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(回答先: 少し追加 投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 13 日 03:07:01)
最初の投稿の冒頭で仰ってたよなあ。
>生きている人は所有から逃れることはできないと思うがどうだろうか・・・。
今度の投稿じゃあ、そこんとこをさらに解説して頂いたようだねえ。
>ここで私が言う所有というのは、所有制度というよりも所有意識の問題であり、それは自己の同一化における意識の問題であり、その強弱の問題だと思っている。
なるほど、自己の同一化における意識の問題をお考えなんだ。
>例えば、「天蓬元帥」というHNを、あなたという何らかの生きている主体が、強く自己同一化してしまえば、そのHNは所有対象となり、その所有対象が侵害されれば、あなたは怒り、殺されそうになると、あなたは恐怖を感じるかもしれない。
じゃあ、もし強く自己同一化しなけりゃどうなっちまうんだろう。そのHNは所有対象とならず、それが侵害されてもオイラは怒らず、それが殺されそうになってもオイラは恐怖を感じねえんだな。
>生きている存在というのは、死ぬ存在でもあり、それは個であるという認識をしている。それが個として成り立つには主体に対する客体である対象物の存在が必要となり、そしてその関係性において、作用としての働きかけがあると思っている。
チョイト待っちゃ呉れねえかなあ。どうして、個として成り立つには主体に対する客体である対象物の存在が必要なんだい。その関係性における作用としての働きかけってのが無くちゃいけねえのかい。
個であることとそれが主体であることとは別のこったと思うがなあ。
>全体と離れ離れになっているが故に個は、全体と統合しようという働きかけが生まれ、それが恋愛や依存や支配や所有と言った統合作用を作り出しているのではないだろうか。
どうやら、所有も統合作用の一つってことらしいが、でもよ、所有ってのは作用なのかねえ。所有ってのは状態じゃねえのかなあ。こいつぁ俺のもんだって言い張るのが所有なんだろ。で、みんながそうだそうだって言やぁそうだってことになるんだろうよ。それが所有ってこっだと思ってたがなあ。
でえいち、全体と統合しようってえ働きかけなら、個は、統合するんじゃねえで統合される方なんじゃねえかい。所有するんじゃねえで所有されるのよ。それでも所有にゃ違えねえかも知れねえが、所有する奴がいねえのに所有されるってのも変な話だぜ。
もっと言やあ、恋愛にしろ依存にしろ支配にしろ、人間と人間の間のことみてえに聞こえるが、所有ってのは違うんじゃねえかなあ。所有ってのは人間の物に対する支配を意味するんじゃねえか。確かに、人間を所有するってのも有るんだろうが、そりゃあ人間を物と見なしてのことだろうぜ。基本は、人と物の関係だと思うがなあ。
人と物の関係において、全体と統合しようってえ働きかけが生まれるとすりゃ、土地を分割して所有するなんてこたあ論外だわな。
>勿論、所有を無くせば、所有者も所有物も無くなるのだろうが、それは単に抑圧的で制度的なものでしかないようにも思い、生きる存在である個としての衝動が違う形でそれを増幅させるだろうし、また、所有を無くそうとしている主体そのものは残り、新たな自己同一化、つまり所有を無くすということそのものを所有化し始めることだろう。
どうして、生きる存在である個としての衝動が違う形でそれを増幅させるのかい。衝動ってのは形にならねえから衝動ってんだと思うがなあ。
それに、所有を無くそうとしている主体そのものが残っちまうってのも、なぜだか分かんねえなあ。所有を無くすってのは主体であることを止めることのはずなんだがなあ。
結局、オメエさんの固定観念ってヤツじゃねえのかなあ。固定観念に捕まっちまって、何をやっても新たな自己同一化が起きちまうんじゃねえかい。
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>所有というのは、意識の問題であると思っており、対象物に作用を及ぼす際の意識の問題だと思っている。つまりそれを自己と同一化することの強弱であると。
“対象物に作用を及ぼす”ってなあどういうことなんだい。土台、対象物なんてもんがほんとにあるのかい。そこに対象物を発見したのはオメエさんの意識の仕業だろ。自分でそれを対象物だって決めちまっただけじゃねえのかい。
作用を及ぼすのは誰なんだい。そんな奴が居るのかい。あらかじめ自分用の対象物を発見したオメエさん自身しかいねえよな。最初から自分で創作した対象物なんだから、自己と同一化するのは当然だわな。一人芝居みてえなもんよ。
考えなきゃいけねえ事があるとすりゃ、何故そんな一人芝居をしなきゃいけねえのかってことだろうぜ。
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>死(無)を抱え込んでいるのは、生きている自己だからだろう。つまり主体と客体における関係性において、何らかの生きている主体に自己を見出したからなのだろう。
“主体と客体における関係性”ってのがお好きなようだが、オイラも男と女における関係性ならでえ好きだぜ。但し、いまどき、男が主体で女は客体だ何て口にしようもんなら袋叩きに合いそうだなあ。もっとも、女が主体で男は客体って向きもあるようだから、男女平等っつっても色々なのかも知れねえけどよ。
冗談はさておき、“何らかの生きている主体に自己を見出した”ってことだが、自己を見出すより先に主体を見出した訳だよな。そりゃそうだ。最初から主体と客体における関係性ってのが有るんだからな。何が何でも主体と客体だって訳だ。
>本物の自己の探求、俗に言う真我の実現においては、自己を探そうとする主体(自己)そのものが障害となるのだろうし、探そうとする意識は、意識の内でしかない。
主体と客体の関係性から出発し、自己=主体という公式を前提にしている限り、確かに、探そうとする意識は意識の内でしかないだろうよ。永遠に意識の中を彷徨い続けるんだろうな。俗に言う真我への終り無き旅路ってえところだろうよ。
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>それらは形態を変えたひとつの流れしかないとは思っておりますが、呼吸や食事にしろ一旦は体内に取り込み、それを所有するということには違いはないです。
所有と排出を繰り返しますが、所有を止めることはできません。
ハッキリ言わしてもらやあ、そいつあ言葉のアヤってやつよ。体内ってなあ誰かの所有物なのかい。自分の体ってやつが自分の所有物かどうかそいつを考えてる最中なんだから、考える前から結論が決まってたんじゃあ話に何ねえよ。