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ゴールデンウィークになってから、映画を2本ばかり見た。
一本は「バベル」
傑作との評判が高く、見ると「気持ち悪くなる」との危険性も指摘され始めた映画である。
この映画は「八方塞出口なし的なエピソードが奇妙な縁によって繋がっている」と云う映画で「人の運」と「人の縁」を、良くできた物語として構成したという映画である。
3つもしくは4つの「独立した物語」はそれぞれのストーリーを作り出し、ストーリーの構成技術は鋭い物がある。
「人は一人では生きていく意味を見出せない」という「全体の主張」を描き出すのは日本編がもっとも適切であろうが、ここは「感性の問題でもある」
一種の狂気を描き出そうとしたのだろうが、他の物語と比べて「浮いてしまった」という感は否めない。
Kからすると、さほどの傑作ではないと思う。ただ、これだけのストーリー展開を絡めた物語を作るのは並大抵ではない。その技術力(構成力)は評価したい。
で、上記は劇場で見たのだが、もう一本はDVDで「日本沈没」を見た。
で、非常に危険な映画だと思った。
旧「日本沈没」は、小説版、映画版、テレビ板をすべて見ているKであるが、SFスペクタル作品という位置付けであり、テレビ板などでは「泣かされた」事もあるが、決して、人情ものではないのが「日本沈没」という作品である。
それが、今回の作品は「感動巨編」になり、お涙頂戴ものに仕上がっている。
しかも、そのテーマは「自分の命より大切なものを見出せますか?」という種類のものになっている。
利己的個人主義の否定であり、唯物論を上回る「正義」があるというテーマである。
多分、それ自体は間違ってはいない。「命」を越えるかは兎も角として、利己主義の利益に優先する「大切なもの」は誰にでも存在するだろう。
それは「何となく生きた一生」より「精一杯生きた生涯(=生きざま)」の方が尊いというような価値観であるが、そのような価値観を認める価値観もあると云うことである。
仮に天災があり、Kの犠牲によって、Kの愛する人の命が救われるのなら、Kだって「Kにできる事を、損得勘定抜きに精一杯やり、その中で命を失う事もある」かもしれない。
しかし、「自分の命より大切なものを見出せますか?」というテーマは危険である。
それは「国益」「国の公共の利益」「日本の国家」「日本の歴史」といったものこそ、個人の生命に優る大切なものだという価値観に直結しやすいからだ。
石原慎太郎氏の映画
「俺は、君のためにこそ死ににいく」が近日中に公開される。
http://www.chiran1945.jp/
志願と云う形の強制命令によって、散った「若き命」は尊いだろう。
しかし、美化するのも間違いだろう。
同様の悲劇がおこらないようにする事こそが「彼らの弔いになる」
少なくとも「自分の愛する者を守るために、他の誰かが愛している存在の生命を奪う」のは、正しいとは言えないだろう。
自分が「守りたい人」がいる。
自分が死んだら悲しむ人もいる。
自分の守りたい人のために「自分が死ぬ」と云う行為は「自分の価値観の押し付け」であるとも言える。
しかも、その行為によって「相手を殺害」するような事があるなら
悲しみの連鎖と憎しみの連鎖を引き起こす事になる。
戦争を否定するのは当然であろう。
それを、「命を捨てる行為こそ美徳」というようなイメージを形成するのは危険であろう。
「損得勘定」を越えた「美徳はある」が「敵の生命を奪っても良いなどという正義はない」
多角的な視点が必要であり、日本側からの視点だけではなく、相手からの視点もあるのである。