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(回答先: 対象を自己だとするのは実に信仰的だと思っている。 投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 17 日 19:35:21)
前の宿題が終わらねえ内に、次の宿題が出ちまったぜ。まあ、遅れたもんは仕方ねえってことで、後先逆になっちまうが、新しい宿題から片付けさせてもらうぜ。
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>あなたは、「自己を対象とする時、自己は二つに分かれてんのさ」とすぐ下の所で書いているが、自己を無くそうとしていることは、自己を対象化していることではないのか?その時、その無くそうとしているのは、自己ではないのか?自己でないなら、何なのか?
先に断っとくが、自己=主体ってのはオメエさんの作った公式であって、オイラはそう思っちゃいねえよ。だから、オイラが言ってんのは、主体を無くすことであって自己を無くすことじゃねえ。オメエさんの上の記述の“自己”は“主体”と書き直してもらわねえと話がこんがらがっちまうぜ。
“主体を無くそうとしていることは、主体を対象化していることではないのか?その時、その無くそうとしているのは、主体ではないのか?主体でないなら、何なのか?”とさせてもらうぜ。
その上で、前回の投稿内容を繰り返すしかねえなあ。つまり、「その堂々巡りはどうにかしようじゃねえか。それが主体(自己)そのものであるとどうして言えるのかねえ。そんな気がするだけなんだろ。」
“自己(主体)でないなら、何なのか?”とお尋ねだが、主体じゃねえ自己なのさ。主体じゃねえ自己ってのは何なのかとなりゃ、そいつをじっくり考えようぜってのが、はなっからオイラの言ってることよ。
>それは思考と観察者に分かれているということであり、この場合主体である観察者が自己となるのであろう。
何故だい?どうして主体である観察者だけが自己になっちまうのかい?オメエさんがあらかじめ、自己=主体ってえ公式を作っちまってるからだろ。
>私は対象を自己だとするのは実に信仰的だと思っている。自己を観察し、自己嫌悪や自己犠牲等を抱かせるのも組織的宗教の常套手段ではないか?
それで、対象化されたものは全て自己じゃあねえって決めちまった訳か。そうすりゃ、自己嫌悪や自己犠牲から解放されんじゃねえかってことだよな。良心の呵責無しに、やりたい放題の自由を獲得できんじゃねえかってわけだ。
ここでも、前回の投稿内容を繰り返すしかねえなあ。「思考の有様をそのまま素直に観察すりゃ、自己を対象とする時、自己は二つに分かれてんのさ。」しかし、オメエさんは二つじゃ納得できねえどっちか一つにしろって仰るわけだ。そして、対象化されんのは金輪際お断りだってね。
どうして、一つにこだわるのか。一つじゃなきゃいけねえのか。そこんとこ考えてみちゃあどうだい。
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>頭の中の観念的なもの、夢想的なもの、幻想的なもの、非実在的なものだろうが、それは起きた。関係性は起きた。なぜ作用が起きたのかはわからないが、それは起きた。そして主体は起きた。客体は起きた。(全ての人に起きたというわけではない)。
そうだよ。オメエさんの頭ん中だけで起きたことだあな。
>所有意識(作用)は、起きた。その関係性は起きた。そして所有を通して自己とは何か?何者か?を定義できた。しかしそれを本当の自己ではないと心底見切ることが、その所有者(主体)から自己が離れることのキッカケにはなるの“かもしれない”とは思っている。
そう思ってんなら話は早えや。直ぐにでも、主体なんてもんは見切っちまいなよ。
>ただそれは、自己が所有者及び所有意識から離れるというものであって、所有者及び所有意識が無くなるというわけではないと思っている。
心配すんなって、綺麗サッパリ無くなっちまうよ。所有者だの所有意識なんてのは、頭ん中のでっち上げよ。や〜めたって言やあ、それまでよ。
