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田原総一郎は「日中戦争は侵略戦争」と決め付けているが、コミンテルンの謀略に嵌められた証拠が出ても無視している
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投稿者 TORA 日時 2006 年 10 月 04 日 10:05:39: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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田原総一郎は「日中戦争は侵略戦争」と決め付けているが、
コミンテルンの謀略に嵌められた証拠が出ても無視している

2006年10月4日 水曜日

◆首相「村山談話」継承…日中首脳会談で表明へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061003-00000201-yom-pol

日中両政府が8日を軸に最終調整している首脳会談に向けた、安倍首相の歴史認識などに関する対処方針が2日、明らかになった。

 過去の植民地支配や侵略に対する「深い反省と心からのおわびの気持ち」を表明した1995年の村山談話や2005年の終戦記念日に小泉前首相が発表した「小泉談話」の精神を基本的に引き継ぐ考えを表明する。

 一方で中国側が求めている靖国神社参拝中止の明言については受け入れず、参拝の有無はあいまいなままにする構えだ。

 首相は、中国が懸念する歴史認識問題について、村山談話・小泉談話は、「歴史的な談話であり、政府としての考えを内外に示したものだ」との考えを伝えた上で、双方の努力によって、未来志向の日中関係を構築していく必要性を訴える。
(読売新聞) - 10月3日3時9分更新


◆「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より 10月2日 反日ワクチン
http://vaccine.sblo.jp/article/1380081.html#more

【張作霖爆殺事件】
 昭和三年六月四日、奉天駅から南へ一キロの地点で満洲軍閥の総領、張作霖が乗った列車が爆破され死亡する事件が起きた。時の首相田中義一はこの事件の処理を誤り、さまざまな手遅れをきたした挙句、結果的には満洲の空に晴天白日旗を招き寄せる結果になった。
 日本の対満洲外交の失敗はこれより前の幣原外交から始まっていた。幣原喜重郎はそもそも中国内の軍閥間の内戦である奉直戦争(大正十三年)のとき、日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚の逆襲にあって満洲そのものが危機にさらされる情勢となったが、浜口首相、幣原外相は動かなかった。
 しかし、呉佩孚の部下だった馮玉祥の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。そのため幣原外相は一時的には名を上げたが、馮の反乱は裏で日本の軍部による謀略だったことがやがて判明した。よくいわれる幣原の“軟弱外交”の結果として、軍が文官の指揮を越えて手を出すきっかけとなった事件だったといえる。
 ところが近年になってモスクワの新情報が開示され、そもそもこの事件はソ連側スパイの謀略によって動かされていたことが、イギリスの調査でほぼ確実になった。
 イギリス情報部の秘密文書によれば、実は馮の背後にはソ連=コミンテルンが張り付いていた。馮がモスクワからの指令で動いていた事実は、コミンテルンからの通信を逐一解読していたイギリス情報部の発表とも一致した。
 ところがさらに、この事件にはまだ隠された重大な陰謀があったという驚くべき事実が伝えられた。
 平成十七年末に刊行された『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリディ)には、恐るべき謀略の実態が書かれている。

 「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」

 たが、どうやら馮の問題だけにとどまりそうもないということは分かってきた。少なくとも張作霖爆殺事件に始まる満洲事変から一次、二次上海事変、さらにはゾルゲ事件へ至る過程にスターリンの手が入らなかったものはないという可能性を知った上で、我々は昭和の激動をみてゆかなければならないだろう。
 コミンテルンの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動による策謀が、これから先、昭和の日本を随所で翻弄することになると思わなければならない。・・・・・
 こうした諜報活動の新事実は戦後六十年近く経って、今ようやく明るみに出ようとしているのであって、昭和初期にそれを知る者は誰もいない。

【満洲事変】
 昭和六年九月十八日夜、奉天郊外にある柳条湖で満鉄の線路が爆破されるという事件が発生した。
 近衛はこうした事態をどうみていたのだろうか。昭和八年二月、近衛は『世界の現状を改造せよ』と題して論文を発表している。

