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(回答先: 他文化の否定 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 4 月 06 日 20:13:45)
これは概ね宗教性
一神教にも似た精神構造
他者批判によらねば
己の正当性をアピールできない
「それしか方法を見出せない」
という
「欠落した真理性」に安定志向で突き進む
「一理ある」という感情論から繰り出される"真理性"にも一毒有り
ほぼすべてのルールは感情論より仕上がっている
ろくでもない
こうした"真理性"は
うつろう世の人の心理に安定しやすく
人の同意を得やすい
それを利点とし新たなルールや法律を取り決めする際にも
執行者にその効力を期待される
だがそれは明らかに違和感を伴う
しかし多様に形は変化し
時 所変われば 大衆ももはやお手上げ
こうした「欠落した真理」は
良くも悪くも目先に縛られ暮らす人々に
訳も解らぬうちに浸透し
訳も解らぬうちに蔓延していく
目先も追えぬ様になって初めて気づくものも出る
「見えぬが故の心」棄てる者も拾う者も
行動に全てに現れる
独りよがりの正義が狂った世界を演出していく
そこかしこで病状は悪化し"つつある"
「他」に理解を進めよと
気づいた者は おのおの始めている
*「他愛に生きる」という意識を常に持つ事*
それこそが救いだ
日々の実践によって「正しき」を見つめ
「唯識」に身をおく日々に
"真の喜び"を見出す
その姿は自然の姿 故に心地のいい状態を生み出す
「心」地良き場所に風は吹き
気は巡り 陽の当たる地に鳥が舞い降りるようにして
人に必要な答えはそこに自然と舞い降りる
こちらが誠実であれば相手も誠実な対応をする
当然 誠実でないものには 誠実な対応は期待出来ない
これが自然
故に自然に対して誠実であれば
自然は真実を語りかけてくる
神に誠実であればそれは 義
祖に誠実であればそれは 仁
人に誠実であればそれは 礼
親に誠実であればそれは 孝
子に誠実であればそれは 愛
過去に誠実であればそれは厳
未来に誠実であればそれは勇
動物に 虫に 空間 肉体に
自然に誠実であればそれは智
己に誠実であればそれは 信
全てに誠実であればそれは「心」である
常に目先に溺れず「誠実さ」を尽くし
皆が社会というものに対して「誠実に」そして「他愛に」務めんと欲し
社会の流れを理解し 把握し 阻害し合わず
見返り求めずして 時に譲り 時に息を合わせして
「多利」を求めず 分限を守り
「真心」の処在を内に求め 「至心」と秘める
実践に当たっては様々なストレスがつきまとう
それは願いの大きさ故の試練
苦は乗り越えるたびに自身の寛容さとして
喜びにクリアされていく
人の暮らし 是 全て修行
思えば苦にならぬ
真の諦めの中に苦はかき消える
己をよく観察し 人を知り 皆がそうなれば
無駄な法律やルール
無駄な役人など要らなくなるだろう
そもそも社会の秩序というは
法 ルール以前に
「弱者を守らん」とする心なくして成り立たぬ
無人島の暮らしぶりを見るがいい
すべてが発言者であり 相互秩序を保っている
宗教というものも人々が生きる為の指針でしかない
時に直会で集い 飲み食い歌い 分かち合い
生まれる信頼関係 助け合うサイクル
指針は人の生きる方向性を見失わせない為にある
しかるに多様に無用に誇示し旗揚げされる
宗教団体の集客の為かよくわからないが
世界救護の人権愛護の宣伝文句はじつにかこつけて嘘くさい
我欲に走る者しか出入りしないだろう
欲の深いものは盲信にも走ることはない
利に適えば何処へでも手を合わせるものだ
自分さえ良ければという精神は
痛い目に遭わないとけして解るものではない
故に「教え」というものは大事である
総じて「躾」というのは大事である
何故正しいのか
何故いけないのか
誉めるにも罰を与えるにも
その理由を明確にしなければならない
そのとった行動は正しいのか 間違っているのか
その行動に準じた「気持ち」だったのか
そうでなかったのか
心を汲み取らないままに判断を下してはいけない
ルールに沿って
法に照らして
「正しい事」が褒められる世の中に於いて
心は常に蚊帳の外で縛られている
人として誉れ高き人の最大限発揮される能力なくして
円満に 円滑に 社会は治まらない
人が自発的に「弱者を守らん」と欲する力にこそ理は働く
心に沿って
道に照らして
「正しい事」が必ずしも認められない世の中に於いて
純粋な子どもの「何故」という問いかけは
無知に慣らされ生きてきたものにとっては
まさに不可解であり恐怖となるだろう
いざという時超然とし
盲目にならない精神性
子供らの為に
崩れてしまった土壌を再び慣らさなくてはならない
真理を見つめる「心」は
常に目に見えない世界を傍らに置く事で育つ
「他人の目のない処に於いても我が身を律する」
その気構えがもっとも重んじられる
他愛の精神を実践するには
目先の欲を完全に棄て諦め
自己を静かに見つめ
内実ともに一体の自分となる事である
そこには感情らしき感情は存在しない
故にそれにより得る喜びとは
波立てば破れてしまうような
薄く水面に浮かぶ膜のようなものである
過去も過ぎてみれば 未来を夢むのと何も変わらぬ
すべては空しく感じるが故に行動は颯爽として軽快である
そこに無償なる真実の愛は
崇高に気高く美しく
全てを包み込んで安らかに佇むのである
そうした姿に私は宇宙の理としての神を観る