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(回答先: その後の処置は、幾通りもある。 投稿者 haru 日時 2006 年 12 月 19 日 18:32:04)
>haruさん どうもです。
腐った蜜柑の処置は、幾通りもあります。
「なぜ?腐ったのか?」の要因を究明して「次の腐った蜜柑の発生を防ぐための研究材料として観察する」も一つですし、正常な蜜柑とは別にして、更に腐らせて肥料にするとか、もちろん、取り除いて捨てるのもありです。
生存権の否定(捨てるとの選択)は、最後の手段であり、その前に「もう駄目と思うのが早すぎはしないか?腐った部分だけ取り除いて、正常に戻せないか?腐ったら腐ったで有効利用の手段はないか?」と知恵を駆使して、工夫を考えようとするのが「知恵ある人間」です。
何も、工夫も努力もせずに「捨てる」を選択するなら、猿にでもできるでしょう。
ここが、人間と猿の差です。
過去の阿修羅の歴史を見ると「何故か、排除論の場には、おなじみの名前が見えます。」
これは、Kの偏見かもしれませんが、その人達は揃って「論証義務の責任感が希薄」です。
しかも、きまって、自分を省みようとはしないという気がします。
言葉は「相対的」です。
互いに「間違っているのは相手の方だ!」と考えます。
その時、「どちらが態度を改めたら、収束するかを冷静に判断する事が、必要」でしょう。
人間は十人十色で、思想は自由です。
「思想によって批判する」なら言論封殺でしょう。
どうにも気に入らなければ「相手の意見を読まずに流せば、争いは起こりません」
腐った蜜柑には「近づかない」というのも人間の知恵でしょう。
上記の考察が完全に正しいかは、分かりません。
人間は「常に進化すべき」であり、判断もより良い方法論が生まれてくるでしょう。
しかし、「自分は、ここで進化をやめても良い」と「今現在の考察で踏みとどまろう」という人がいます。「現状維持に満足しようとした時から、人は腐り始める」のかもしれません。
上記のKの考察に「全て当てはまる人」は「救いようがない」のかもしれません。