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(回答先: ピノチェトは経済を回復させなかった [ パワーポリティックス非公式情報 ] 投稿者 なんじゃーこりゃー 日時 2006 年 12 月 15 日 08:02:36)
チリで喜びが爆発 世界史に刻まれた軍事クーデターから33年 ピノチェト将軍の死
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200612132058393
チリのピノチェト将軍が陸軍病院のベッドで91歳で死亡した。軍事クーデターが決行された直後、選挙で選ばれたアジェンデ大統領が、自分を解任できるのは国民だけであると軍部の降伏要求を拒否し、空爆と砲撃で大統領府が火炎に包まれる直前に、「かならずや将来、自由になった人々が大路を歩む日がくるであろう」との遺言を残してから33年が経過した。人々は街頭に飛び出した。これからチリはどこに向うのか。反テロ戦争を唱える米国まで、「ピノチェト元大統領の時代は、『困難な時期』だった」と表明せざるを得なかった。チリの政治の時代が、世界史の中で語られる日が来たのだ。(ユンゲヴェルト特約)
原題『サンティアゴで喜びの祝典』
ゲルト・シューマン記者
アウグスト・ピノチェト将軍の亡骸(なきがら)は、彼の何千人にものぼる犠牲者の亡骸のように埋葬されなかった。それどころか、チリがその歴史を耐え忍んだ恐怖の大量虐殺をした犯人は12日、国防軍の前総司令官を遇する軍隊式の敬意をもって埋葬された。
ただし、自らが独裁制(1973〜1990)の下で迫害され、ドイツ民主共和国(東ドイツ)に亡命していたミシェル・バチェレ大統領は、国葬を拒否した。
91歳の老人は10日、サンティアゴの陸軍病院で心筋梗塞によって死んだ。建物の前で、約2000人の支持者が、勲章をぶら下げた、輝くばかりの白い軍の礼装をまとった人物を写したポスターを振った。軍も大量殺戮犯に哀悼を表明した。兵舎では、半旗が掲げられた。
反対にチリの首都の路上では、ピノチェト将軍の死が10日午後に知れ渡ったとき歓喜の光景が広がった。数千人もの人々が自発的に集まり、弾圧者の死去を祝って乾杯し、1973年9月11日に米CIAの支援を受けたピノチェト将軍に率いられた全軍がサルバドル・アジェンデ大統領を打倒し、死に追いやった大統領府モネダ宮殿に移動した。チリ共和国大統領は最期まで、虚しい結果に終わったが、武器を手に彼が率いた人民連合政権を守るために戦った。
国防軍はあらゆる左派に対する波状的テロ行為で国を覆い、国立競技場は巨大な監獄に造り替えられ、強制収容所が建ち、人民連合のあらゆる偉業は一掃された。犠牲者の正しい数は知られていない。推定値では、警察、秘密情報機関、軍隊によって殺害された人々は、少なくとも3000人にはなる。公式の報告によれば、約3000人の独裁制反対者が投獄され、拷問にかけられた。
10日の夕方、幹線道路アラメダ通りを通ってモネダ宮殿まで移動し、そこで数千もの人々は祝杯を上げ、大声で叫んでいた。「これはカーニバルだ!陸軍大将は死んだ!」幾人もの人々がアジェンデ大統領の肖像画を高く掲げていた。赤い旗と人民連合の旗がたなびいた。戦闘用に装備した警察軍が放水車とともに近づいてくると、市街戦となった。その際、祝杯を上げに集まった多くの人々と6人の警察が負傷した。他の数多くの都市でも、ピノチェト将軍の反対者による政治集会が行われた。
1973年以降もピノチェト将軍の黒幕であった米国はそら涙を流し、「軍事独裁の犠牲者との連帯」を表明した。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、「ピノチェト元大統領の時代は、『困難な時期』だった」と表明せざるを得なかった。反対に、英国のマーガレット・サッチャー前首相は、内心を隠さなかった。「私はピノチェト元大統領の死を『深く悼む』」と表明し、国際的な保守政治家の名において話した。
(掲載12月12日/翻訳 佐藤温子)
写真: ピノチェト将軍の葬儀(BBC)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_pictures/6170867.stm
写真: ピノチェト将軍の死に歓喜する人々(BBC)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_pictures/6167651.stm
写真: ピノチェト将軍の足跡(BBC)