「・・・今や欧米の世論は、世界平和の名に於て日本の満洲に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振りかざし或は不戦条約を盾として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさへある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは、日本に非ずしてむしろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。ただ、日本は此の真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来に於て実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」

 斉藤実内閣が国際連盟脱退も止む無しと決めたのが二月二十日、松岡洋右の国際連盟退場が二月二十四日のことだった。近衛論文はその直前に書かれたものと思われる。ここで近衛は、満洲事変そのものを自存自衛のためだとして大いに評価している。

【崩壊する政党政治】
 昭和七年の年が明けると、満洲情勢は一層緊迫の度を増していた。・・・一月末、突然戦火は一挙に南下した。抗日運動が激化した上海で武力衝突が発生し、日本人居留民を保護するため陸戦隊が応戦せざるを得なくなった。三月まで続いた第一次上海事変である。
 前年十一月には清朝最後の皇帝溥儀が、天津の自宅から旅順の関東軍の本拠地へ脱出していた。満洲国の独立が宣言されたのが三月一日、溥儀が執政に就いたのが三月九日だった。・・・・・

 三月五日、三井財閥の最高幹部団琢磨が暗殺された。これは井上日召という国家主義者が組織した血盟団によるテロ事件である。・・・・・
 この血盟団はすでに二月九日には前蔵相井上準之助を射殺しているが、襲撃リストには西園寺公望、牧野伸顕らも入っており、「一人一殺」を誓い合ったテロリスト集団であった。・・・・
 それから二ヶ月も経たない五月十五日、犬養首相が射殺され、牧野内大臣が重傷を負うというテロが発生した。五・一五事件である。・・・
 今度は海軍青年将校の一団だった。やはりロンドンで行われた昭和五年の軍縮会議の結末に不満を抱く軍人による、かなり計画的な事件だった。
・・・略・・・
 犬養内閣の総辞職に伴って、組閣の大命は海軍の斎藤実に降りたがそれまでの曲折は困難を極めていた。・・・・・
 最終的には西園寺が穏便な選択をした。いわば宥和派的中間案である。だが、この人事に近衛は反対だった。

「政治の責任者は責任をとれる者でなければ駄目だ。軍部がその善悪は別として事実上の政治推進者であるのに責任をとらない。従って、軍部に責任を負わせて組閣させるか、そうでないのならあくまで政党内閣を貫くべきだ。どっちつかずの中間内閣は不可だ」

 この一件から近衛と西園寺との間にはある距離が生じるようになってきた。・・・・・
 近衛の方は青年期の感傷的な性向から社会主義的な理想主義に染まった時期はあったものの、政治家となってからは父の影響を受け継いだアジアの独立と解放を基本姿勢としていた。・・・

◆「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より 10月3日 反日ワクチン
http://vaccine.sblo.jp/article/1385008.html#more

【盧溝橋から上海事変】
 東京裁判で証拠として提出された事件当時の北京市長で第二十九軍副隊長だった秦徳純の「七・七事変紀実」でさえも両軍のどちらが先に撃ったのかについては決め付けていない。そこからは、日中いずれでもない謎の第三者による射撃が行われた可能性が浮かんでくる。
 陸軍の皇道派はソ連とその国際共産主義を警戒し、対ソ国境には熱心でも、中国とことを構えたり南下する方針にはもとより反対していた。その皇道派が組織としての力を落としていたために、統制派がその間隙を縫って中国戦線を拡大し事件を起したのだろう、という見方が大勢を占めていた。
 近衛もそう理解して自らに最終責任があると、己を責めたのではないか。この時代の我が国の情報戦力からみれば致し方もなかったろう。・・・・

