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(回答先: 自己を探そうとする意識(思考)は、意識(思考)を超えたものを知ることはできない。 投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 15 日 00:55:09)
レスが長くなっちまったんで、二回に分けさせてもらうよ。先ずは前編ってこって勘弁してくんな。
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>誰が自己を探そうとしているのか?自己は対象としては成り立たない。客体としては成り立たない。
自己は対象化できず客体化できないとすりゃ、自意識とか自己意識ってのは何かの間違いなんだろうな。自己を探そうとしている誰かさんは、自己に行き着けねえってこった。行き着けねえどころか、最初っから自己なんてもんにゃ気付きもしねえだろうよ。
その摩訶不思議な誰かさんってのが、オメエさんの言う主体って奴なんだろうな。自分が誰だかわからず、自分の存在に無自覚だから客体が必要なんだろうさ。その客体を自己に同一化せずにゃ居られねえってわけだ。
>そして、自己を探そうとする意識(思考)は、意識(思考)を超えたものを知ることはできない。思考が自己を探そうとしても、思考内しか知る事はできない。そして思考は生きて死んでいく存在であり、思考で探し出した自己は、生きて死んでいく存在でしかない。
それでイイじゃねえか。何か問題があんのかい。何も思考を超えたものを知るこたあねえよ。出来もしねえ事をやろうなんて思わねえこった。自己を探すのに自己の外に出かける必要もねえだろう。生きて死んでいくだけじゃ御不満かい。
>つまり真我の実現というのは、それぐらい不条理なものだということだと思っている。
オメエさんの言う真我ってなあ、なにやら不老不死みてえなもんなんだろうねえ。なるほど、その実現ってなあ不条理だろうさ。
>ただ、思考は思考で破壊させることはできると思ってはおり、思考に心底絶望した時や、心底飽きた時、それは起こる“かもしれない”・・・(笑)。
思考を超えたり破壊したり、オメエさんもてえへんだなあ。しかし、今んとかあまだ、思考に飽きちゃあいらっしゃらねえようだな。(笑)が有ったりして、お楽しみのようだ。
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>また自己というのは、常に主体だと思っている。主体ではない自己というのは、どのようなものかを教えてほしい。相対的に対する絶対的という意味においての自己は、それは自己とは言わないと思っている。
自己が常に主体だってんなら、改めて、主体に自己を見出す必要はなかろうってもんじゃねえか。ホントは逆なんじゃねえかなあ。オメエさんは、主体に自己を見出しちまったんで、それ以来、自己は常に主体だと思っちまったんじゃねえのかい。
自己が主体になっちまったもんだから、主体ではない、それ以外の自己を見失っちまったのさ。自己ってのは、オメエさんの言う主体ってのも含めて、内容豊富な生きた存在だよ。豊富過ぎてまだまだ分かんねえ部分が幾らでも有るから、もっとよく探してみようじゃねえかって言ってるのよ。
>主体と自己の関係も、ただ論理構成上用いただけであり、どちらが先かを示すものではない。そして、身体か、記憶か、思考か、それとも物にまで及んで自己を見出した(自己同一化した)のかということにおいて、今回は、「死を抱え込んでいる」という前提においては、何らかの生きている主体に自己を見出した(自己同一化した)場合なのだろうと論理展開したまで。
オメエさんの言う通りだよ。“身体か、記憶か、思考か、それとも物にまで及んで自己を見出した(自己同一化した)のか”っていうぐれえ自己ってなあ多義的で内容豊富なんだよ。何らかの生きている主体に自己を見出したのも、論理展開に過ぎねえんだろ。主体と自己の関係なんざ様々だってことじゃねえかい。
>私は最初から主体と客体における関係性というものがあると書いたつもりはない。その関係性を創り上げる作用の方が先かもしれないとは想像しているが、ただそれは卵が先か鶏が先かの議論にも似て、あまり意味を成さないものだと思っている。
意味を成さねえってことなら、単に主体に自己を見出すんじゃねえで、主体と客体における関係性の中に自己を見出すってことだろうよ。じゃあ、その関係性ってのはどっから出て来たんだい。オメエさんの頭ん中に最初から有ったんだろうよ。
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>ここでは、対象物や作用者や作用についての実在の話はしてはいない。ここでの議論においては、生きている存在に自己を見出している主体(作用者)が、どう作用するか、どう対象物を認識するのかについて話をしているつもりだ。
もちろんそうだよ。その認識の枠組みとして、対象物とか作用ってえ概念を使ったんだろ。自分の作った枠組みの中で論理展開してるだけなら一人芝居じゃねえかって言ったのよ。
肝心ななあ、そうした枠組みを使うことの有効性だよな。オメエさんの言うとおり、所有ってなあ意識の問題だと思うよ。だから、その意識の有り様を考え直してみようじゃねえかってのよ。認識の枠組みを問い直そうってことよ。
>自己も含め、実在の問題の話がしたいのなら、いずれとことん議論してもいいとは思っている。
実在の問題っつったところで、議論ってなあ所詮、思考と認識じゃねえか。とことんやったところで、実在に迫ることなんざ出来ねえんじゃねえか。
>また、少し議論からは逸れるが、「何故そんな一人芝居をしなきゃいけねえのか」については、「なぜ人は生きるのか?」と同じ様に、絶対的な目的は解らないままだとは思うし、また「何故そんな一人芝居をしなきゃいけねえのか」と質問している本人も含め、どこかでそれ(一人芝居)を無意識的に楽しんでいることもあるだろうし、生きがい(目的)を見出していることもあるだろう。
確かに、オメエさんはそうなんだろうな。謎解きとかパズルってなあ、はまっちまうと止められねえんだろうぜ。なにしろ人間は考える葦ってえぐれえだからな。
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>主体(自己)を無くそうとしている行為者は何者か?そして主体(自己)であることを止めようとする行為者は何者か?それは主体(自己)そのものではないか?
その堂々巡りはどうにかしようじゃねえか。それが主体(自己)そのものであるとどうして言えるのかねえ。そんな気がするだけなんだろ。
>主体(自己)が対象となる時、それは主体(自己)では在りえない。
主体(自己)が行為対象になった時点において、その行為者が主体(自己)となるはずだと思っている。
そういうのを信仰ってんじゃねえかなあ。ハズだと思ってるだけじゃねえか。思考の有様をそのまま素直に観察すりゃ、自己を対象とする時、自己は二つに分かれてんのさ。オメエさんの言い方で言やあ、行為者と行為対象に分かれてんだよ。
人間の思考ってなあ不思議なもんだよなあ。行為者でありながら同時に行為対象でもあるんだぜ。こんな芸当が出来っから、哲学なんてもんもあるんだろうぜ。
>そしてこれは、自己の実在を意味するものではない。
もちろん、訳の分からねえ主体(自己)なんざ実在であるはずもなかろうよ。信仰でなきゃ幻想よ。
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