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(2 大宮 の続き)
『サンライズ』の社員は、運転手を入れて五人。伊藤という三五歳の独身男性を主任にしている。英語を話せ、経営能力があるのは良いが、人間的風格に一味欠ける。伊藤自身もそれを心得ており、ここぞの時は伊藤の指示で柏崎の営業となる。出版社を含めた柏崎の多くの部下のうち、最も遠慮なく接してくるのがこの男である。最近の伊藤は映画『Shall we ダンス?』の影響を受けて、社交ダンスを習い始めた。柏崎と顔を合わすと、必ず覚えたてのステップを伝授する。
柏崎は、このところ伊藤の背中がやけに伸びているのが可笑しくて仕方ない。柏崎も
伊藤のおかげで、この歳にしてワルツのステップをきちんと踏めるようになったのであるが、もっとも柏崎が社交場とする新宿三丁目では、ワルツなど必要ない。
今年に入ってからも柏崎は、薄暗いバーで、かつてモダン派を称していた文化人たちが、スローバラードでチークを踊るのを見かけた。酔いが回れば、互いの年齢も忘れるのであろうと、熟年男女が抱き合っている姿をぼんやり見ていた。実は柏崎も、女性のリクエストに応じて、チークを踊っていた時期があった。ところが、柏崎に抱かれて踊るたかが一曲のあいだに、なぜか女たちは発情してしまうのである。目を閉じて踊っていると、唇に感触がきて、目を開くと女性の陶酔しきった顔が迫っていることが幾度もあった。以来、柏崎は、目を開いて相手の顔を避けながら踊るようになり、最近では余程のことがない限りチークを踊ることは無い。
柏崎は、伊藤と踊るフォークダンスのようなワルツが結構楽しい。そんな時、二人いる女性社員が「私も社長と踊りたい」と寄ってくる。柏崎は笑いながら逃げる。この繰り返しである。伊藤は若い方の女性社員と踊りたいようだが、彼女は伊藤とは手をつなぎたくないらしい。
「社長はどうして私たちと踊ってくれないのですか」と女性社員が尋ねる。
柏崎は、チークを踊った女性が、「今夜このまま抱いて」と迫ってきたことを思い出す。たかが一曲の踊りで、親密になったと思われることが煩わしい。
瑠璃子からのメールを思い出す。
【件名 無題】
━お仕事で、見知らぬおじさまと踊りました。私はその男性を、あなたがお面をつけているのだと考えたの。そうしたら知らず知らずに燃えてきて、私は誘うように微笑んでしまったの。そのあと、どうなったと思う?…うん、責任あるよね……、でもご安心、最後まで行かなかったから。最後までの相手はあなたしかいないから。━
伊藤と踊って、女性社員の誘いをかわしたときに、おばさん社員が「社長はホモですか」と軽い調子で尋ねた。
「そう見えますか。ご想像にお任せしますよ」と、柏崎は笑いながら返したが「私はあなたのような女性をどれくらい相手にしてきたかわかりますか?」と口に出して言いたい誘惑にかられた。
その時、おばさん社員は「社長の目が怖い」と感じた。目で服を脱がされているような気がしたのである。
柏崎は新橋のうどん屋で昼食を済ませ、午後は新宿の『エベレスト出版』に行く。
柏崎が大宮へ行き、姉のガス抜きを済ませた三日後のこと、その日の午後は、二件の打ち合わせが入っていた。夕方、パソコンに向かうと、小説家志望の女性からのメールが届いていた。
【件名 セックス描写】
━私は子供を二人産みました。女は出産を経験すると、セックスなど児戯に等しいと思うようになるものです。男は出産できないから、生涯そのレベルに固執するのです。セックスなど、大砲とも言える出産に比べると、水鉄砲みたいなものです。白い水をピュッと出すだけですから。━
このおばさんは怒っているのだろうか?柏崎は早速返事を書いた。
【件名 Re:セックス描写】
━わかりました。それでは、大砲のような出産描写を書いて、私をうならせてください。期待しております。なお、私は二年間水鉄砲で遊んでおりません。━
