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下記はとあるところに出したレポートです。
●●さんというのは、最近政界を引退したある経済学者です(竹中ではない)。
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●●さんは、学者がどんどん大臣になるなどして政治に関与していくべきとの趣旨のお話をされました。私は、学者の意見を政治に反映させることには賛成ですが、学者が政治家になることによって、政治と一体化することについては、賛成しかねると思いました。
私は、少数者を含むあらゆる立場の人の意見を政治に反映させるべきだと考えており、その意味で、学者の意見についても、政治に反映させるということには賛成です。しかし、学者が大臣になるなどして政治の世界にどっぷりつかるべきかというと、それはちょっと違うと思っています。俗に、「政官財の癒着」、という言葉があると思いますが、「政官財」に「学」が加わって「政官財学の癒着」などということになることは避けなければならないと思うからです。
政治において重視されるべきは、いかに、ある政策について多様な意見を反映させることができるか、つまり、賛成意見のみならず反対意見をも反映させることができるかだと思います。
しかし、例えば、大臣になるということはどういうことかというと、政治権力の立場になるということです。大臣というのは総理大臣が任命するものですから、総理大臣の政策に反対の立場の人が大臣になるということは、まずありえません。また、首相の意見に反対すればまず罷免されるでしょうから、首相の意見に反対するという選択肢は、まず、ないと言っていいでしょう。つまり、大臣になる学者というのはもともと政府の政策に賛成の人であり、かつ、政府の政策に賛成する立場から自身の学者能力を発揮するということになります。
そもそも学者はどういう存在であるべきか。時の政治権力の意思に左右されることなく、自分の頭でものを考え、研究する存在であるべきだと思います。そして、政府との関係においては、賛成意見であれ反対意見であれ、政府に対し外部から意見することはどんどんやっていくべきだと思います。
学者が政界に入ることについて私が懸念することの一つに、政界に入ることが目的化し、その結果、純粋に専門分野を追究するのでなく、時の政府に気に入られるような研究をする学者が増えるのではないかということがあります。学問の政治化です。
私は、学問と政治はあくまでも別個に存在し、学問は政治を検証し、政治は学問を参考にする、という関係であるべきだと考えています。これが逆になったのが、先の大戦の前そして最中の大学ではないかと思います。つまり、戦前・戦中には、学問が政治を検証するのでなく、政治が学問を検証・検閲しました。そして、政治が学問を参考にするのでなく、学者が政治家の顔色を伺って政治を参考にして学問をやりました。学者が大政翼賛会の一翼を担い、戦争肯定イデオロギーの普及という役割を果たしてしまったのです。
政府は国民の代表者によって構成されている、したがって、政府は国民ともともと一体の存在であり、政府と国民は対立関係でなく、ともに歩む関係にある、という考え方があると思います。しかし、私はこの考え方は幻想に過ぎないと考えています。国会議員は、国民の代表者ではありますが、国民に対し権力を行使することのできる立場にあります。政府は権力を行使する立場にあり、国民は政府から権力を行使される立場にあるのです。したがって、政府については、国民の代表者というよりは、国民を支配する者として見る方が妥当でしょう。そして、権力を持つものは、被支配者に対し、必ずしも慈愛をもって接してくれるとは限りません。そして、今は21世紀。支配者の言うことに何でもかんでもひれ伏さなければならない時代ではありません。主権者である国民は、政府が国民の自由・権利を不当に侵害することがないかどうか、つまり、国民の代表者としてふさわしからぬ政治を行っていないかどうか、行おうとしていないかどうかを、常にチェックすることが可能であり、かつそうすべき時代だと思います。そのチェックの一つとして、学問的見地から見た政治のチェックということが考えられるべきだと考えています。
こうした見地から、私は、政治に関わることに関して学者が果たすべき役割として、二つのことを期待したいと思います。
一つは、一般国民及び政府に対し、今そこに存在する政治・社会・経済問題について、意見や考えるための切り口を提示するという役割です。
