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いや〜、オイラのお師匠様のお説教なんだがよ。こちとらにゃちょいと難しい話なんだが、何となく面白そうなもんで書き込みさせてもらうぜ。よく分かんねえ言葉が並んでるが我慢してくんな。
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最後の一神教たる近代的自我の、自ら抱え込む超越性を存在と見なす勘違いとその結果。
超人:存在としての超越者幻想
家族:失われた自然性への代償観念
共同体:羊飼いと迷える子羊達の救済願望
自立:通俗化した超越者思想
所有:自立の為のフィクション
暴力:虚無からの逃避
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人は自らに似せて神を創造した。やがて人は、神が自身の似姿であることに気付く。神とは私であったのか!神の如き私、それが超人である。もちろん、神が被造物であったように超人も被造物に過ぎない。人間の作り出す幻想である。
ところで、超越的存在とは一体何を超越するのか。もちろん一切を、自身の身体をも含む全ての存在物を。つまりは全自然を。そして自らの内なる自然性を失うことでもある。そこで彼は、家族なる観念を作り出し窮地を脱する。家族が彼の身体となる。
しかし、超越者は超越者なるが故に家族に止まることは出来ない。超越者の自然性は、家族を超えた家族によってようやく回復し得る。共同体によって初めて充分に、自然性が救い出される。しかし、超人に自然性の回復をもたらす共同体とは、当然の如く、それ自体幻想の産物であろう。
神が世界を創造するように、超人は共同体を想像する。そして想像は現実とならねばならない。彼が超人として完成される為に。彼は現実を作る。いや、作ろうとする。その行為に於いて彼は主体となり、自立する。主体とは未完成の超人であり、自立とは超人への第一歩である。
だが、現実は彼の思い通りにはならない。逆に、彼の前に立ち塞がり様々の要求を突きつける。それらの要求に従うことは、主体としての尊厳を傷つけ自立を脅かす。そうした現実を前に、彼は虚構へと飛躍する。私にとって現実は対象であり、対象化することで私は現実を所有していると。
虚構に生きる超人は、現実の外に在って空虚である。所有する対象としての現実は、依然として彼の意に従わない。取るべき道は二つ、空虚に安住するか所有権を行使して対象を破壊するか。破壊行為こそが彼の創造行為となる。彼の生に於いては、暴力こそが根源的である。
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暴力と縁切るにゃ、所有を放棄し、主体だの自立だのって偉そうな事言わずに自身の現実を受け入れるしかねえんだろうな。共同体や家族なんぞを口実にするのも止めた方がイイよな。要するに、ちっぽけで哀れな自分を直視して精一杯生きることだあな。そうじゃねえのかなあ。