>つまり例えば、ある肉体の所有者(その感覚神経を含む肉体そのものであったり、親であったり恋人であったり・・・これはカテゴライズでしかないが)は、その肉体が侵害されようとすると、暴力的に抵抗を試みるかもしれない。しかしその所有者の自己は、その暴力やその出来事に巻き込まれることはない。自己が観察者であれば、それをただ映画のワンシーンのように観ているだけだろう。観察者からも離れていれば、全く何も起こらないのかもしれない。
だから一先ず離れちまって、ホントに何も起こらねえかどうか、確かめてみちゃどうだい。その後で改めて、生きた存在について考えてみちゃどうだい。
>実在には至らないが、実在に迫ることはできると思っている。それは思考と認識で決め付けた実在を、論理的にひとつひとつ思考と認識で否定していくことでしかないが・・・。
そう思うんなら、一つ一つ遣ってみたらイイや。否定していって、もう否定するもんが無くなるとこまで遣ってみるこった。
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>「主体ではない、それ以外の自己」というのは何を意味しているのか?それは客体ということか?−−−−−−−−−−−−−−−(中略)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−自己が見られるもの(客体)、思考されるもの(客体)、感じられるもの(客体)等と仮定するのなら、それはあなたの世界全てが自己ということになるのではないか?固定観念さえ拭い去れば、主体も含め全てが自己となり得るのだろう。
そのとおりよ。頭のイイ方ぁ違うねえ。一言で全部お見通しだあ。付け加えるとすりゃ、主体-客体の区切りはナシってことぐれえかな。
>それはそれでいい。ただその時、自己以外は存在しなくなり、それはもはや自己とは言えないと思っている。
自己以外もチャンと存在するぜ。オイラの世界全てがオイラの自己だとしても、オイラの世界とは別の世界が幾らでも存在してらあな。その別の世界は、オイラの世界に思いがけねえ影響や刺激を与え続けてるよ。自己の世界の外に、様々な思いがけねえ世界が存在し、自己の世界を撹乱し動揺させ変化させてんだよ。
>私が自己は常に主体だという時、見出された、若しくは見出してしまった自己は、自己同一化されたものになるということ。見る者(主体)、記憶する者(主体)、思考する者(主体)、知る者(主体)、感じる者(主体)等が自己だと見出された時、その時それは対象に変わり、自己同一化されたものだと知る。
そしてその見る者(主体)、感じる者(主体)等に強く同化してしまった存在は、その主体を自己として行為に及ぶということ。ただ、これは論理構成上の言い回しであって、完全に同化してしまった状況においては、主体と自己は分けられてはいない。
一言で言やあ、全くの空虚だわな。無内容って言ってもイイ、その自己って奴よ。空虚だから対象に自己同一化すんだろうよ。そして、無内容だから、完全に同化できるし、そうなってしまった状況においては分けられねえってことだろうぜ。
>主体に自己を見出すことが、所有意識であり、自己同一化意識であり、統合作用であり、そしてそれは生きている存在、離れ離れと感じている個には起こることであると思っており、そうして多種多様な自己と世界との関わりも生まれるものだと思っている。
そうしなきゃ世界との関わりが生まれねえってなあ哀れだよなあ。そんな事になっちまったなあ、あらかじめ世界と自己とを切り離しちまって、空虚で無内容な自己を自己としちまったからじゃねえのかなあ。
離れ離れと感じている個ってなあ、もしかしてそういうこっちゃねえかい。生きてるのが辛えってぐれえの孤独かな。生きるためにゃあ、力を振り絞って主体に自己を見出し、コレが自分なんだって意識をシッカリ持ってなきゃあ遣ってられねえってことかなあ。
>あなたが自己は「内容豊富な生きた存在」だと言うのはよくわかるつもりだ。ただ、あなたがやっているのは自己を探すのではなく、自己同一化された自己を探すということではないだろうか?
