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CCマークさん、ワヤクチャさん、
最先端の究明課程が、対話によりそのまま
俎上に載せられるという事は
先端的レベルの会話が、ここに行き交っている証拠でしょう。
究明課程であるだけに、対話に参加してその都度、疑問点に
受け答えできれば、、ストレスは生じてこないし
楽な気持ちでいられるでしょうが、そう器用にいかなくて
追い詰められた精神状態になるのを発見(笑)しました。
(これは侑の言い訳の説明に過ぎないもので、
議論の展開あってこその前進なので、議論は歓迎です)
回答については変則的になってしまう事をお許しください。
対話の中間あたりに、分析課程の情況を時おり入れさせて頂くかな〜、。。。
分析の途中経過を、コマ切れで表現(投稿)していくのは少々つらいものがある
というのも、前進中の思考は、目的をもつ為、結果を得るまでは
(よほど緊急事態が降りかからない平常時においては)
そこへ向けて、総展開,総まとめ・総展開,まとめと繰り返す。
繰り返すという事は、結果が正確ではないと感じられる事によります。
総展開,まとめの繰り返し方は、総展開にはその段階ごとに新しい要素が
加わり、ち密なものへと向う課程で、余分なものが除かれ
珠玉の真理の一行へと近付いていきます。
(真理はその時発見できる最高ものと云われたワヤクチャさんの発言も的を得ています)
(発見した人が、これが真理だと社会に表現した段階で、賛否の議論が巻き起こります)
(発見した真理の正当性を訴えていくならば、それだけで一生を費やす価値はあります)
(自身が発見した多数の真理<自然・社会含めて>は、社会に展開するのではなく、
それを思考の土台に組み込んでしまい、それは正しいと証明するムダな時間を省き
目標へ向けて、研究実験実践を継続して常にあらたな真理を加える努力をしながら、
効果の上がる実践方法へと進化を心がける真摯?な姿勢が侑の行動パターンでやんす)
理想の社会へと一歩づつ歩む侑が、存在している事実を否定はできないでしょう。
侑は存在している。人として生きている事実を証明しながら存在している。
(大層な存在ではないが、存在を否定されれば存在していると強調する事になる)
100人の中の一人が侑として、99人が否定しても、侑が存在している事実は
変ならない。侑も含めて全員が言葉で否定は出来ても、存在の事実は変わらない
(本人が否定に加われば、それこそ不自然、存在していますと発言するのが自然です)
【CCマークさん】
>人間の創造主(人間を創造した自然界の力)は人間同士が殺しあうことで、
>何かを収穫しようとしているのかもしれない。
>それは人間には計り知りえないことだ。(正確には計り知り得なくされていることだろう。)
鋭い洞察力です。
認識のレベルがここまで到達していれば、「計り知れ得なくされている」現状をいかに打破して
知る為に周知や創造力を投入して試み続けていけるか
取り組む問題を絞り込み、想定され得るという事は、不可能の壁を超える可能性があるのだと
いうことでしょう。かなり確立の高い可能性になります。歴史時間にもよると考えますが。
【ワヤクチャさん】
>あらゆる事が矛盾なく説明できる論理体系(共同主観)を求め続けてきてそう思われるものが
>出てきた時にそれを真理と呼んできた。
>限りなく真理に近い共同主観とは世界の事を最もうまく説明できる共同主観の事で
>我々がやっているのはこれであり「真理そのもの」をつかむ事ではない。
真理には自然界の真理と、人間社会(システム・制度)の真理とが存在しています。
人間社会の真理については、ワヤクチャさんのおっしゃる認識方法としての、最初の二行が
最適な表現と思われます。真理が進化すると表現されても 納得が得られる分野でしょう。
社会制度の追求課程として、精度の高い捉え方であり、追及活動は継続中という事でしょう。
かんじんな回答が引き伸ばされながら、ムダなことをと感じられたかもしれませんね。
分析の結果を先取りしての部分表現ですが、、、
これも経過の説明が無いので質問が増えるでしょうが、このような形で徐々に展開しながら、
説明の可能な所で、不足を補充していきますので、質問はどんどん出しておいて下さい。
(回答がいつまでもない問題は指摘して催促も可です、専門外はムリなのでお手柔らかに)
研究結果の部分メモ 1
ーーーーーーーーーーーー
宗教は、時に創造的であり。。。。。、。。。。。創造は科学と共通面がある。
ゆえに科学は、宗教を理解(肯定,否定の評価とは関係のない認識が)できる
宗教の存在を認識出来ない立場は。。。。、。。。。創造的所作為を否定的にみる。
ーーーーーーーーーーーー
人類の為の教祖や天皇とか救い主を創造した自然界、(自ら自然界に作られる姿勢も大切)
自然界と人間。創った側(作者)と創られた側(素材)
人類生命の為の共通目的をもった時、自然界と人間の共同作業が可能になる
目的をもって創造された初代の人物は、人々を傷めつけた政治権力から人々を救い出した。
宗教により、それぞれに方法の違いや特色はあるが。
その人物の歴代、つまり末代に至った現在の宗教は、政権に対する民衆側の力が消失している。
社会の情況や問題も違っている。民衆の立場に立って問題を克服する力はないのである。
力を鍛える環境にいないから、力はない。
それなら完全に否定してもよいかと言えば 初代は、人々を強権から、救ったのである。
であればこそ、伝統文化として「やさしく思いやりのある強さ」というものを人間社会が
心の財産として、大切に保存継続して守っていくのも人々には幸せなのではないか。
ここで、誤まってはいけない事は、末代の宗教権力に 政治力があると錯覚してはならない。
腐蝕して政治能力が供なわない政治権力を宗教権力が支え、人々を敵に回すようになったら
人類社会は終りであろう。人々の生存がムリになってしまった。それが現在である。
しかし初代の政治的働き、その活動能力の存在まで、否定してしまう事にはムリがあるのでは
ないか。歴史の事実はありのままに評価をして、伝統文化,心の財産として守っていく方が
人類社会には良いのではと考えるのです。
・・・・・話が横に外れましたが、分析は継続中となっております。
研究結果の部分メモ 2
ーーーーーーーーーーーー
「あらゆる一つのもの」には、二つの性質がある。
「人類社会」という言葉で包括される一つのものも、二つの特質で成り立っている。
それが人類の特質である性質(生命の本質・能力)と存在(環境・生活様式)である。
つまり、生命の「本質,能力」とその「存在,環境」という二つの特質である。
社会を構成する二大潮流の その一方が創造,宗教,科学,生命の本質、という自然界の真理であり
もう一方がシステム,社会,政治,生命の存在、という社会的真理であろう。
ーーーーーーーーーーーーー
社会制度の未熟さが、人類内部の戦争を継続させる。
それを終わらせるのは、社会的真理の進化が達成される時であろう。
自然界の真理と社会的真理が、此方こそ本物だから、そちらは偽りだろうと思い込み
血を流す抗争が続くが
共存調和して人類社会を作り出すとき戦争も終わるだろう。
ワヤクチャさん、CCさん、お二人の対話は
皆さんの提供される貴重な情報,資料,創意により<そこに侑の実践(能力面)も加わり>
新しい時代先取りの、先端的な二大潮流(これまで否定関係)の対話の実現となって
いるようです。新しい時代は近付いているような気がします。
では、また。
☆☆☆☆☆