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(回答先: Re: チリで喜びが爆発 世界史に刻まれた軍事クーデターから33年 ピノチェト将軍の死(日刊ベリタ) 投稿者 なんじゃーこりゃー 日時 2006 年 12 月 15 日 08:06:59)
もうひとつの9・11 チリでの軍事クーデターの日 社会の痛手は癒えたのか?
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200209182326063
9月11日は、世界史上初めて選挙で成立したアジェンデ社会主義政権が、1973年に軍事クーデターで打倒され、大統領が殺された日でもある。グランドゼロで死者3千人を追悼する式典が行われたこの日、チリの首都サンチャゴでも追悼集会が開かれた。3万人が殺害された軍事クーデターへの米国政府の関与が機密文書解除で明らかにされて2年が経つ。一方の出来事が黙殺されるという報道姿勢のなかで、アジェンデ政権下の司法省で局長を務めたイシドロ・ブストス氏へのインタビューをドイツ紙「ユンゲ・ベルト」が掲載した。かっての当事者の立場から、民政移管後のチリ社会が抱える問題点を指摘している。(戸坂志明)
──1973年9月11日をどのように経験したのか?
「軍事クーデターの日は、クーデターを阻止するために、あらゆる手立てを講じて、政治的責務を果たそうと思い、チリの自宅を出た。残念ながらクーデターを防ぐことはできず、軍部は血なまぐさい支配権を打ち建てた。与党の人民連合と他の左翼組織は、そのような情勢のなかで、抵抗することを誓ったが義務を果たすことができなかった。防衛組織を整え、共同戦線を組織したが、アジェンデ政権を護ることができなかった」
──その結果、多くの労働組合員、共産主義者、社会主義者が殺害されたのですね。
「その通りだ。散発的だが、レジスタンス活動は続いていた。現に人民は、レジスタンスを組織していたので、軍部は全軍をあげて攻撃を行い、多くの人々を殺害した。また多くの人々が拘禁状態に置かれていることが判明していたし、多くの逮捕者に拷問が加えられた」
──つまり、共同戦線は抵抗するために武器を手にしたのか?
「その通り。しかし、軍部の軍事力の方がはるかに勝っていたので、市街戦は行わなかった。散発的に各組織の軍事部門が行っていたというのが実情だ」
──クーデター首謀者は、外国からの相当な政治的支援と物質的援助を受けていた。
「言うまでもない。当時のニクソン米国大統領とキッシンジャー国務長官の政権は、クーデターを成功させるために可能な限りの支援を行った。たまたま9月11日に起ったのではなく、このクーデターが周到な準備のもとで可能であったということだ」
──西側諸国もクーデターを支援していた。
「イエスともノーだとも言える。欧州では異なった反応があった。フランス、ドイツ、イタリアと他の諸国では、軍事クーデターに反対する大規模な抗議行動があった。チリは東西両体制間で大きな希望の星であったのだ。人は、社会主義へのオルタナティブな道を示す模範であったと言う。アジェンデ大統領の演説では、『社会主義のためのチリの道』だと説明されていた」
──チリ社会が受けた痛手は、29年を経た今でも、傷口として残っているのか?
