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(回答先: Re: 国家との同一化にすがる自尊心のあり方 投稿者 如往 日時 2007 年 1 月 10 日 01:12:15)
如往さん、おはようございます。
下記の如往さんの御指摘、全くその通りだと思います。
宮台真司の論考に抜けている(あるいは単に私が見落としている可能性を否定はしませんが)のは、如往さんの御指摘にある、
「自尊心」獲得のが多くの労力を要し、また不断の精進を我々に課すものであることに、既に内包されています。
つまり、
この試行錯誤の課程や敗者復活戦に耐えられない人々(宮台曰く“イケてないヤツ”)が国民の多数派を占めるだろう
と言うことだと思っています。
宮台自身は自他ともに認めるエリートですから、耐えられるでしょう。
いや、そんな彼でも学生時代、一時期は性格改造セミナーにはまった時期があるのですから、
一般大衆ならなおさら心理的に耐えがたいことです。
よほど強固に自我(←近代的自我)の確立された人間なら耐えられても、
一般の多くの人々は、いつ終わるとも知れぬ暗中模索の状態が長く続くと、そんな状況に耐えきれずに、
仮衣の自尊心を求めて、如往さんのおっしゃる通り、大いなるもの(=幻想)に身を委ねていくことになるでしょう。
近代後期において、この大量に生じるの“自尊心難民”たちをどう手当していくか?
しかし、イジメ問題で典型的に現れる“集団によるシカト”を例にとって考えてみてください。
周囲の人間からシカトされるとは、つまり仲間として承認され遇されるという最も基礎的なリスペクトを受けられないことです。
これがイジメの被害者にとってどれだけキツイことか、想像力の豊かな方なら理解できるでしょう。
これでは自尊心なんて育まれるわけありません。
また、一方でいじめた側に残るのは、“学級”(あるいは“苛める側”)という“大いなるものとの一体感”を得て、
それでかろうじて自分の自尊心を傷付けられなくてすんだという、“次は我が身・・・”という恐怖感(?)と引き換えの自尊心です。
これも健全な自尊心を育むことはありません。
人間には他人から承認される(←承認とは、誉められることだけを意味しない点に注意)経験が自尊心に形成には不可欠です。
他人から承認されないと自分でも自分を承認できない(=自尊心が育たない)というのは、いささかパラドキシカルに聞こえます。
が、自分の持たないスキルを持つ他人をリスペクトし、自分の身に付けた能力において自分も他人からリスペクトを受ける。
そういう相互承認的関係の中での集団的な作業を通じて“協働”ということを身をもって理解させる。
こういう経験を学校時代に子供たちにドンドン積ませるべきです。
具体的な教育カリキュラムの設計に関しては、私の知識を大きく越えるので、具体的な改善策については何も言えませんが、
その様な教育方法を考えている教育者を増やしていく他ないでしょう。
一般大衆に自尊心を供給する方法の方向性を誤る、
つまり国家や宗教などの“大いなるものとの一体化”によって自尊心を一般大衆に供給する回路が開かれると、
多いに危険だと考えています。
現在、時代の大きな分岐点にあるというを感じがしています。
では、また。
【如往さんの投稿から抜粋】
『連合国(英米)型=実生活における試行錯誤の経験を通じて、自分の能力を高めていくこと、その自分の能力に基づいて自尊心を得るもの。当然、敗者復活戦の許される社会を良しとし、能力が高まると自尊心も高まる。』を、「自尊心」獲得の旨とすることに異論はありません。と同時に、それが多くの労力を要し、また不断の精進を我々に課すものであることを強く意識します。それ故、斯かる過程において新たなメルクマールや媒介項を見出すことができれば大いに心強いのですが、相変わらず暗中模索の状態です。そんな状況に耐えきれずに仮衣の自尊心を求めて大いなるもの(=幻想)に身を委ねていく同僚や後輩が後を絶たない光景を見ることには忍び難いものがあります。