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(回答先: 主体と客体の関係性から出発し、自己=主体という公式を前提にしている限り、探そうとする意識は意識の内でしかないだろうよ。 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 7 月 14 日 18:14:23)
>『じゃあ、もし強く自己同一化しなけりゃどうなっちまうんだろう。そのHNは所有対象とならず、それが侵害されてもオイラは怒らず、それが殺されそうになってもオイラは恐怖を感じねえんだな。』
○H○
怒る度合い、恐怖を感じる度合いが変わってくるのだろうとは思う。
>『チョイト待っちゃ呉れねえかなあ。どうして、個として成り立つには主体に対する客体である対象物の存在が必要なんだい。その関係性における作用としての働きかけってのが無くちゃいけねえのかい。
個であることとそれが主体であることとは別のこったと思うがなあ。』
○H○
この所有における自己同一化の問題は、自己(同一化)である主体をどこに置くかという話だと思っている。そしてその主体を「生きている存在」という個に置くのであればということで前提させた論理展開であり、そしてそれが個として成立するには対象が必要になるだろうということで書いたまで。対象が無ければ、個だとは言えないと思っている。
>『どうやら、所有も統合作用の一つってことらしいが、でもよ、所有ってのは作用なのかねえ。所有ってのは状態じゃねえのかなあ。こいつぁ俺のもんだって言い張るのが所有なんだろ。で、みんながそうだそうだって言やぁそうだってことになるんだろうよ。それが所有ってこっだと思ってたがなあ。』
○H○
それはただ単に言葉の用い方の問題なのだろう。この文章において持ち出された「所有」は、作用としての「所有行為」(所有意識も含む)を意味して書いたもの。暴力から縁を切る為に持ち出した「所有」の意味することにおいても、そして私の書いている文章の流れからも把握できるとは思うのだが・・・。
また、もし所有が「状態」を意味したものであれば、それは所有していると認識し記憶する「統合作用」によって成り立つ「対象」でしかないと思っている。
>『でえいち、全体と統合しようってえ働きかけなら、個は、統合するんじゃねえで統合される方なんじゃねえかい。所有するんじゃねえで所有されるのよ。それでも所有にゃ違えねえかも知れねえが、所有する奴がいねえのに所有されるってのも変な話だぜ。』
>『人と物の関係において、全体と統合しようってえ働きかけが生まれるとすりゃ、土地を分割して所有するなんてこたあ論外だわな。』
○H○
全体が個を対象として所有するというのなら、それは全体ではなく、個ではないだろうか?つまり大きな個が小さな個を所有するというようなものではないだろうか?
行為者とその行為対象が分かれるのなら、それは個でしか在りえない。
そして、個は個と統合するしかないのだろう。私が個が全体と統合しようとすると持ち出したのは、個が分離しているという状況を強調した意味においての言葉のあやでしかない。
例えば個が10個あれば、主体である個は、とにかく1個でも多く統合すれば、全体に近づくということ。
>『もっと言やあ、恋愛にしろ依存にしろ支配にしろ、人間と人間の間のことみてえに聞こえるが、所有ってのは違うんじゃねえかなあ。所有ってのは人間の物に対する支配を意味するんじゃねえか。確かに、人間を所有するってのも有るんだろうが、そりゃあ人間を物と見なしてのことだろうぜ。基本は、人と物の関係だと思うがなあ。』
○H○
所有対象というのは、物だけではないはずだと認識している。それは人でもあるだろうし、地位であったり、名誉であったり、知識であったりもする。そしてそれらが侵害されれば、暴力を引き起こす要素ともなるだろう。物の所有を放棄するだけでは、暴力と完全には、縁は切れないだろうという意味において持ち出している。
>『どうして、生きる存在である個としての衝動が違う形でそれを増幅させるのかい。衝動ってのは形にならねえから衝動ってんだと思うがなあ。』
○H○
もう少し解り易く書くとすれば、
所有を無くすという行為は、制度的で抑圧的なものにしかならず、生きる存在としての個の、所有したいという欲求が、“形にならず”に衝動を生み出すだろうということ。
そしてその衝動が、制度や抑圧に縛られない形で所有欲を増したり、そしてその障害(制度や抑圧)により、益々その所有欲を増幅させるだろうということ。
それは例えばセックスを抑圧したり、法的に制限したりすることにより、益々セックス欲を倍増させ、隠れて売春したり、自分に対して言い訳を考えながらセックスに夢中になるようなものだということ。
>『それに、所有を無くそうとしている主体そのものが残っちまうってのも、なぜだか分かんねえなあ。所有を無くすってのは主体であることを止めることのはずなんだがなあ。
結局、オメエさんの固定観念ってヤツじゃねえのかなあ。固定観念に捕まっちまって、何をやっても新たな自己同一化が起きちまうんじゃねえかい。』
○H○
主体(自己)を無くそうとしている行為者は何者か?そして主体(自己)であることを止めようとする行為者は何者か?それは主体(自己)そのものではないか?
