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Re:思想・信条・良心の自由は、万人が等しく享受することは可能なのだろうか?
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/207.html
投稿者 heart 日時 2007 年 1 月 27 日 23:06:23: QS3iy8SiOaheU
 

これは、
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思想・信条・良心の自由は、万人が等しく享受することは可能なのだろうか?
http://www.asyura2.com/0610/idletalk21/msg/1502.html投稿者 最大多数の最大幸福 日時 2007 年 1 月 23 日 22:22:54: d1qFhv8SE.fbw
(回答先: 天性の奴隷 投稿者 heart 日時 2007 年 1 月 23 日 10:50:38)
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へのレスです。

(最大多数の最大幸福さん、レスが非常に遅くなり申し訳ありませんでした。
正味五時間くらい考えたのですが、下記の程度のことしか書けずです、申し訳ない。)

まずお断りしておきますが、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」という言葉、これは私が勝手に考えたものです。
「思想・信条・良心の自由」の中に、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」が含まれているというふうに考えていただければよいかと思います。
また、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」というのは、「思想・信条・良心の自由」が保障されているか否かを考える際の一つのメルクマールとして利用できるかと思います。

この文章では、最大多数の最大幸福さんが、衝突する「思想」の例として挙げられた、
「どこかの無法者テロ国家が攻めて来た」という状況下における
「日本を守るためには武力を行使してでも抵抗すべき」という思想と、「戦争は絶対悪だから、いかなる場合でも武力を用いてはならぬ」という思想
について考えてみようと思います。

まず、それぞれの思想の持ち主が個人としてその思想を実践しようとする場合について考えます。
その場合に私が原則とすべきだと考えるのは、
-----------------------------
思想・信条・良心の自由は、内心に留める限りにおいては絶対的に保障される(人を殺すことは善だという思想でさえも)。
他方、外部に表出させる(思想を実践する)場合には、他者に直接的影響を及ぼさない思想であれば絶対的に保障されなければならない(制限を受けない。批判が禁止されるという意味ではない)のに対し、他人を巻き込む思想の場合は制限を受けることがある。
-----------------------------
というものです。
この原則をもとに考えると、
「日本を守るためには武力を行使してでも抵抗すべき」という思想は、実践しようとする際、制限を受けてもやむを得ないと言えます。なぜなら、武力行使をすることにより、武力を行使した対象に危害を加える恐れがあり、他人を巻き込むことになるからです。
もっとも、「どこかの無法者テロ国家が攻めて来た」との想定下での話であり、抵抗しなければやられっ放しでかえってこちら側に死傷者が出るということもあるでしょうから、「武力行使⇒他者の身体を傷つける行為⇒悪であり、思想の自由の行使だなどといって保障するものに当たらない」という単純な図式に当てはめて考えることはできないだろうと思います。
つまり、この思想については、制限を受けるべきか否かについて一概に決定することはできないということです。

他方、「戦争は絶対悪だから、いかなる場合でも武力を用いてはならぬ」という思想は、その実践により他者を傷つけることはありません。ですから、その思想の持ち主がその思想を「実践」しようとすれば、それは絶対に保障されなければならないということになります。

次は、より実践的な事例として、
@)日本国民全員がその思想の如何にかかわらず「武力を行使してでも抵抗」するよう強要された場合と、
A)日本国民全員がその思想の如何にかかわらず(抵抗の手段としての)武力行使が禁止された場合
この二つの場合を考えます。

まず(@)のケースですが、
この場合、「いかなる場合でも武力を用いてはならぬ」という思想の持ち主は、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」を侵されたということになります。

(A)のケースでも、
「日本を守るためには武力を行使してでも抵抗すべき」という思想の持ち主は、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」を侵されています。

つまり、いずれのケースも、誰かの「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」は侵害されています。

これをもっと一般論に広げて考えます。
集団の中には普通、異なる思想の持ち主が含まれています。
そういう中で、何らかの思想に基づきある特定の行動を「全員」に強要すると、必ずと言っていいほど、誰かの「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」が侵害されます。
そして、「何らかの思想に基づきある特定の行動を全員に強要する」というのは、全体主義です。
つまり、全体主義というのは、誰かの「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」を侵害してくるものであり、また、その侵害なしには達成し得ないイデオロギーであるということです。

また、戦争や有事法制も、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」を侵害する恐れがあるものと言えるでしょう。
(例)人を殺したくないという思想・信条・良心の持ち主が徴兵される場合。
人殺しに加担したくないという思想・信条・良心の持ち主が、軍需物資の供与を強要される場合。
人殺しに加担したくないという思想・信条・良心の持ち主が、自分の土地を基地として、あるいは兵隊に一時的にでも利用してもらうために提供させられる場合。


【最大多数の最大幸福さん】
>自分の「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由。」は、反面で、他の人の「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由。」と衝突せざるを得ないことが多い

対立することはあると思いますが、衝突はしないのではないかと思います。
衝突するのは、ある特定の思想と、その思想を持たない人の「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」ではないでしょうか。
あるいは、「思想、信条、良心に反することを他人にさせる自由」と、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」とでもいうようなものではないでしょうか。

