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(回答先: 近代終焉の意味 投稿者 松浦 日時 2007 年 10 月 22 日 05:32:05)
>好ましい事に貴方は哲学を学ばれた経験がありますが、悲しいかな私はこれについては
>専業で、厳格な議論を始めると一方的で会話が成り立たなくなっていきますので、少し
>ずつ、双方の方法の背景を勘案・尊重しながら話を進めていきたいと思います。
成る程、思弁的に過ぎる(失礼)感がありましたが、やはりですか。
小生は学生時代に教養程度に読み漁った程度で、その後、折に触れ、何故このような発想や思考、また行動をするのか?内在論理を探る上からも、哲学にまで遡って捉える必要に駆られて読んでは来ましたが、体系的、専門的に読み込んでいるわけではないので、そっちからのアプローチとなると、やはり戸惑いますし、若干の抵抗を覚えないでもない。
以前哲学畑の人と議論した際、jargon業界用語の連発に閉口した覚えが有りまして、この場合(場所柄上)もう少し一般化というか、能う限り平明なスタイルがいいのではないか、と思っております。
幸い、貴方におかれても、双方の方法の背景を勘案・尊重しながら話を進めていきたいということなので、当方としても大歓迎ですし、そういったシンセリティを好もしく感じております。
>学問的蓄積は、人生と人格そのものですから、相互に尊重し合うのは当然のことです。
唯一つ、最初にお断りしておかねばなりませんが、小生は自分の方法を「学問」とは思ってはいないし、むしろ「学問」を明らめる(これは明らかにするという意味も含む)ところに我が言葉はあると思っております。 危機意識の産物を批評と言うなら、そういう意味での批評の積りではあります。 だから、学的知見を批評のバネとすることはあっても、フットワークを軽くしておく為、出来れば留め金は外しておきたい。(笑)
或る程度の学問的シンセリティを当方に求める積りなら、初めから無い物強請りであることは承知しておいて下さい。
>チャベスとアフマディ・ネジャードが握手し合う事には、現在の国際政治を越えた、
>人類史的意味があります。
実はイスラム世界と南米については、小生も又、似たような(?)感じを持っておりまして、イスラムには環境破壊による都市文明の(滅亡)後の在り方への啓示、そして南米にはクレオール化された後の<ルネッサンス>=復興・再生の暗示として。
>来るべき、余剰拡大の限界点の影響を乗り越えて、未来に復興する勢力であるわけです
>から、滅びゆく体制から見れば、存在自体に圧力を感じるわけです。
>タリバンが、公式に資本主義批判をした時には、私は敢えて注意を促しました。この世>界で、国家の政権を握る勢力が資本主義を否定するという、突出した行為は、イスラムの>何たるかを世界に示していると同時に、世界の支配勢力による抹殺の必然をも意味して。>いました。
ちょっと疑問及び質問。 ではリビアのカダフィ政権は勿論、毛沢東中国やカンボジアのポルポトも同様だったのでは? カダフィを許し、タリバンを許さない違いは?
そして後の中国もカンボジアも、結局は資本主義近代化の道を進んでいるのだし、中国に比べればアフガンの国際政治における地位は殆ど無きにも等しいーこの時点で急いで潰すまでの脅威を感じていたか?といえば疑問です。
そもそも、タリバンはパキスタンの軍情報機関が作ったものだし、この背後に当初よりアメリカが居た(有名どころではR.アーミテージなど)のは公然の秘密でしょう。 第一、当初アメリカはタリバンを強力に支えていましたよ。
>テロという言葉は、安易で品位の無い習俗による命名物ですから
これには反論。
テロリストとは最も今政治的な用語であるが故に、それが流通している状況を問うことの方が重要ではないでしょうか。 テロリストとは<恐怖>を手段にしている者の謂いでしょうが、その使われ方をみれば、そういった者の在り様への恐怖、通じて彼ら(という存在)への恐怖ということでしょう。 半世紀前までなら<野蛮人>と自信たっぷりに切って捨てた存在が恐怖の的と化している。 国内外における<野蛮人>への掛かる眼差しこそが「対テロ戦争」を強力に支えているのです。
>妖怪。マルクスが、未来の主体となり、世界を呑み込む存在になると信じて使った言葉
>ですから
これにも反論。 これは書き手の意図と同時に、読み手の<期待の地平>という問題もあるでしょう。 仮にマルクス側にそういう意図があったとしても、読み手側でそのように読み込んでいたのか?という問題。 <妖怪>が一般にどのようなものとして流通していたか?と言えば<野蛮人>=<他者>(柄谷行人風に言えば、言語ゲームを解せない存在)ではないでしょうか?
つまり、これらで小生が言いたかったのは、<他者>が恐怖そのものになっているーそれが時代の状況であり、「対テロ戦争」はそうした時代に成立する、別の手段にての<政治>だということです。
>近代と歴史総体との関係についてまで、詰めた議論をしたいのですが
この辺は、正直申しまして、確固とした立場とか観念で、というわけではありません。
大まかな理解としては、西欧近代は<奴隷貿易>と中南米からの富の(海賊的)略奪を基底とする大西洋貿易圏=大西洋経済体制の上に成立したもの、と見做しておりまして(貴方のいう余剰そのもの、二重の余剰ですね)、前者の奴隷が産業革命の後<賃金奴隷>(プロレタリアート)となる(それをビジョアルな形で示しているのがアメリカ南北戦争)、そして後者からは、資本の原資蓄積と略奪の対象となった中南米の社会の在り方が<原罪>のように資本主義に刻印されるー共産主義がキリスト教における終末の後の”千年王国論”のようになるーという風に思っております。
そうして、「産業革命」と「アメリカ独立革命」という海からの衝撃に対する欧州(陸)からの応答が「フランス革命」であり、英国から米国への、西欧の枠組みを越えた海の覇者交代に対応したものが「ロシア革命」である。 従って、詰まりは<近代>という磁場の中心に在るのが、こうした、大西洋を挟んだ<海>と<陸>との対立・葛藤である、と。
(誤解を恐れずに言えば)所詮近代諸学もそういった枠組みの中に花開いたものであり、我々が普遍的と見ているのは、そうした座標軸の上に立って(自明の前提として)ーそうしたものに含まれる様々な<偏り>も捨象してー見られたもの(に過ぎない)ではないのか?
ーこのように思ってるわけです。
貴方の「歴史の終焉」のイメージも、そうした座標軸上のことなのではないのか?ーと。
そうして、これからは直観というより直感、これから先に起きることも含めての<仮説>ということで聞いておいて下さい。 或いは先の日米戦争まで入るのかも知れませんが、
今アメリカの上層部で起きてる深刻な矛盾・対立は、歴史の磁場が大西洋から太平洋へシフトチェンジするに伴って起きてるものではないのか?
例えば、これは今のところトンデモ話だろうけど、もし何らかの事情で、ワシントンやニューヨークからカルフォルニア辺りに首都移転や国際機関の中心が移動してきたとするなら、名実共にアメリカは太平洋国家となるわけで、世界や歴史を観る目が一変することになるのではないか? とすると、その時<近代>は一体どうなるのか?
例えば、<地中海世界>における英国と<大西洋世界>における英国は違うだろう。
同じ様に、<大西洋世界>におけるアメリカと<太平洋世界>におけるアメリカは違うものになるのではないか? −こういったことを考えると、<近代>の定義をガチガチにするのは小生にはどうでもいいことのように思えてくるわけです。 まぁ、妄想と言われたら、それまでですけどね...