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(回答先: 自己矛盾に気付かないでしょうか? 投稿者 考察者K 日時 2007 年 1 月 21 日 18:43:41)
>「歌詞の内容に関係なく」式典妨害は許されて良いがheartさんの意見であり、式典等のあらゆる場面で対価報酬を受けている拘束時間に関係なく「自分の自由な意思表現の自由がある」という事になります。
歌わない、起立しない、という程度のことが「式典妨害」という認識になること自体私には理解不能ですが。
また、日の君が対価報酬に関わってくるということ自体がおかしいというのが私の認識ですが。
おわかりにならないようなので再掲しましょうか:
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「卒業式は一糸乱れないで規律正しく行われるべき」という価値観は、その価値観自体に、他人に自分の価値観を押し付けるという要素が含まれています。そうした価値観の実現を求める自由は、「一人で外に干渉することなく『持ち続ける自由』」のうちには入りません。
(*注意:何をもって「規律正しい」とするかは、人によって異なる。私自身、規律を否定するつもりはない。規律はある程度は必要であると考える。だが、人によっては行き過ぎた規律と感じられるような「規律正しさ」というものもあるのであり、規律=善と単純には捉えられないと考える。)
「卒業式は一糸乱れないで規律正しく行われるべき」という価値観は、「規律よりも重要なものがある」とか、「その規律は行き過ぎだ」と考える人の価値観と衝突する。そして、前者の価値観は、その価値観を共有する人間だけでなく、後者の価値観を持つ者に対しても何らかの行為を要求するものである。
仮に、前者の価値観を持つ者が、自己の価値観を実現したいがゆえに、後者に対し「規律正しく」行動するよう強要したとしよう。これはまさに別の価値観を持つ者に対し、自己の価値観を強要する行為である。
前者の価値観を持つ者は、後者が自分の思うように行動すれば、自己の価値観が実現され、幸福かもしれない。しかし、後者の価値観を持つ者は、自己の価値観に反する行為を強要されたわけであり、人権侵害を受けたということになる。
他方、後者の価値観を持つ者が、前者に反し、「規律正しい行動」をしなかった場合はどうか。
この場合、一見すると前者の価値観は侵害されたかのようである。しかし、前者の価値観は、実現のためには自己の行動のみならず他者の行動をも必要とするものである。前者の価値観を持つ者に、後者の価値観を持つ者に対し行動を強要する権利はあるだろうか。
ない。そのように行動するよう言葉により説得を試みることは許されるが、そのように行動するよう強要することは許されない。
つまり、他人にこうあってほしいと思う価値観と、自分がこうありたいと思う価値観とは、性質が異なる。(少なくとも)個人の尊厳を最大の価値と認める社会においては、自分がこうありたいと思う価値観が、他人に対する希望を含む価値観の上位に置かれなければならないのである。
これは、自分が行う自由は認められても、他人に行わせる自由(権利)は、認められない、というふうに言い換えることもできよう。
価値観は、
@他者に対してもある行動を要求する、あるいは他者の生活に何らかの影響を及ぼすことによってしか実現されないものと、
Aその価値観を持つ者だけでも完結し得る価値観
、この二つに分けられると思います。
@は、他者に直接影響を及ぼさざるを得ない価値観である以上、制限を受けざるを得ません。
しかしAは、他者に悪影響を及ぼさない限り、制限を受けない。
これを例えば日の君強制問題に当てはめれば、
「教師、生徒は起立・斉唱すべきである」というのは@の価値観であり、制限を受けざるを得ない。
一方、思想、良心に基づき起立・斉唱したくないという価値観は、他者に対しどうこうするよう強要するのでなく、本人が起立しない、斉唱しないということによって完結するのであり(Aの価値観)、起立しない、斉唱しないという自由は侵害されてはならない。
ところが、現実の教育現場では、これがあべこべになっています。
@の価値観が制限を受けなければならないのに、@はAの価値観の者に対し強制し、Aの価値観の方が制限を受けるという事態になっているのです。
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>「他国に舐められるのは日本の不利益」という「自分の良心に従って」左翼集団の集会を妨害する自由も当然ながら是認するという意見でよろしいのですね?
何をもって「妨害」とおっしゃっているかによりますね。
上で再掲した文章をよくお読みになってください。
>式典妨害は「歌の強制(という条例)には関係なし」に許されると云うことですから、
日の君強制に反対することが式典妨害という認識自体、当たりません。
>仏教徒の人がキリストの教会方式の結婚式において「キリスト教は邪教という個人的良心に基づいて、賛美歌の不起立をするのも妥当」という事ですよね?
