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(回答先: 代案無き、反対論は意味がない。 投稿者 考察者K 日時 2007 年 10 月 03 日 06:56:20)
考察者kさん、こんにちは。
>如往さんの意見も、如往さん紹介の攝津正氏の意見も「我慢しなさい」もしくは「現状維持」という意見であり、代替え案が欠如している。
>すでに生活弱者の者の立場では「現在の状況の延長上には夢も希望も持てない」のにそれを受け入れろと言うのは「その論者自らの既得権益の保護のための意見」にしか聞こえないだろうと思います。
攝津正氏の論考には赤木智弘氏の言説に関し少なくともそれをAgitationとは受けとめることはせずに、極々率直に論評しているとの印象を持っています。しかし、現状の両者の関係性から類推すれば対案の提出がなされるのを望むのは難しいと謂わざるを得ないでしょう。私は固よりおそらく攝津正氏も「我慢しなさい」もしくは「現状維持」などと踏み込んではいないと思いますし、先ずは互いの現状認識の状態を吟味し合おうとするのが本筋であろうと考えています。
それはさておき、私は勝手ながら阿修羅をConsiderationの場と位置付けておりますが、その上ででき得る限り“考察”に纏わる齟齬を解消していきたいと思っています。そのためには概ね二つのアプローチがあると考えていますが、それ等を構成する要件の一つは事案に関する実体験の質量点検の問題があり、もう一つの文献研究の質量精査に関する問題も蔑ろにはできないでしょう。ただし、前者による擦り合わせはネットという場では自ずと限界があり多大な困難性を伴なうものでありますし、また後者の場合には交信内容の質確保のためにも少なくとも100冊以上もしくは20,000頁以上の関係資料(文献を含む)を読み込む必要があるのではないかと想っています。そうしたプロセスを経てはじめて対案は対案としての体を成すのではないでしょうか。否、それでも十分であるとは言えないかも知れません。
ところで、もし最大多数の最大幸福さんが他者に対し何等かの対案の提示を求めているのであれば、それは当事者意識の忘失や当事者能力にたいする不安感の惹起にも通じ、挙句の果ては問題解決に関わる主体性の放棄を意味することにもなりはしないでしょうか。そして、もし仮にここ阿修羅が問題の分析や原因の究明ばかりではなく、代替案の提示までを求められるような情況であるならば、第一に当事者能力の有無が問われなければならないでしょう。例えば企業の意思決定機関である取締役会においては取締役であることが当事者能力を表象することになりますが、さもなければ如何なる対案も討議されることはおろか提出することすらも叶わないでしょうし、況してや第三者による拙速な対案の提示などはお門違いを指摘されることにもなり兼ねないのではないかと思われるのです。
また、会いましょう。