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(回答先: Re: れんだいこのカンテラ時評354【「ほんみち」その4、功績その1、天理教本部の応法主義批判】 投稿者 こげぱん 日時 2007 年 12 月 17 日 23:02:58)
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れんだいこのカンテラ時評355 れんだいこ 2007/12/16 19:53
【「ほんみち」その5、ほんみち教義考】
いよいよ大詰めに来た。上述で、「ほんみち不敬事件」が時代的正当性を有しており、天理教原理派として存在価値を有していたことを確認した。村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を通読して、そのように受け止めたれんだいこの理解に間違いがあるとは思わない。但し、れんだいこは今自前の天理教教祖中山みき研究を経て、当時とは少し違う見解に立っている。「ほんみち」派の教義が天理教本部のそれよりも教祖の原教義に近いとは必ずしも言えないとみなしている。
「ほんみち」を開教した大西愛治郎の教義理解自体が、致し方なかったとはいえ、既に神仏混交的に俗化せしめられた当時の応法教理に染まっており、それは真実の中山みき教義とは随分隔たっていると考えている。「御教えに帰れ」と叫んで始めた「ほんみち」教義が、教祖の御教えにいかほど立ち返り、忠実なものであったかどうかは別問題であると考える。つまり、問題意識としての正当性と果実の正当性は叉別の物差しで精査されねばならないと考えている。
大西の「お道は天啓者宗教である、天啓者に導かれてこその信仰である」とする観点は、宗教的情動としては違和感無く受けいれらるものであるかも知れないが、れんだいこはやはり疑問を抱いている。果たして、教祖の原教義に照らした時、大西流理解が正確だろうかと疑問を持っている。否この意味では、教祖自身が相応の責任を負っていると云うべきかも知れない。
「ほんみち」自身、この生い立ちの秘密が、教団内からの相次ぐ天啓者騒動に巻き込まれることになり、「ほんぶしん」派から「大西家宗教批判」を受けたりで、相当苦いめに遭うことになった。今日どのように教義化しているのか分からないが、天啓者宗教論は両刃の剣であろう。
結論として、「ほんみち」的理解はあくまで天理教教義の大西愛治郎的理解に基くものであり、教祖中山みきの教えに忠実かと云うと別物であると思っている。「ほんみち」教義の特異は、天啓者後継問答ばかりでにあるのではない。因縁諭し論に於いても、天理教が応法過程で身に付けた、俗化せしめられた神仏混交的因縁論に傾斜しており、開祖みきの御教えとは隔たっているとみなしている。
教祖中山みきの因縁論は、元始まりの諭し話に基いており、これを説けば誰しも明るく素直に勇み、積み重ねた埃りを払うて陽気づとめに向かえる、いわば明るい因縁論であるところに核心がある。世上の因縁論は、前世の祟りだとか積み重ねた業に因るとする諦念論で、聞く者を暗くさせる類いの脅し教義で説かれている。この違いを明白にさせるところに、教祖中山みきの因縁論の意義があるところ、そのように説かれているのだろうか。説かれていないとすれば、教祖中山みきが否定した坊主説教に堕していることになろう。
「ほんみち」の「越すに越せん関論」は「ほんみち」らしいさすがのものではあるが、手放しでは同意し難い。「世界の大掃除が始まる越すに越せん関の日」を念頭に置きながら諸事対策しているのは良いとして、待ち受ける「世界の大掃除」をどのようなものとして認識しているのか、その内実を問いたい。
れんだいこは、俗流のハルマゲドン思想に堕してはもったいないと考える。「世界の大掃除」の起因するものを自然気象に限定しては視野が狭かろう。政治経済文化総体の唐人的なものとの不断の闘争と、その闘争の決戦的なものとしての「世界の大掃除」と構想し、日々たんのうすべきではなかろうか。
実のところ「ほんみち」については関係書物数典を通してしか知らないのだが、踏み込んだ書き方をしてしまった。以上で、「れんだいこのほんみち論」とする。何やら日共と新左翼の関係に似ている面がおかしく面白かった。
2007.12.16日 れんだいこ拝
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