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(回答先: 【前編】 訳の分からねえ主体(自己)なんざ実在であるはずもなかろうよ。信仰でなきゃ幻想よ。 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 7 月 17 日 11:52:05)
○H○
観てしまったから、【後編】を待たずにとりあえず書いて置くことにした。ただこの応答で、内容的には充分【後編】にも答えていそうだが、漏れがあるなら書いてもらっても構わない。
>『自己は対象化できず客体化できないとすりゃ、自意識とか自己意識ってのは何かの間違いなんだろうな。自己を探そうとしている誰かさんは、自己に行き着けねえってこった。行き着けねえどころか、最初っから自己なんてもんにゃ気付きもしねえだろうよ。
その摩訶不思議な誰かさんってのが、オメエさんの言う主体って奴なんだろうな。自分が誰だかわからず、自分の存在に無自覚だから客体が必要なんだろうさ。その客体を自己に同一化せずにゃ居られねえってわけだ。』
○H○
自意識とか自己意識というのは、自己“の”意識であって、自己そのものを指しているのではないと思っている。そして、その意識が自己だと言うとき、世界(外界)との関わりにおいて形成された自己同一化された自己であり、それは自我(エゴ)でしかないと思っている。
私は、自己としての「あなた」が知るものはどれも「あなた」ではなく、その知る者こそが「あなた」だと言っている。あなたが見るもの、あなたが観察するもの、あなたが注意を向けるもの、あなたが所有するもの、それはあなたではない。それは実に論理的なことだと思っている。
自己意識をあなたが知る時、その自己意識はあなた(自己)ではなくその知る者があなた(自己)であり、そして、その自己意識を知ったあなた(自己)を、さらにあなた(自己)が観察する時、その観察者があなた(自己)なのだと。そしてその観察者であるあなた(自己)をさらに観察する時、観察者を観察する者があなた(自己)なのだと。これは果てしなく続くだろう。そしてあなた(自己)は決して知られるものでも観られるものでもない。
ただそれは、自己が存在しないと言うことではない。自己の中心に迫るとき、それは論理や思考や観察することを超えていかなければならないと思っているからだ。
>『それでイイじゃねえか。何か問題があんのかい。何も思考を超えたものを知るこたあねえよ。出来もしねえ事をやろうなんて思わねえこった。自己を探すのに自己の外に出かける必要もねえだろう。生きて死んでいくだけじゃ御不満かい。』
○H○
別に不満ではない。それはあなたの問題だ。思考を超えることを「出来もしねえ事」と端から決め付け、締め出すこともあなたの固定観念の問題だ(これは超越できると書いているわけではない)。そして「絵空事じゃねえ本もんの自己ってのを探そうじゃねえか」というあなたの自己を探すという情熱が、そこまでのものだったのだなあと思うだけで、それは不満でもなく、ただの流動的な認識に過ぎない。
>『オメエさんの言う真我ってなあ、なにやら不老不死みてえなもんなんだろうねえ。なるほど、その実現ってなあ不条理だろうさ。』
○H○
不老不死というと、死を前提にしているし、老を前提にしていることになり、それは自己ではないだろうなあとは思っている。もちろんその実現は、実に不条理であるとは思っているし、実現され得るものとも思ってはいない。
ただ、不条理さで言えば、自己が生きて死んでいくとすることの方に不条理さを感じるがね・・・。
>『思考を超えたり破壊したり、オメエさんもてえへんだなあ。しかし、今んとかあまだ、思考に飽きちゃあいらっしゃらねえようだな。(笑)が有ったりして、お楽しみのようだ。』
○H○
そうだなあ。実に楽しんでいると思うよ。(笑)
>『自己が常に主体だってんなら、改めて、主体に自己を見出す必要はなかろうってもんじゃねえか。ホントは逆なんじゃねえかなあ。オメエさんは、主体に自己を見出しちまったんで、それ以来、自己は常に主体だと思っちまったんじゃねえのかい。
自己が主体になっちまったもんだから、主体ではない、それ以外の自己を見失っちまったのさ。自己ってのは、オメエさんの言う主体ってのも含めて、内容豊富な生きた存在だよ。豊富過ぎてまだまだ分かんねえ部分が幾らでも有るから、もっとよく探してみようじゃねえかって言ってるのよ。』
>『オメエさんの言う通りだよ。“身体か、記憶か、思考か、それとも物にまで及んで自己を見出した(自己同一化した)のか”っていうぐれえ自己ってなあ多義的で内容豊富なんだよ。何らかの生きている主体に自己を見出したのも、論理展開に過ぎねえんだろ。主体と自己の関係なんざ様々だってことじゃねえかい。』
○H○
「主体ではない、それ以外の自己」というのは何を意味しているのか?それは客体ということか?