ということです。
>もちろん、欠席の自由はあるわけですが【(結婚する人の)の晴れ姿を見たい(また、はなむけの言葉を送りたい)という気持ち】は式典妨害行為とは別であるという事でよろしいのですね?
この場合は花嫁・花婿が式典妨害とみなして会場から排除を希望するかどうかがポイントではないですかね。
そうでなく、単に、秩序妨害みたいな意識で排除するということであれば、人権侵害でしかないでしょう。
>「興味のない項目の授業の時は寝ていても良いです。私は私の授業を受けろと言う強制はしません」という教師は一種の【職務放棄をしたと見なせるでしょう。】
>と云う反面で「式典妨害をする教師の自由を認めない管理職教員」の個別教師への干渉行為は「職務放棄」には当たらず、むしろ推奨される行為という事で良いのですね?
いいえ。
>「式典妨害をする教師の自由を認めない管理職教員」の個別教師への干渉行為は「職務放棄」には当たらず、むしろ推奨される行為
そんなことは一言も言ってませんが。
そのような干渉行為は人権侵害であり、職務の範囲を逸脱するものであり、権力の濫用に当たると考えます。
推奨どころか今すぐやめさせるべき行為でしょう。
>「君が代」の斉唱は「明らかな違法性のある行為」と断定はできないでしょうから、付随する論法は価値があるとは思えません。
どの付随する論法のことをおっしゃっているのかわかりませんが。
>既にheartさんは「君が代」という歌の問題でもイデオロギーの問題でもないと主張していますので、みんなで合唱という行為自体に協力しない自由権があるという事ですから
>「音楽の授業において、合唱しない自由はある」が「それを、是正しようとしない教師は職務放棄」と主張されているのと同等です。
日の君問題は音楽の授業の中で行われていることではないでしょう。
全く「同等」ではないと思いますが。
>菜食主義者というのは「人間以外の生物を殺して食べる事」を「自分の良心に従って禁じています。」
>ですから、当然ながら、動物の肉の販売には協力しない自由権を行使するのは自由と云う事になりますよね?
>で、そのような人は「この職場では雇えないので別の職を探してください」というのは「排除論なので許されない」というのですから、その店は「交通事故のように、菜食主義者を雇ってしまった不幸を背負って倒産するしかない」という事でよろしいのですね?
職業選択の自由が保障されている中で、菜食主義者が肉販売に関わるということ自体、おかしな仮定だと思いますが。
肉以外を販売しているのであればその部署に回せばいいことでしょう。
>【単に自分が嫌だからというだけでは理由にはなりませんが、その行動の結果他人に悪影響を与えることが懸念され、それが自分の良心に照らして許せないということであれば、拒否する義務が生まれると思います。】
>君が代斉唱に協力する事で「他人に悪影響を与える」のでしたら、そこを論証してください。
「協力」ではなく、強制に対する服従 というのが実態なのですが?
他人に対する悪影響という面で言えば、ファシズムに陥ることに対する反対とかいろいろあるでしょう。
良心の自由を権力者が侵してくること、それが今後エスカレートしてくることに対する闘いというふうにも言えるでしょう。
また、
【単に自分が嫌だからというだけでは理由にはなりませんが、その行動の結果他人に悪影響を与えることが懸念され、それが自分の良心に照らして許せないということであれば、拒否する義務が生まれると思います。】
というのは、日の君強制問題について言ったのではなく、
貴方の
>会社の販売会議などで「多数決の末に、販売方法が決まったとして」反対していた人には、その決定に協力しない自由もあると思うか?
という質問に対する答えです。
日の君強制問題については、「他人に悪影響を与えることが懸念される」ということも問題ですが、それ以前に個人の思想の自由を侵させているという点に問題があるということもお忘れなく。
>式典妨害の実力行使は様々な意味で「悪影響」を生み出すと思います。
式典をファシズム化させることは様々な意味で悪影響を生み出すと思いますが。
>また、勤務時間内の自由権の行使(濫用)も様々な弊害を集団社会に生み出すでしょう。
日の君に対し不起立することは自由権の濫用ではありません。
>「正しい内心の自由」と「良心」の判断基準とはなんでしょうか?
これはかなり本質的な質問ですね。
すぐには答えられないのでまた後で。
以前の投稿で書いたものがあればすぐ回答できますが、ちょっと探さないといけないですし、忙しいのでとりあえずは以上ということで。