 日本軍はこの後、総攻撃を開始して七月までに北京、天津など華北一帯を制圧した。近衛が杉山に命じた不拡大、事態収拾とは裏腹な進展を現地は示し始めていた。
 だか、この時点で日本軍は華北以外に戦線を拡大する考えは持っていなかったので、この時期としては画期的とも思われるほど陸軍、海軍、外務省が一体となって和平案を練っていた。少なくとも日本軍も蒋介石も、まだ全面戦争突入だけは避けるつもりがあったのだ。
 近衛は、蒋介石と直接ひざ詰め談判をする策を講じ、宮崎龍介を蒋介石の元に送って取り次がせることにした。宮崎龍介というのは、かつて孫文と黄興を会わせて辛亥革命にひと役買った宮崎滔天の息子で、こういう仕事にはうってつけだった。ところがその宮崎が神戸で船に乗る寸前、憲兵に逮捕されこの計画が頓挫してしまった。
 杉山陸相が事前に了解しながら自ら憲兵を使って妨害したというので、近衛も怒りが収まらず杉山に問いただしたものの、返答はいっこうに要領を得なかった。このころ、近衛は天皇に呼ばれご下問を受けた。
「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」
 仰せの通り、近衛は今述べた陸海外務の力を合わせた和平案を提示しようと既に準備を進めていた。
 それは、土肥原賢二・秦徳純協定、及び梅津美治郎・何応欽協定などこれまで日本に有利だった軍事協定を見直し、大幅に日本が譲歩する案を示すものだった。この提案は満洲事変で得た日本の既得権をほとんど放棄するほど、国民政府に有利なものを用意していた。
 だが、この案が実を結ぼうとした矢先、またもや不可解な事件が「偶発的」に起きたのである。

 日中間でこの外交交渉が開始された八月九日、上海で海軍中尉大山勇夫の乗った車が銃撃され、運転手ともども殺害されるという事件が起きた。
 車の外には中国軍が自分の手で撃った中国人の死体が転がっており、これを大山が撃ったために反撃したかのような細工がしてあった。
 これでは外交交渉はやれない。遂に八月十三日、両軍戦火を交えた上海事変となったのである。明らかに蒋介石側の兵が仕掛けたマッチポンプで開始された戦争だが、この自作自演をした人物が本当に蒋介石の命を受けた者なのかどうかは不明である。

 またもや起きた奇怪な「偶発的」事件を巡ってはさまざまな憶測がなされたが、現在までで最も有力と思われる史料は先にも紹介したユン・チアン、ジョン・ハリデイの調査による『マオ』である。
 二人の調査によれば、またたく間に華北を占領した日本軍を見ていたスターリンは日本に脅威を感じた。そこで上海で全面戦争を勃発させて、日本を南下させておく手を打った。この裏では周恩来もひと役かっている。かねてより極秘に中国共産党入りを志願していた国民党軍南京・上海防衛隊司令官の張治中将軍をそのままスパイとして蒋介石の傍に置き、工作運動をさせていたというのだ。
 この調査報告が真実であれば、これまでの昭和史はすべて書き変えられねばならなくなるほど迫力に満ちたものだ。『マオ』によれば次のような驚くべき場面が展開される。

「八月九日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。

 日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蒋介石を攻めたてた。蒋介石はこれを却下し、十三日朝、張治中に対して『一時の衝動に駆られて』戦争の口火を切ってはならない、いま一度あらゆる局面を『検討』した上で計画を提出するように、と命じた。翌日、張治中は、『本軍は本日午後五時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り・・・・』と、蒋介石に迫った。
 十四日、中国軍機が日本の旗艦『出雲』を爆撃し、さらに日本海軍陸船隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。張治中は総攻撃を命じた。しかし、蒋介石は『今夜は攻撃を行ってはならない。命令を待て』と張を制した。

 待てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と、虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられた。翌八月十六日、蒋介石はようやく『翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう』と命令を出した」

 盧溝橋をでっち上げ、近衛内閣の不拡大方針と蒋介石の慎重論を手玉にとって戦火を拡大し両者を戦わせたのは、誰あろうスターリン指揮下のコミンテルンだったとすれば、神をも欺くもので石原(莞爾)とて想像もできなかった。生き残りを賭けていた毛沢東の高笑いが聞こえる。今こそユン・チアン調査の精度をさらに上げる史料発掘が望まれるのだ。


(私のコメント)
最近の田原総一郎氏の「朝生」などを見ていると何度も「日中戦争は侵略戦争」と決め付けた発言を行なっていますが、果たしてそうなのだろうか?