もちろんそれも自己を探すことには他ならないだろうが、
話ぁ飛び過ぎだが、ユダヤの神様ってなあ、オメエさんみてえなお人が考え出したのかも知れねえなあ。創造主と被造物との間にゃ天地の開きがあるもんなあ。
しかし、生み出された唯一神も、時間とともに姿を変え、やがては終りの時を迎える。最初の投稿でオメエさんの書いてた執着心云々ってのを思い出すぜ。オイラにゃ涅槃寂静の話に聞こえたんだが、神様にも成仏して頂く時が来たのかも知れねえなあ。
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>自意識とか自己意識というのは、自己“の”意識であって、自己そのものを指しているのではないと思っている。そして、その意識が自己だと言うとき、世界(外界)との関わりにおいて形成された自己同一化された自己であり、それは自我(エゴ)でしかないと思っている。
オメエさんの思考は、そうやって常に自己そのものを救い出そうとしてるんだろうなあ。自己そのものに意識を向けても、そこに意識されるのは自己同一化された自己であり、自我でしかねえ、自己そのものを指しているのではないってえ論法だ。
>私は、自己としての「あなた」が知るものはどれも「あなた」ではなく、その知る者こそが「あなた」だと言っている。あなたが見るもの、あなたが観察するもの、あなたが注意を向けるもの、あなたが所有するもの、それはあなたではない。それは実に論理的なことだと思っている。
そんな風に論理構成しただけだよな。別な風に論理構成することも出来ようってもんよ。
>自己意識をあなたが知る時、その自己意識はあなた(自己)ではなくその知る者があなた(自己)であり、そして、その自己意識を知ったあなた(自己)を、さらにあなた(自己)が観察する時、その観察者があなた(自己)なのだと。そしてその観察者であるあなた(自己)をさらに観察する時、観察者を観察する者があなた(自己)なのだと。これは果てしなく続くだろう。そしてあなた(自己)は決して知られるものでも観られるものでもない。
“決して知られるものでも観られるものでもない”そんな自己が存在するハズだ、そんな気がして仕方がねえ、そう仰るんだよな。
>ただそれは、自己が存在しないと言うことではない。自己の中心に迫るとき、それは論理や思考や観察することを超えていかなければならないと思っているからだ。
つまり、論理や思考や観察することじゃあ、自己の中心に迫るこたあ出来ねえって仰ってるわけだ。じゃあ、それが出来る方法で迫りゃイイじゃねえか。論理や思考や観察でなくちゃいけねえなんて言った覚えはねえよ。
>思考を超えることを「出来もしねえ事」と端から決め付け、締め出すこともあなたの固定観念の問題だ(これは超越できると書いているわけではない)。そして「絵空事じゃねえ本もんの自己ってのを探そうじゃねえか」というあなたの自己を探すという情熱が、そこまでのものだったのだなあと思うだけで、それは不満でもなく、ただの流動的な認識に過ぎない。
近代的自我の抱え込んでいる超越性を克服することが、当面のオイラの課題だってえことは、「近代的自我の描き出す幻想世界(自立、共同体、家族、超人)」(http://asyura2.com/0601/idletalk19/msg/110.html)を読んだ上で投稿してくれたオメエさんは承知のことと思ってたんだがなあ。
情熱の高まりに任せて、トンデモねえ幻想世界を彷徨っても仕方がねえじゃねえかってことよ。「何も思考を超えたものを知るこたあねえよ。出来もしねえ事をやろうなんて思わねえこった。」って書いたなあ、そういう気持ちよ。
それも、オメエさんの文章に対して言ったことだぜ。“自己を探そうとする意識(思考)は、意識(思考)を超えたものを知ることはできない。思考が自己を探そうとしても、思考内しか知る事はできない。そして思考は生きて死んでいく存在であり、思考で探し出した自己は、生きて死んでいく存在でしかない。”
思考が思考を超えるこたあ出来ねえって言ったなあオメエさんの方だぜ。だから、それで構わねえじゃねえかって応じたのよ。生きて死んでいく存在とは別の自己って奴があんのなら、そりゃ不老不死みてえなもんかねえって言ったのよ。
>不老不死というと、死を前提にしているし、老を前提にしていることになり、それは自己ではないだろうなあとは思っている。もちろんその実現は、実に不条理であるとは思っているし、実現され得るものとも思ってはいない。
ただ、不条理さで言えば、自己が生きて死んでいくとすることの方に不条理さを感じるがね・・・。
どう感じようと自由だが、不条理ってなあ条理を極めたところに見えてくるもんじゃねえかと思うんだがなあ。生きること死ぬことの条理を見極めるのが先じゃあねえかなあ。
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