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(回答先: Re: れんだいこのカンテラ時評352【「ほんみち」その3、功績その2、近代天皇制批判】 投稿者 こげぱん 日時 2007 年 12 月 17 日 23:01:25)
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れんだいこのカンテラ時評354 れんだいこ 2007/12/16 17:54
【「ほんみち」その4、功績その1、天理教本部の応法主義批判】
さて、宗派としての「ほんみち」をどう位置づけるべきだろうか。天理教教祖中山みきの原教義との関係で、天理教本部と「ほんみち」とでは、どちらがより忠実なのだろうか。まずここを明らかにせねばならない。
左派的には、「ほんみち」の方だろうと位置づけるのが普通だろう。なぜなら、現象的に見る限り、天理教教祖中山みきの「80歳を越してなお度重なる拘引御苦労のひながた」を踏んだのは「ほんみち」であるのに比して、天理教本部は応法化に勤しみ、教祖中山みき教義の核心である「元始まりの話」(「泥海古記」)を隠匿し、その他教義全般を改竄し、教義的に相容れぬ皇国史観に与し時局に迎合していった。
天理教本部のこういう動きに対して、「ほんみち」派は「元始まりの理話し」を毅然と掲げ、結果的に戦前の左派運動が遠く及ばない真っ向勝負の反天皇制運動を繰り広げ大弾圧を喫した。この史実に鑑みると、「ほんみち」こそが天理教原理派であることは疑いないように思われる。れんだいこは、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」でその史実を知らされ、以来「ほんみち」を畏敬している。
ところが、事はそう簡単ではない。以下、その次第を見ていくことにする。
「ほんみち」の開祖・大西愛治郎の教理は、天理教教義の核心として天啓教であることを重視しているところに特徴がある。大西は、この観点から、教祖中山みきを後継した本席・飯振伊蔵の「お指図」を極限まで問い詰め、独自の解釈を生み出した。
大西は、本席没後以降に於いて天理教本部が天啓者を喪失していることを重視し、大正.8.15日の「甘露台人の理の御踏み定め」の体験により大西自身に神がかった事を伝え、「天理教祖の理の跡目相続人」として、「三軒三棟の理」により中宮に迎え入れるよう願い出るところから「ほんみち」活動を始発させている。
その背景にあったのは、天理教本部が、教祖中山みきの御教えに背いて、天理教団を中山家を頂点とするいわば封建的な「お家」秩序の下に再編成しようとする動きであり、それに呼応した応法化であった。この流れにより教義改竄が上から進められ、教祖の御教えとは馴染まない皇国史観を迎え入れ、折衷混交式に教義展開し始めていた。この頃、合法化で力を得た天理教団の教勢が倍化しつつあり、それに応じて教団内に腐敗と堕落がはびこりつつあった。
大西は、この情況に対して敢然と、「天理教は中山家のものではない」、「応法化は教祖の御教えに反する」、「御教えに帰れ」、「『泥海古記』が教義の核心であり、隠蔽は許されない」とする諸点から天理教の正統を争い、本部派に逆「匂い掛け」運動を開始した。これを仮に「ほんみちの天理教本部の応法主義批判」とすると、大西が指導した「ほんみち」運動はその限りに於いて正当性を有していた。かく評価されるべきではなかろうか。
但し、この面に於いては、天理教本部の言い分も聞かなければならないだろう。れんだいこは、当時の応法化があながち責められるべきとは思わない。布教の合法化は何としてでも勝ち取らねばならない流れに有り、天理教本部がこれに取り組んだことは当然であった。応法化の眼目は、教勢の法的保護と信者の安定的囲い込みを図るものであり、私利私欲で為したものではない。一口に応法化といってもその過程には並々ならぬ苦心惨憺があり、苦吟しつつこの道を切り開いていったのであり、このこと自体には咎は無かろう。
この問題は、その巧拙は別として、一般に教義とは別な組織論に関係しており、主として合法と財務問題であり、致し方なかった面があると考える。恒常的な組織形成がもたらす宿命的な別智恵であり、天理教本部のみが責めを負わされる必要はないと思っている。
但し、天理教の場合特殊にここがややこしい。なぜなら、教祖中山みき教義の白眉として人類創造譚があり、これによれぱ親神が人間と世界を創造したのであり、親神の創造時の思いを聞き分け実践するのが信仰目標であるのに、作られた側の人間つまり子供側が作った法律になぜ縛られる必要があるのか、という問題が提起されている。ましてや、教祖みきは頑なに親神一途の信仰を説き続けていたという経緯がある。
思えば天理教は、親神一途のこの御教えを廻り、信仰生成期から親神一途の教祖派と世間並みの世渡りを目指す長男秀司を始めとする応法派が対立していた。教祖亡き後、高弟の一人であった飯降が本席を継いだが、本席は、教祖みきの御教えが崩されない範囲での応法を止むなしとしていた。しかし底流で、本席派と秀司の跡目を継いだ真柱派が応法の手法を廻って根深い対立を繰り広げた。
本席はナライトを後継指名して没したが、ナライトの出る幕は限られ、以降、真柱派の絶対権力が確立した。真柱派の応法主義は次第に限度の無いものへ深入りし、やがて教義改竄と腐敗落腐の道へのめりこんでいった。
こういう経緯を考えると、天理教教祖の神言が、他の宗教に比して徹底的に原理的であり、非妥協的なものであったが故に、教団内が絶対矛盾に陥ったことが分かる。常識的には、そういう教義から始まる天理教である以上、なし崩しの応法化は自己否定の道であり、咎められるべきだろう。これが弁えとなるところ、天皇制絶対主義に屈服し、次第に協力の度を深めていったという否定事象が認められる。
そういう意味で、本席没後、「ほんみち」が本席派に位置しながら真柱派=本部派批判を開始したのは正当だったと考える。教内に「長いものに巻かれよ」式の恭順がはびこり始めた時、これに抗議するのは必要なことであったと考える。こういうことは何も天理教内だけのことではなかろう。
2007..12.15日 れんだいこ拝
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