こんな事情を知ってか知らずか、瑠璃子は柏崎をメールで誘い続けている。この日も硬い石を投げつけるような小説家志望のおばさんの他に、瑠璃子からのメールも届いていた。瑠璃子のメールは、いつも「無題」で来る。
【件名 無題】
━今日は仕事で水着になりました。私たちはいったいいつになれば、裸になってシーツの海で泳ぐのかしら。
私だけが脱ぐのでもいいわ。あなたは老体をさらしたくないかもしれないから。それとも、私に目隠しして、好きなことしてもいいのよ。あなたの望み全部受け止めてあげる。━
柏崎が瑠璃子への返事をあれこれと書いては消していると、携帯が鳴った。六時に約束していた、役員仲間の笠井太郎からであった。時計はすでに、六時半を回っていた。笠井は推理小説を書いては柏崎に読ませ、犯人を当てさせるという趣味を持つ。この時も、柏崎が遅刻した理由を幾通りも考えた。残念ながら、いずれの推理もハズレだった。柏崎は、この日も瑠璃子に返信できないままになった。
3 瑠璃子
瑠璃子は、静岡でお茶の卸しをしている旧家の次女である。大学入学時に上京して、卒業後もそのまま一人暮らしを続けている。モデルクラブに所属し、さまざまな雑誌のモデルやパーティーコンパニオンなど、見栄えの良さを商売にしている。その顔立ちはもの静かな落ち着いた雰囲気で、透き通るような肌のためか三十前にしか見えない。美貌を褒められると「お茶をたくさん飲んでいます」と実家のPRも忘れない。その実家からは今でも家賃額の振込みがあり、食料品の詰まった宅急便が届く。独身生活をやめる切羽詰まった状況もなく歳を重ねてきた。現在三六歳。このままではあっという間に四十路に手が届きそうで、何もつかめていない人生に、内心焦りを感じ始めている。
柏崎と瑠璃子の出会いは、都内・ホテルの大きな宴会場で行われた、出版関係者が集まるパーティーの席であった。たまたま近くに立っていたふたりが、お互いに「退屈なパーティーですね」という顔でおざなりの会話をしていると、ボーイが押すオードブルのワゴンが、コツンとハイヒールで立つ瑠璃子にぶつかった。その拍子、瑠璃子の手にあった赤ワインが揺れて、まとっていた虹色のスカーフにしずくが垂れるほど降りかかった。
「すみません。ごめんなさい。どうしたらいいでしょう」とボーイはパニックに陥った。彼はバイトの高校生で、客の対処に慣れていない。
「いいの、いいの、私も仕事なのよ。お客さんじゃないから」と、瑠璃子は素早くバックからティッシュを取り出して処置をし、「自分の仕事をしなさい」とボーイを促した。
「すみません。ありがとうございます」と彼は瑠璃子の好意を素直に受け、ワゴンを押して去った。
「このスカーフ、バーゲン品なの。何と九八〇円」
瑠璃子は柏崎にぺロッと舌を出して、笑いながら言った。柏崎も満面の笑顔で応じた。約一年前の出来事である。
その後、ふたりは一度、渋谷駅前のスクランブル交差点ですれ違った。その日は強い台風が来ていて、柏崎は必死で傘を握っていた。その時、見覚えのある瑠璃子が、横断歩道の向かい側で、びしょびしょに濡れた姿で立っていた。瑠璃子の傘は、おちょこになってしまったらしい。柏崎は、あの子また濡れてる、と思った。瑠璃子はやっと目を開けている状態で、柏崎には気づかず、飛ぶように走り去って行った。
三度目に会ったのは、昨年の十二月。柏崎が社交場にしている新宿三丁目のバーであった。柏崎は、同世代の仲間七、八人と行きつけのバーに入った。すると奥のボックスに、若いハーフの男と一緒の瑠璃子を見つけた。柏崎はハッとして、仲間のする「出版界のえげつない話」をうわの空で聞くことになった。同じ空間にいる彼女が気になる。
ある瞬間、柏崎と瑠璃子の視線が合った。瑠璃子は驚いた様子もなく、かのパーティーでスカーフが濡れた胸のあたりを指で示した。「あの時の私を覚えてる?」と言っているようだった。柏崎はにっこり笑って、手に持っているグラスで乾杯のしぐさをした。やがて、瑠璃子も柏崎もそれぞれの席でグラスを重ね、酔いが回った頃、先に相手に近づいたのは瑠璃子であった、気づけば柏崎の隣に座っており、実際に「乾杯」とグラスをぶつけてきた。ハーフの連れは、先に帰していた。