戦争と言うものはいったん始まってしまうと止めようがなくなってしまう。ボクシングの最中にいきなりノーガードにしたらKOパンチ食らって負けてしまう。だからどのような展開で戦争が始まったかを追求してゆくべきですが、日中戦争の始まりもいまだに謎が多い。

東京裁判で追及されたように集団的な謀議が成されたと言う事は無い。田原氏も「田中上奏文」が本物であると言うつもりは無いだろう。ところが中国では「田中上奏文」は本物であると信じている人が多い。だから集団的な謀議で中国を侵略したわけではなく、偶発的に始まった国境紛争が中国全土に広がってしまったと言う見方を私はしています。

盧溝橋事件も日本軍も蒋介石軍も戦争を始めるつもりは無かったのに、緊張が高まった時に何度も所在不明な銃撃事件が起きて和平の話は潰れてしまった。このような複数の銃撃事件は、コミンテルンが引き起こしたという証拠が91年のソ連の崩壊などでスターリンの謀略である事が文書で出てきている。

ところが田原総一郎氏は知ってか知らずか知りませんが「日中戦争は日本の侵略戦争」とテレビ番組で連呼し続けている。たまたま安倍新総理が訪中する時期でもあるので政治的な思惑でテレビで発言し続けているのだろう。しかし侵略戦争を日本軍は計画的に行なったわけではないし、その証拠となる「田中上奏文」は捏造されたものだ。

むしろ侵略と言うのなら満州事変のときのほうが集団的な謀議があり、その犯人の中心は石原莞爾とはっきりしている。東京裁判のときも「満州事変は始めたのは私だ。その私をなぜ起訴しないのか」と証言しているが東京裁判では石原莞爾は起訴されていない。

満州事変の経緯についても謎また謎であり、裏には裏があるようだ。だから東京裁判でもGHQは起訴をしようにも石原莞爾に裏をばらされるとまずい事もあったのだろう。ロシアではスターリンの謀略を証明する文書が次々と出てきているが、田原総一郎氏をはじめとして朝日ジャーナリズムは一切無視をしている。

「日中戦争は日本の侵略戦争」のスローガンが覆されるのを田原総一郎氏や朝日新聞は恐れているのでしょうが、これからは歴史家の研究により次々と新しい資料が出てきて真相がはっきりと分かってくるだろう。

ところが安倍新内閣も村山談話や小泉談話を踏襲するようだ。しかし日中戦争がどうして始まったのかはまだ学術的な研究段階であり、本当に日本軍が計画的な謀議で始めたのか、スターリンの謀略に嵌められたのか、歴史学会での真相の究明が待たれます。

安倍新総理は大東亜戦争の評価は歴史家の研究を待ちたいとしているが正しい判断だ。しかし民主党の代表質問などでは鳩山幹事長が日中戦争に対する評価を政治の場に持ち出して政争の具にしていますが、それは間違っている。

安倍新総理は近々訪中訪韓されるようですが、再び日本の政治家による謝罪外交を再開するのだろうか? ここに書いたように日中戦争がどのような経緯で始まってしまったのか、まだはっきりとは究明されてはいない。当事者である石原莞爾などの軍人も近衛文麿首相も真相を知らなかったらしい。

私から見れば田原総一郎氏や朝日新聞はジャーナリストと言うよりも、政治的アジテーターであり、歴史を素直に見る学術的な態度が見られない。新しい事実が次々と発見されているのに、それには目をつぶっている。テレビでも関が原の合戦を論じて何になると暴論を吐いているが、歴史学から見れば時代によって見方も違ってくるのだ。

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