★阿修羅♪ > 雑談専用22 > 264.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
Kは本質が見抜けない人が増えていると思う。
極端に言えば「権力サイドの分断作戦に乗せられてしまっている。」のだろうが、変な所で思考停止してしまっているのではないだろうか?
「君が代不成立」を例にしてみると「校長先生」に噛み付いても何も改善はしない。
教育委員会などの監視要員的役割の人も見に来るので「不起立は自由にしなさい」と云う事のできる校長はいないだろう。
校長の「君が代不起立が行われた時の監督責任」が、どの程度の実態を持つのかは、分からないが「ボーナス査定に響く」とすれば、校長だって「家族の生活のため、何とか不起立を阻止する以外の選択手はない」だろう。
前々からKは、現場監督的な役割を持つ「サラリーマン管理職は、労働者の仲間である」と主張している。
【東京管理職ユニオン】
http://www.mu-tokyo.ne.jp/
という労働組合組織があるが、これは、管理職を含む、正職員でなくとも加入可能なユニオンである。
この方向が正しいのであろう。
「君が代不起立」という手法には賛同できないというのと「権力の強制には反対すべきではない」というのは全く違う。
基本的に必要なのは「東京都の都条例の一文を削除させる」にはどのような手段が有効か?と云うことであり、それが可能なら、労働者・庶民レベルで対立が発生するような手法に拘る必要はないだろう。
本来なら「校長・教頭・教育委員会(全ての人が賛同してくれるとは限らないが)などとも協力して、国歌を強制する事は問題である」と是正を求めていくべきであるだろう。
前からKは「理念には反対していない、手法に反対している」と繰り返し書いている。
「戦略的後退」と「敗北主義」の違いは見極めるべきである。
「君が代不起立」という実力行使という手法に反対しただけで「全人格を否定する」ような事をしていては「敵が増え、孤立化するだけだろう」と思う。
確かに「手法に対する理解者は多い」ので、その仲間たちの中にいれば「自分の主張は多くの人の賛同と共にある」という錯覚も持てるだろう。しかし、それは錯覚でしかない。
社会と言う現実に入った時には「少数派」である事を認識し、錯覚は消し飛ぶだろう。
「給食費未納」と「君が代不起立」は別だというのは間違いではない。
しかし、共に「自分の主観という価値観に根ざした実力行使」である。
Kはその違いを「論証する自信はある」が、どれだけの人が「言葉で言い表す事ができるか?」には疑問もある。
「自分の良心の自由」と「自分の価値観に根ざす自由」は正義感とワガママの区別ができるが、正義感も結局は「個人の主観」であるから、明確な区別というのは論証すると困難だろうと思う。そもそも両者の間に線引きは可能か?可能だとすれば、何を根拠に区切る?
どれだけの人が区切れるのだろうか?
まあ、どうでも良い事である。どうせKは浅学非才のアホでしかない。