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(回答先: 思考停止者の論理性 投稿者 考察者K 日時 2006 年 9 月 03 日 08:20:16)
人は誰でもミスを犯す
それは仕方がない。
憑き物に憑かれやすい部分があり、思い込みに囚われてしまう事はあるだろう。
問題は「自分のミス」を指摘された時の態度である。
「義憤に駆られる」という行動は許されるだろうが、正しいとは言い切れないだろう。
例えば「贔屓の引き倒し」による介入であった場合は、正しかったかどうか?は考察する必要があるだろう。
義憤に駆られたとしても、「思考停止的一方の味方」をして、なんら論理的考証を示さず、一方の批判をして、議論を打ち切るというのは許されない態度だろうと思う。
人は誰でも、間違いはあるだろうが、そこを説明し納得させる努力は最初から放棄しているなら、最初から注意するべきではないだろう。
「注意をする(意見を書く)」のなら、リスクも発生する。
最初から、リスクを負う気がないなら、行動自体が身勝手で思考停止と判断せざるおえないだろう。
最低限「贔屓の引き倒し」ではない。という点の説明義務と「レスに対して当然発生するであろう相手の疑問への応答の覚悟」くらいは有ってしかるべきであろう。
その上で「何を書いても無駄(相手が論理性を有していない)」と判断するのなら、どちらが論理性がないのかは別にして仕方がないという事もあるだろうが、最初から予断を持って「決め付ける」なら、それは思考停止だと立証されているとも言える。
それでもまあ、阿修羅の住民であるなら、今までの経緯という情報知識もあるだろうから、「予断ではなく高い確率の泥沼化を避けるため、最初の内に予防線を張る」という行為はあるだろうと思う。
でも、この辺は主観でもあり「相手への不当に低い評価」になっている可能性もあり、実際のところは「実際に意見の交換の中で判断されるべき」という部分もある。
言葉だけで取り繕って「逃げを打つ」だけなら、誰でもできるが、阿修羅の住民として考えれば、それは「恥」と評価されても仕方がないし、「卑怯者」のそしりを受けても仕方がないだろう。
やり取りをしてしまえば「自分の間違いに気づかされるかもしれない」し、結果として「撤回」する可能性も「謝らなければならない可能性」も生ずるわけである。反面相手を更生させる可能性もあるが、リスクは負うと言うことである。
そのリスクを負う気がないと言うことの意味と言うのも考えようともしないのなら、そんなものは「屁理屈」でしかないし、思考停止の証拠だろう。
で、これは当然ながらKの考え方であり、間違っている可能性も否定は出来ない。
しかし、それに「反論できない」のなら、何かの行動はするべきであろう。
異議を唱えないのは承認であり、認めたと言うことなのである。