私が自己は常に主体だという時、見出された、若しくは見出してしまった自己は、自己同一化されたものになるということ。見る者(主体)、記憶する者(主体)、思考する者(主体)、知る者(主体)、感じる者(主体)等が自己だと見出された時、その時それは対象に変わり、自己同一化されたものだと知る。
そしてその見る者(主体)、感じる者(主体)等に強く同化してしまった存在は、その主体を自己として行為に及ぶということ。ただ、これは論理構成上の言い回しであって、完全に同化してしまった状況においては、主体と自己は分けられてはいない。
主体に自己を見出すことが、所有意識であり、自己同一化意識であり、統合作用であり、そしてそれは生きている存在、離れ離れと感じている個には起こることであると思っており、そうして多種多様な自己と世界との関わりも生まれるものだと思っている。あなたが自己は「内容豊富な生きた存在」だと言うのはよくわかるつもりだ。ただ、あなたがやっているのは自己を探すのではなく、自己同一化された自己を探すということではないだろうか?
もちろんそれも自己を探すことには他ならないだろうが、自己が見られるもの(客体)、思考されるもの(客体)、感じられるもの(客体)等と仮定するのなら、それはあなたの世界全てが自己ということになるのではないか?固定観念さえ拭い去れば、主体も含め全てが自己となり得るのだろう。
それはそれでいい。ただその時、自己以外は存在しなくなり、それはもはや自己とは言えないと思っている。
>『意味を成さねえってことなら、単に主体に自己を見出すんじゃねえで、主体と客体における関係性の中に自己を見出すってことだろうよ。じゃあ、その関係性ってのはどっから出て来たんだい。オメエさんの頭ん中に最初から有ったんだろうよ。』
>『もちろんそうだよ。その認識の枠組みとして、対象物とか作用ってえ概念を使ったんだろ。自分の作った枠組みの中で論理展開してるだけなら一人芝居じゃねえかって言ったのよ。
肝心ななあ、そうした枠組みを使うことの有効性だよな。オメエさんの言うとおり、所有ってなあ意識の問題だと思うよ。だから、その意識の有り様を考え直してみようじゃねえかってのよ。認識の枠組みを問い直そうってことよ。』
○H○
意味を成さないというのは、生きた存在である思考や認識を使っては計り知れないということだ。
「見る者(主体)と見られるもの(客体)と見ること(作用)」、「思考する者(主体)と思考されるもの(客体)と思考すること(作用)」、「感じる者(主体)と感じられるもの(客体)と感じること(作用)」等々・・・。
頭の中の観念的なもの、夢想的なもの、幻想的なもの、非実在的なものだろうが、それは起きた。関係性は起きた。なぜ作用が起きたのかはわからないが、それは起きた。そして主体は起きた。客体は起きた。(全ての人に起きたというわけではない)。
自己は自己を知ることはできないが、関係性が生まれることで、その主体や客体への自己の同化が起き、自己を知ることができた。自己を定義することができた。自己は何者かを知ることができた。ただそれは、鏡や写真を見るようなものだろう。鏡に写った自己は自己ではない。写真に写った自己は自己ではない。それはただ鏡や写真という存在に盲目的になってしまっているだけだ。
そして、所有意識(作用)は、起きた。その関係性は起きた。そして所有を通して自己とは何か?何者か?を定義できた。しかしそれを本当の自己ではないと心底見切ることが、その所有者(主体)から自己が離れることのキッカケにはなるの“かもしれない”とは思っている。
ただそれは、自己が所有者及び所有意識から離れるというものであって、所有者及び所有意識が無くなるというわけではないと思っている。
つまり例えば、ある肉体の所有者(その感覚神経を含む肉体そのものであったり、親であったり恋人であったり・・・これはカテゴライズでしかないが)は、その肉体が侵害されようとすると、暴力的に抵抗を試みるかもしれない。しかしその所有者の自己は、その暴力やその出来事に巻き込まれることはない。自己が観察者であれば、それをただ映画のワンシーンのように観ているだけだろう。観察者からも離れていれば、全く何も起こらないのかもしれない。
>『実在の問題っつったところで、議論ってなあ所詮、思考と認識じゃねえか。とことんやったところで、実在に迫ることなんざ出来ねえんじゃねえか。』
○H○
実在には至らないが、実在に迫ることはできると思っている。それは思考と認識で決め付けた実在を、論理的にひとつひとつ思考と認識で否定していくことでしかないが・・・。
>『その堂々巡りはどうにかしようじゃねえか。それが主体(自己)そのものであるとどうして言えるのかねえ。そんな気がするだけなんだろ。』
○H○
あなたは、「自己を対象とする時、自己は二つに分かれてんのさ」とすぐ下の所で書いているが、自己を無くそうとしていることは、自己を対象化していることではないのか?その時、その無くそうとしているのは、自己ではないのか?自己でないなら、何なのか?
>『そういうのを信仰ってんじゃねえかなあ。ハズだと思ってるだけじゃねえか。思考の有様をそのまま素直に観察すりゃ、自己を対象とする時、自己は二つに分かれてんのさ。オメエさんの言い方で言やあ、行為者と行為対象に分かれてんだよ。』
○H○
それは思考と観察者に分かれているということであり、この場合主体である観察者が自己となるのであろう。私は対象を自己だとするのは実に信仰的だと思っている。自己を観察し、自己嫌悪や自己犠牲等を抱かせるのも組織的宗教の常套手段ではないか?