「今日は私の名前をあなたに教えにきたの。メールするから覚えておいて」
瑠璃子は柏崎の耳に口を寄せて言った。
柏崎は首をかしげた。
「僕のアドレス知っているの?」
「あなたの出版社を検索したの」と、柏崎に花柄のメモ紙を渡した。「瑠璃子」とだけ書かれ、ルビがふってあった━るりこ━ 。「絶対無くさないで」
心配に及ばない。柏崎は瞬時に覚えた。
「今日は大丈夫みたいだね」と柏崎は唐突に言った。
瑠璃子には意味がわからない。
「君はいつも濡れていたから」と柏崎は少し大きな声で言った。
それを聞いた柏崎の仲間たちが突如大笑いした。特に竹田という男がいつまでも笑い続けていた。瑠璃子はなぜそう言われたか理由は判然としないが、柏崎が発した言葉が笑いを呼んだ意味はわかって、顔が赤くなった。そしてうつむいて席を立つと、再びは戻って来なかった。
瑠璃子は初めて会った日から、柏崎に惹かれていたのであろう。また柏崎が気づかぬ時に、瑠璃子も柏崎を見かけたことがあり、自然に再会できる場所を探したかもしれない。あのバーに何回も通ったと思われる。それでなくてはこの広い東京で柏崎の行きつけの店に、瑠璃子がボトルをキープしている理由が説明できない。
翌日、『エベレスト出版社』のパソコンに、瑠璃子からのメールが届いた。そのアドレスは即刻、柏崎のプライベートユースに移動した。
柏崎と瑠璃子のメール交信は、「濡れる」という言葉と再び戯れることから始まった。柏崎の説明を読んで、瑠璃子は強風でおちょこになった傘に感謝する。そしてたちまち、男たちが笑ったもうひとつの「濡れる」の意味に話は及んだ。
女がそうなら、男はどうなるという話になるのは簡単だった。
「あなたの場合は?」
「よしんば張り切る機会がありましても、相手がおりません。妻にも見捨てられております」
瑠璃子が自分のほうから「あなたの愛人になる」などと書き出したのは、あっという間だった。扉を押す前に扉が開いていたが如く、話題は自然にその領域へと入り込んで行った。
瑠璃子は「異常なほどの寂しがり」と自分を説明した。そして寂しさを口実に、頻繁にメールをしてくる。それらのメールは常に詩のような形態をつくろっていた。だからこそ赤裸々であった。ふたりはまだ手さえ触れたことがない。だがすでに瑠璃子は空想のなかでは、柏崎とふたりきりの密室にいた。柏崎も、言葉のゲームを楽しみこそすれ、水をさすような返信は決してしなかった。
たまにふたりはかのバーで遭遇したが、いつも周辺に知人がいた。このふたりが特別に親しいとは誰も思わなかった。柏崎自身も、ふたりきりにならぬように努めていた。
瑠璃子が酔っている時、タクシーに乗せはしても、一緒に乗り込んで住まいまで送り届けることは決してしなかった。
メールでの親しさと実際に会うときの埋めがたい距離、そのギャップが瑠璃子を、柏崎への誘惑をますます強く駆り立てる。この言葉以上にみだらな行為があるだろうか、というほどの言葉が「行為の欠落」を埋めるのである。柏崎は、何もしない関係に限界を感じ始めている。瑠璃子の懸命なメールに感性が動じないのであるなら、言葉とは何のために存在するのであろう。今はまだ、心のなかで瑠璃子を抱きしめるだけである。
瑠璃子は、熱い女の気持ちを知っていながら、会えば殊更冷たい柏崎に深い悪魔的魅力を嗅ぎ取っている。
【件名 無題】
━私はずるい人間が一番嫌いなの、
それなのにあなたは世界一ずるい人ね
・
あなたが悪魔でもいいの
私が天使にしてあげる
・
最高の人生ってどんなものだと思う?
鎖に縛られていることだよ
・
私たちって自堕落そのものね
だから人類は続いているんだよ
・
いつかきっと後悔する
でも、後悔のない人生って何?
・
こんなことしてもいいの?
神様が見てるかも
馬鹿だな、神様だってしたいんだ
・
生活の皮膜の奥に赤く熱い欲望が眠っている
わたしたちそれを起こしたのね
今、そのなかにいるんだ━