>だから、やはり、個別の事例・事例で、その都度、是非を議論して、皆で判断していくしかないのかなぁと思っています。

他人を巻き込む思想の場合は制限を受けることがある、と言いましたが、制限の是非については皆で議論をし、皆で判断していくしかないかもしれないと思います。

しかし、ある思想・信条を持つ者に対してそれに相反する何らかの思想に基づく行動を強要するという場合においては、それは是非を議論するまでもなく、許されないのではないかと思います。
もっとも、議論をしてはいけないというわけではありません。議論はすればいいですが、議論してもやはりある行動の強要を受け入れることはできないというのであれば、その意思を尊重すべきだということです(その議論の際に、脅迫的言動があってはならないことは当然のこと)。

>・・・ですから、わたしは、抽象的な言葉を前面に掲げて、議論することは、あまり好きではありません。
>何事も個別具体的に考えて、個々に、是々非々していくしかないと思っています。
>だから、「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由。」では、ダメなのです。

抽象的な概念は私もあまり好きではありませんでした。
しかし、絶対的な原則(自分の主張の土台)を確立する上においては、抽象的な概念というのも、あながち捨てたものではないというか、結構役に立つのではないかと思い始めている次第です。
具体的に論じることは必要です。しかし、具体的に論じるあまり、感情論に陥ってしまう可能性もあります。今回の「思想、信条、良心に反することをしない自由/させられない自由」なる「概念」は、日の君論争をしているうちに思いついた概念ですが、感情論に終わらないためには、こうした概念で物事を一般化して考えることも必要ではないかと思います。

>最終的には、「何を認めて」「何を許さないか」を、他者に対して、結局、ハッキリ言うことになると思います。

自分の考えをしっかり持ち、それを他者に対し下手でもいいからハッキリ言えるかどうかが重要ですね。
それがなければ、個人主義の社会などというものは成り立たないように思います。
そして、自分の考えをしっかり持つようにするためにはやはり教育や家庭環境が全体主義的でないことが必要条件になってくるでしょうね。

>その上で、具体的事例で、議論していく過程で、相手の価値観が変わっていくこともあるのではないでしょうか?

もちろん、議論はすべきでしょうし、それを通じて互いの価値観がよい方向に変わっていけばよいと思います。

>heartさんたちの「日の丸」「君が代」論争を、しばらく読んでいて、わたしも、最近の国家権力の横暴には目に余るものがあると、真剣に思い始めましたので、抵抗運動を応援してあげようという気にもなってきました。

論争をやった甲斐がありました。
嬉しいです。

>なので、抵抗運動のあり方に疑問を呈している人、全般を「天性の奴隷」と切って捨ててしまわれるのは、可哀想だと思います。

抵抗運動のあり方に疑問を呈している人全般が天性の奴隷というわけでは確かにないでしょうね。
しかし、例えば、

「不起立というようなことをして奴隷支配の規律を乱すことは自分の『美意識』に照らしても、また『職務命令の絶対性』に照らしても、許されないことだ。
ここはやはり、職務命令には従おう。でなければ奴隷監督者様たる校長先生にも申し訳が立たない。
支配者・監督者様にご迷惑をおかけしないような形で強制反対を訴える方法を考えればいいではないか。」
と考えるとか、
「不起立というようなことをして、支配者様に知られでもしたら大ごとだ。校長先生様が『管理責任』を問われることになって『ご迷惑』をおかけしてしまうし・・・」
と考えるとか、
抵抗者のことを暇人だからそんなことをやっているんだろうと誹謗中傷する、

という辺りになると、やはりそういう人は天性の奴隷としか言いようがないと思います。
もちろん、こういう考えの人をいかに説得していけるかが、この種の全体主義を潰すためには必要だと思っていますし、だからこそ議論を続ける必要があると思っています(少々疲れましたが)。

>生産手段や一定以上の財産を所有していない人は、皆、大なり小なり「天性の奴隷」なのですよ(笑)

まあそうかもしれませんね。
しかし「天性の奴隷」から少しでも脱却しないことには、ほとんどの問題が解決しないと思います。
例えば環境問題、労働問題、格差の問題を根本的に解決しようとしたら、新自由主義に基づく経済システムを受け入れてその中での「待遇の改善」を要求するのみでは何の解決にもならないでしょう。
本物の「改革」が必要だと思っています。
「支配者」と、「天性の奴隷のままでいいと思っている大勢の人たち」が大きな障害になりますから、容易ではありません。
しかし、疑問を抱いている人もまた大勢いるはずであり、そうした人たちとの連帯を広げつつ、「天性の奴隷のままでいいと思っている大勢の人たち」を説得していくことにより、少しでも事態は改革に向かっていくと思います。

>奴隷同士で、いがみあっていては、真の敵である”強欲者”(=戦争扇動主催者)の思う壷になってしまいます。

いがみ合いではありません、議論、批判です。
まあ、いがみ合ってしまう結果になってますが(汗)
自戒を込めて、下記投稿を紹介しておきます。
--------------
被支配者側におけるあらゆる対立は支配者の思う壺
http://www.asyura2.com/0601/idletalk19/msg/493.html投稿者 heart 日時 2006 年 8 月 09 日 18:59:42: QS3iy8SiOaheU
--------------

ところで最大多数の最大幸福さんの表題の「思想・信条・良心の自由は、万人が等しく享受することは可能なのだろうか?」に対する答えですが、

他人に影響を及ぼさない思想・信条・良心の自由である限り、万人が等しく享受することができます。
影響を及ぼす場合は享受できない可能性があります。
また、他者に対し自己の「思想・信条・良心」を強要するという「自由」は、誰も持っていません。

こんなところでいかがでしょうか。

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