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Re:れんだいこのカンテラ時評359 れんだいこ 2008/01/20 10:37
【提言6、「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ】
日本左派運動に対する「提言1」で、民族主義的土着型運動を指針させ、「提言2」で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を指針させ、「提言3」で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を指針させ、「提言4」で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよを指針させ、提言5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよを指針させたが、提言6で、「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。
日本左派運動は、世界のそれも同じであろうが長らくの間、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を小児病的に弄んできた負の歴史を積み重ねているように思われる。ロシアのポルシェヴィキ派の運動はその典型で、まさに好んで軍事的暴力で政権を奪取し、次第に一党独裁化させ、政敵を捕まえては反革命の烙印を押す事により安逸に葬ってきた。結果的に求めたものの反対物に帰着させてしまった。
ロシア・ポルシェヴィキの場合、大綱が正義運動であると見なされた故に大目に見られてきたが、今日その実態が明らかになるにつれオゾマシサが露見しつつある。この悪癖が世界の左派運動に伝播したか、政権取らぬ前から暴力的独裁的運動を稽古し、そういうスタイルを革命気取りする風潮を生んだ。これ負の歴史と見据え、そろそろ客観化し俎上に乗せねばならぬのではなかろうか。
どうしてこのような事が起こったのだろうか、れんだいこは考えた。思うに、かの暴力的独裁運動は歴史的にユダヤ教パリサイ派の伝統芸であり、近代ではネオ・シオニズムを自己形成しているが、その影響が濃厚に認められる。これが本筋であろう。が、これを受容した側のお粗末な理論レベルにも問題があるのではなかろうか。彼らは、暴力革命論の「暴力」、プロレタリア独裁の「独裁」を、哲学的政治的革命的次元の概念用語であることを弁えず、彼らの能力に相応しく字句通りに理解して盲目的に従順してきたのではなかろうか。この間違いに起因しているのではなかろうか。
暴力革命論の暴力とは本来、対象とするものの変革を、所定の手続きを踏むと長期間要するものを強行強力的に一気呵成に遂行する手段及び方法のことを云うのではなかろうか。この「強行強力」には暴力革命もあれば暴力反革命的もあろう。そういう意味で、それ自体が自慢になるものではなく常に暴力の質が吟味されねばならないということになる。この時間スパンとスピードが本来の暴力革命論で云われる暴力という意味ではなかろうか。肉体的武器的暴力が必至なのは抵抗勢力の肉体的武器的暴力との絡みに於いてであり、担保しながらもその行使は時々の対抗関係に拠ろう。是非の問題ではなく歴史弁証法に預託されているのではなかろうか。
プロレタリア独裁の独裁とは本来、ブルジョア独裁に対置される用語であり、ブルジョア独裁の支配システムに代わるよりましな社会的合理性のある独裁で無ければならない。ブルジョア独裁下の民主主義が形式的なものであるとすればより実質化かせしめるものでなければならない。ブルジョア独裁下の議会主義が単なるおしゃべりの機関であるなら実質的に審議し執行できる機関でなければならない。つまり、独裁とは云うもののブルジョア独裁よりはかなり高度合理的な支配システムでなければならないということになる。
こういう風に展望すべきところ、何と「独裁」という表現に異常に拘り、かっての王朝制、君主制、貴族制もたじろぎ羨む独裁恐怖政治を敷き、革命的暴力を自讃しつつ行使してきた経緯がある。恐ろしい歴史的後退であるが、これが訝られずに言葉に酔いしれたまま支持されてきた。馬鹿に漬ける薬は無いと云うべきだろう。
ことほどさように、日本のみならず世界の左派運動は扁平な頭脳のままにこれに取り組んできて、その結果自滅し衰微している。当然と云うべきではなかろうか。弁証法的に見ても、革命とは従来質のものをアオフへーベン即ちそこから出藍させるものであり、従来質以下のものを持ち出して強制し歴史的後退するものではなかろう。それさえ分からぬ手合いの運動なぞに巻き込まれるのは真っ平御免とすべきではなかろうか。
もっとも、日本及び世界の左派運動をそのような質のものに成り下げさせ、上手に利用してきたネオ・シオニズムの上部機関の画策があるというのが真相のようである。となると、問題は、それに気づかぬまま抱き込まれ続けている連中の頭脳のお粗末さにも責任の一片があると云うべきだろう。
その点、田中角栄−大平同盟は偉かった。れんだいこが思うに、日本政治史上に燦然と輝いている善政であった。田中角栄−大平同盟は理論的イデオロギー的に難しい事は云わず、人民大衆及び国家民族百年の計に合致するものを施策し続けてきた。そのお陰で今日我々が今なお何とか踏ん張っておられる原資が国民の手の中に残されている。あの手この手で次第に簒奪されつつあるが、そういう富が人民大衆側に残されているということ自体が貴重と云うべきだろう。その田中角栄−大平同盟を解体殲滅した側の者が現下政治をリードしているが、ろくなものではないのもむべなるかな。
以上より、「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ。これを第六指針とする。これを第一指針の民族主義的土着型運動、第二指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめよ。第三指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第四指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ、第五指針の党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第六提言」としておく。
2008.1.20日 れんだいこ拝
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れんだいこ 人生学院
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