「社会の受けた痛手は、消え去らない。チリ社会では、以前から少しうんざりしたという議論があり、忘れてしまいたいと思っている広範な階層が存在している。独裁体制による犠牲者の償いを求める少数の活動家の闘いがある一方で、完全な民主主義を再建するための運動がある。チリは今日、制約を受けた民主主義と三権制度の下で生きている。軍事機構は、政府に対して拒否権をちらつかせている。軍部は、独自の司法制度をもち、多くの統治機構を管理し、とりわけ国家安全保障会議を代行している。最終的には、軍事体制を信奉する者と市民の立場を代弁する者が対峙している。議会では、多くの軍部の信奉者の下で、選挙で選出された国会議員は国民の前にではなく、ひとりの独裁者の憲法に従って行動するのだ。選挙制度は管理され、保守勢力が数字の上では上回るようになっている」(「ユンゲ・ベルト」紙2002年9月11日号)
【解説】19世紀に南米で最初に憲法が制定されたように、チリの立憲制の歴史は古い。労働争議が多発し、社会運動の激しさでも知られてきた。1938年には、短期間ながらフランス、スペインに続いて人民戦線内閣が誕生した。そうした時代に医師として、社会運動家として頭角を現した人物がサルバドル・アジェンデであった。52年から社会党の大統領候補になった。69年当時、中南米最大の勢力を誇ったチリ共産党の大統領候補パブロ・ネルーダが候補を辞退し、アジェンデを支持したことで、左翼7党が統一綱領を定めた人民連合が誕生し、翌年の大統領選挙に勝利した。世界で初めて選挙を通じて社会主義政権が誕生した瞬間でもあった。しかし、その直後に選挙結果の尊重と文民統制を支持したシュナイダー陸軍総司令官が右翼に暗殺されたように、左右両派の対立も激しさを増していった。軍事クーデターの翌年にフォード政権のコルビーCIA長官は、「62年から70年まで、アジェンデ当選阻止のために1千万ドル以上の資金を投下した」と米国上院諜報委員会で証言している。
アジェンデ大統領は、野党の活動の自由も含め旧体制下にあった三権制度を擁護しながら合法的に社会主義への移行を計った。最大の課題であった貧困の撲滅にも取り組んだ。また債務の重圧と社会資本整備の遅れから貧困に苦しむモノカルチャー経済の改革にも着手した。本来自国にあるべき資本が国外に流出していることを理由に同国最大の産業である米系の銅山を国有化した。それに対して米国は、戦略備蓄用の銅を市場に放出し、銅の国際価格を下落させ、事実上銅の輸出を不可能にさせた。米国の介入は続き、社会情勢の不安定化工作が繰り返された。トラック業者にストを打たせ、物流を麻痺させた。物価は6倍に跳ね上がり、食糧不足も深刻さを増した。それだけではなく、米州機構を使ってチリとの国境を封鎖した。ニクソン政権下でCIA長官を務めたR・ヘルムズは「73年の軍事クーデターの随分前からアジェンデ政権打倒をCIAは画策していました。ニクソンは、クーデターでも他のどんな方法を使ってでもアジェンデを倒したいと考えていました。70年の大統領選挙ではアジェンデが選ばれないように手を尽くせと言われ、アジェンデが当選すると追い落とすために手を尽くせと言われました」とフランスのポアンドジュールとのインタビューに答えている。
一方で、人民連合内部でも急進的な社会主義への移行と国防軍を廃止した上で人民軍を創設すべきとだの政策を巡り、路線対立が激しくなっていた。アジェンデは、左右両派の暴力対立に憂慮しながら、難しい政権運営を迫られていた。それにもかかわらず、73年3月の総選挙では、人民連合が議席を伸ばした。73年7月、軍部のクーデターに反対していたプラッツ陸軍総司令官(74年に亡命先のアルゼンチンで爆殺)が圧力を受けて辞任し、後任にはアジェンデに外見では忠誠を誓っていたピノチェト将軍が就任した。
73年9月11日、陸海空と警察の4軍による軍事クーデターが決行された。大統領府モネダ宮殿への空爆と戦車による砲撃が始まる直前に、アジェンデ大統領は、国民への最後のラジオ演説で「歴史の転換点にあって、私は人民の信頼に対し自分の命を捧げる。何万ものチリ人の胸に我々が蒔いた種は、必ずや芽吹くことだろう。敵の力は強大であり、我々を屈服させるだろう。しかし、社会の歩みを、犯罪や暴力で押し留めることはできない。歴史は我々のものであり、歴史は民衆が作るものである。やがて再び、大道が開かれ、自由になった人々が、よりよき社会の建設をめざして歩む日が来るであろう。チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!これは私の最後の言葉である。私の犠牲が決して無駄にならないことを確信している。少なくとも卑劣、不誠実、背信に懲罰を加えることが道徳的教訓となることを確信している」とのメッセージを残した。そして、最期まで側近とともに戦い倒れた。
インタビューの中の「独裁者の憲法」とは軍政下の81年に制定されたピノチェト憲法を指す。88年に米国を含めた国際世論による軍政批判の高まりを受けて民政移管。98年にロンドンで病気療養中のピノチェト将軍が司法当局に軟禁された事件は、軍政下で行われた虐殺や拷問の実態を世界に問うことになった。陸軍を中心とした軍部が政府内で独立した組織として影響力を未だに行使している現実をブストス氏は指摘している。民政移管後に行われたアジェンデの国葬にも軍部は欠席した。(戸坂志明)