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(回答先: スポーツと「徳」について 投稿者 ぼけ仙人 日時 2007 年 3 月 04 日 13:06:17)
人の話を聞くのは何かしら勉強になる
人の忠告に耳を傾けるのも同様
敵対するなら尚のことと言う
過去の投稿で
あっしらという
賢くも敵を多く持った人物が
自己愛を説いている
最終的に人の行為の全ては自己愛から生まれていると纏めてある
彼の出した結論は
現在の一般的な人々にとっては
理想の一範囲内に治まっている
ここに天下の道理ありと
多くの賛同を得るだろう
しかし私はその結論には賛同しえない
むしろ危惧する
もし人の愛とはその様なものだったとして
では
だから
それでどうだと言う
そんな易しい理屈に治まるものであるとして
だから世の中が悪くなって当り前だ
というのか
それとも道徳的観念はもっと発達し
世の中は丸く治まる
というのか
どちらにせよ
その謳う『愛』は
今の世の万人の手にあずける事が出来ない
最終的に自己保身としての愛
に帰結するものと言うならば
心であれ
または神の聖名であれ
それらを容易に身に翳し
独善の解釈のもとに行動する者を幾らでも産む
正義や道徳
法の名のもとにと
人を縛りつけ殺しても
そしらぬ顔が出来る
理と云うものは二面ある
心無き理屈は保守的な性質を持つ
聴いた理屈を己の歯で噛砕かず鵜呑みには出来ない
宗教や著名な理屈を有難がるのは一向に構わないが
人々の行動が共なわないままでは意味がない
このまま同じテーマをいくら語ろうとも
足りぬものに皆が気付かぬ限り
本質は蔭に隠れたままである
人のしあわせを願うのは己の為である
というならば
己のしあわせを願うのは他者の為であり
更に続ければ
互いの為である
世を良くするのはそうした一人々々の意識であり
己が身に不遇あれども
他者への愛を無賞で尽くすべきである
そこ迄出来たら
文句はない
家族や己の友のしあわせを願うの自然である
敵対する者へも心からその至福を願うは本物
故に人の至福とは金銭で推量るようなものでありはしない
この世は詩人の言うには劇場とある
そなたも私も
演者と思しき仲に
立ち振る舞いて
自己の再発見に一喜一憂し
ちいさな存在と嘲笑され見られている
それを心から喜び
この喜びもまた
『人の為にあり』
こうして人は学び
学びに終わりはこない
故に謙虚さを捨てる事は死に等しい
謙虚さは『捨ててはならない』のではなく
『捨てることは出来ない』
人の個性も徳での解釈を
試みられたし