精神的損害を与えたという歴史的事実、それの認識、それらを捨象したどんな高尚な理論に付き合う気にはなれない。
わたしの論理が飛躍しているとの指摘を受けたが、上記のような「原初的な感覚」は、私にとっては、思考の原点となすものだ、自分の話を語る背景のキャンバスのようなものだ。この種の感覚なしに、どんな思考も画餅にしかすぎぬと思っている。
この憲法の細かい生成過程の勉強はしていないことは告白する。
何十年前の知識と、今まで生きてきた、そして思考した「経験」で書いている。
すこし想像力を働かしてほしい。
不滅の神州、万世一系の天皇支配の終焉。
役員更迭、会社倒産、政権崩壊、新内閣組閣どころの話ではない。
それは、国民に対しても、倫理的な支配権の喪失、無条件降伏を意味している。
支配を形成する全価値体系の崩壊を意味する。
今後起こりうる、北朝鮮の崩壊を想像するとわかりやすいのではないだろうか。
原爆を二個落とされ、東京だって一日で、十万ちかい非戦闘員の死亡者を出している。
それが、単なる「気持がわかりますが」とするなら、これが「非国民」思想でなくてなんであろう(今は「反日」?というのか)。
新憲法が、過去の責任をうやむやにした?
問題は日本人の行動様式、集団無責任性、もっと深いところにある。
それらが、「過去の否定の曖昧」につながったとおもう。このあたりは如往氏の
各種投稿が参考になる。
当時の人たちが、過去から開放された日本人の開放感を語っている。
貴殿に総理大臣になってもらいたいという、市井の人たちからマッカーサー宛てにファンレターが多数舞い込んだそうだ、今手元にないが、袖井林二郎、「マッカーサーの2000日」(中公)に詳しい。
戦時下での抑制から開放され、その開放感を享受したのは、「一部の人」たちでないはずだ。「多くの国民」である。なぜ団塊の世代が生まれたか考えれば、わかると思う。
私は、国民の視点から見て、八月以前以降、価値の「連続性」を見出すのは、無理があると思う。いまさら、日本憲法の無効を説くところ、「牽強付会」、「我田引水」をみる。
ベストセラーに、「歴史もの」は多い。日本人は歴史好き、タミフル同様、新しいものに飛びついてくれるので、出版社にとってはドル箱である。
多少、刺激のある内容、タイトルでないと、「ヒット」にならぬのは理解できる。
過去、多数のベストセラーの歴史刊行物、出版市場に現れ、そして消えていった。
しかし、その種の出版物のいくばくが歴史の試練の耐えて、古典として定着したのだろう。
仕舞いに、どこにでもいそうな善良な「横丁の国家主義者」が、気に入らぬものを
「非国民」のレッテル張りをはり、日本を破滅に追い込んだ共犯者であったという歴史の事実をわすれてはならない、皆、そうならぬよう心がけたいものである。
自分の思うところを、書いたまでだ。
ついでだが、人を馬鹿にしたような論調に、書き手の「弱さ」を見るのは私だけだろうか?