主体(自己)が対象となる時、それは主体(自己)では在りえない。
主体(自己)が行為対象になった時点において、その行為者が主体(自己)となるはずだと思っている。
そしてこれは、自己の実在を意味するものではない。
>『“対象物に作用を及ぼす”ってなあどういうことなんだい。土台、対象物なんてもんがほんとにあるのかい。そこに対象物を発見したのはオメエさんの意識の仕業だろ。自分でそれを対象物だって決めちまっただけじゃねえのかい。
作用を及ぼすのは誰なんだい。そんな奴が居るのかい。あらかじめ自分用の対象物を発見したオメエさん自身しかいねえよな。最初から自分で創作した対象物なんだから、自己と同一化するのは当然だわな。一人芝居みてえなもんよ。
考えなきゃいけねえ事があるとすりゃ、何故そんな一人芝居をしなきゃいけねえのかってことだろうぜ。』
○H○
ここでは、対象物や作用者や作用についての実在の話はしてはいない。ここでの議論においては、生きている存在に自己を見出している主体(作用者)が、どう作用するか、どう対象物を認識するのかについて話をしているつもりだ。
自己も含め、実在の問題の話がしたいのなら、いずれとことん議論してもいいとは思っている。
また、少し議論からは逸れるが、「何故そんな一人芝居をしなきゃいけねえのか」については、「なぜ人は生きるのか?」と同じ様に、絶対的な目的は解らないままだとは思うし、また「何故そんな一人芝居をしなきゃいけねえのか」と質問している本人も含め、どこかでそれ(一人芝居)を無意識的に楽しんでいることもあるだろうし、生きがい(目的)を見出していることもあるだろう。
>『冗談はさておき、“何らかの生きている主体に自己を見出した”ってことだが、自己を見出すより先に主体を見出した訳だよな。そりゃそうだ。最初から主体と客体における関係性ってのが有るんだからな。何が何でも主体と客体だって訳だ。』
○H○
私は最初から主体と客体における関係性というものがあると書いたつもりはない。その関係性を創り上げる作用の方が先かもしれないとは想像しているが、ただそれは卵が先か鶏が先かの議論にも似て、あまり意味を成さないものだと思っている。
主体と自己の関係も、ただ論理構成上用いただけであり、どちらが先かを示すものではない。そして、身体か、記憶か、思考か、それとも物にまで及んで自己を見出した(自己同一化した)のかということにおいて、今回は、「死を抱え込んでいる」という前提においては、何らかの生きている主体に自己を見出した(自己同一化した)場合なのだろうと論理展開したまで。
また自己というのは、常に主体だと思っている。主体ではない自己というのは、どのようなものかを教えてほしい。相対的に対する絶対的という意味においての自己は、それは自己とは言わないと思っている。
>『主体と客体の関係性から出発し、自己=主体という公式を前提にしている限り、確かに、探そうとする意識は意識の内でしかないだろうよ。永遠に意識の中を彷徨い続けるんだろうな。俗に言う真我への終り無き旅路ってえところだろうよ。』
○H○
誰が自己を探そうとしているのか?自己は対象としては成り立たない。客体としては成り立たない。
そして、自己を探そうとする意識(思考)は、意識(思考)を超えたものを知ることはできない。思考が自己を探そうとしても、思考内しか知る事はできない。そして思考は生きて死んでいく存在であり、思考で探し出した自己は、生きて死んでいく存在でしかない。
つまり真我の実現というのは、それぐらい不条理なものだということだと思っている。
ただ、思考は思考で破壊させることはできると思ってはおり、思考に心底絶望した時や、心底飽きた時、それは起こる“かもしれない”・・・(笑)。