学者は、世間から全く切り離された世界で学問をしたいとの考えの人は除くとしても、今社会で起きている問題や、これから起きるであろうことについて、それぞれの専門知識を生かして、意見及び考えるための切り口を、人々に対し提示していくべきではないかと思います。大学教員ならば、授業及びゼミ等を通して、学生に対しても提示するべきでしょう。特に社会科学系の分野の学者はそうすべきだと思います。関心分野は人それぞれでしょうから社会で起きていることすべてに対し意見を提示せよと言う気はありませんが、何か一つくらいは見つけて社会に訴えていってほしいと思います。それをしようとしない学者は、日々どんなに頭を働かせて研究していようとも、それは何ら価値のない頭脳労働だと私は思います。
そして、考え方の切り口を提示するにあたっては、批判精神というものを大切にしてもらいたいと思います。特に、世間の多数意見や、時の政府の意見に対して批判的に検証し、意見を提示していくことが、学者にとっては非常に大切だと思います。
特に時の政府に対しては、迎合的でない方が望ましいと思います。何でもかんでも批判せよなどと言うつもりはありませんが、学者であれば、自分の専門分野に対応する分野の政策について、何らかの意見を持っているでしょうし、政府のやることすべてに賛成ということはまずないと思われます。時の政府の考え方がどうであれ、自身の研究の成果に照らして政策を検証し、意見を提示していくこと。一主権者として、また、日々研究できる立場の人間として、そうすることが社会貢献だと思います。
もう一つ学者に期待したい役割は、理想を追求し、そのための具体的方策を考えるということです。学者も大学や研究機関という組織の中の人間ではあるかもしれませんが、他の職業の人に比べ、比較的自由に物事を考え、世に問うていくことのできる立場にあるのではないかと思います。考えるのが職業でもありますから、他の職業の人に比べてより深い考察も期待できるでしょう。理想の追求ということは、ともすれば幼稚とみなされ、非現実的で無意味なこととみなされがちであると思います。しかし、理想の追求なくして、現実の修正・改良だけをしていて、現実がよくなるかというと、必ずしもそうではないと思います。例えば、私は、相互扶助と自給自足を基調とする地域コミュニティを再生させることにより、様々な経済問題、環境問題、社会問題に対処していきたいと考えていますが、これは現在の、自己責任と市場原理を基調とする社会のあり方、政治の方向に真っ向から反するものであり、机上の空論とみなされてしまう可能性の高い考え方です。しかも、私は、地域コミュニティの復活及び環境問題への対処の観点から、自動車をタクシー及び緊急車に限定し、電車、バスなどの公共交通機関を整備し、他の交通手段としては自転車と徒歩だけ、という社会を夢見ています。車社会である現代において、しかも自動車業界が大きな政治的発言力を持っている現状において、車をタクシーと緊急車に限定せよ、との意見は、現実離れしているとみなされるでしょうし、政治家からも敬遠されるでしょう。公共交通機関などが、利用者の観点からでなく、効率性や財政赤字といった経済上の理由をもって廃止されていっている今の方向性を見ても、現実的でないとみなされるかと思います。しかし、抜本的な改革をすることなしに、現状追認型の改善を繰り返すのみで、本当の意味でよい社会が作れるのか、というと、私は疑問符がつくと思っています。そして、そういう理想主義的な見地から物事を考え、提案していくということを、私のような素人の発想でない専門的見地からやっていくことができるのが、学者ではないかと私は考えています。
しかし、もしも、学者が政治の世界に対し、意見発信にとどまらず、政界内部に入り込むということがあると、学者は理想を追求できなくなるでしょう。「現実」路線、政府路線に沿った形での政策提言、政治発言を求められることになるでしょう。また、学者が述べることというのはともすれば権威をもつものとして受け取られがちですから、政府が行おうとしていることに対する箔付けとして利用される恐れもあります。これは、学者の政府への追随という形をとった政府と学者の一体化であり、行き過ぎると政と学の癒着ということになってしまうと思います。
一般国民及び政府に対し、今そこに存在する政治・社会・経済問題について、多数派や政府に対する批判精神をもって意見・考えの切り口を提示すること、そして、理想の社会像とその実現のための方策を追究すること。この二つの役割を学者に期待する立場から、私は、学者は政治の世界に入るのではなく外から検証し、意見する立場に留まるべきであると思います。また政界の方も、専門知識及び専門知識に基づいた学者の知見を、多様な意見の一つとして政治に取り入れるという形で学問と関わるにとどめるべきであり、学問に対し介入することは控えるべきだと思います。