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バルセロナより愛を込めて様からは、こんな質問をいただきました。
http://asyura2.com/0601/war81/msg/426.html
そのご投稿の中でこんな風におっしゃっているのですが:
「現実主義者である私は「こね回された理屈」よりも現実に起こっている事実を知りたいクチですので、これだけでもう買って読む気も無くしているのです」・・・(以下略)
あたくしだってそうだったし、今もまだそうなんです。
が、くだんの本は、実は2003年だったと思いますが、ミラノに行った機会に伊訳本を(原書は英文ですよね)購入していました。ネグリはイタリア人なのですが、イタリア語版の訳者は彼自身ではありません。
小倉氏の訳が嫌だというのではなく(当時訳者の小倉氏のことは知りませんでした。ホロコースト1板が出来る一年半くらいは前の話ですから)、和訳本にしようかとも考えてはいたのですが、元々あたくしは評論書・哲学書の類いは和文で読むより英語かイタリア語で読む方がまだ理解しやすいタチなのでそういうことにいたしました。
念のために申し上げますが、それはあたくしがその二つの外国語にネイティブ並みに通暁しているなどといった意味ではなくむしろ全く逆でして、文法的・語彙的な問題に関わる個人的事由に拠っています。
その手の書籍の日本語版と外国語版を比較すると、後者の方が語彙や言い回しがずっと平明だったりすることはよくあるとあたくしは思うんですが、バルセロナさまはそう思われることはありませんか?
たとえ辞書を用いなければわからない言葉が多出しても(どうせ和訳本にもわからない言葉はある)、文脈は厳密な文法のお陰で日本語よりは特定しやすい、といったような。
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で、中身についてですが、あたくしの政経分野に関する知識は高校程度で止まっていますから、百何十かもっとくらいの著述家名を引き合いに出しながら語られるこのような書ですと、該当部分を別途調査せずには理解できません。
でも、これまで調べまでしながら読んだことはまだないんですよ。
何故かと言うと、各段の冒頭に数件ずつ哲学者や政治家、政治運動家などの文言を選んで掲げてあるんですが、その中でも特に経済学者の文言なんか、読むとあまりに「あっち側」から人を馬鹿にしたような言い草なものだから「この野郎」と激昂しそうになるようなものもあって(ケインズの「私の計画を可能にするプロジェクトを遂行するに適う予算を組める国家はまず存在しない。戦時下ならば別だが」みたいなのとか。そんな経済学者など、いない方が全人類のために余程いいと思いませんか?)、なんでアタシがそんな無駄飯食い(大笑 あたくしから見て、っていうこと)の言い草を逐一知らにゃいかんのだとアホらしくなったりしたからでもあったりします。
あんな文言を書中に掲げる人々(「帝国」の著者たち)が、人間存在というものに善意で相対しているとは少しも思えませんね。
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ともあれ、前書きに「前から読み進んでもらっても、後ろから読んでもらっても、一部分ずつ読んでもらっても、あちこち拾い読みしてもらっても」とあったのを良いことに、後の二つの読み方をミックスして、その都度読む箇所を変えながら何度か斜めに読んでみました。全部を通しで斜め読みしたことはありません。気になることが出て来た時に取り出して読む、という使い方をしても許される本であるようにも思いますしね。
バルセロナさまからのご質問についてですが、念のため昨夜から一応本をあちこちひっくり返して見直し、お尋ねの2語「シオニズム」や「テロリズム」への言及は「ない」という結論に至っております旨、お答えしておきます。
イスラエルという国名も、パレスチナさえも出て来なかったように思います。北朝鮮もなし。
1ページ残らず目を通したと言えば嘘になるので、「いや、ここにある」という方は和訳本で結構ですのでページを示していただけたらと思います。
ただし「闘争」という語は至るところに氾濫していますよ。
明白に戦闘行為を指すと取られぬようにという書き手の周到な配慮が見て取れますが、第二次戦争中のスペインなどの対ファシズム闘争なども引き合いに出す(市民も戦闘行為に加わった)という手法で巧妙に導いています。
巷に多い「これは革命のための手引書である」「またしても革命を称揚している」といった良識派による書評に、その点では賛成できると思います。
それなのに、ひとつ非常に驚いたのがカンボジアでポル・ポトがやった「革命」への微妙に肯定的な言及です。非常にさらっとさりげなくで目立たなかったのですが。
(その箇所を具体的に示すためにまだ探しているのですが見つかりません。
もし「どこに書いてある、いい加減なことを言うな」と噛み付く向きがお出ましになりましたら、一度通しで読み直すことを余儀なくされるでしょう。ただし、挿入されたひとつの短いインテルメッツォも数に入れると全5章18段107項という構成で、あたくしの読解スピードでは毎週末に欠かさず1項に取り組んで2年かかる計算になります。)
そういった(つまりカンボジアでの革命についてボジティブに言及した)著作の訳を、これまた「ホロコースト問題では修正主義者を袋だたきにするのに文革やクメールルージュの蛮行には頬かむりする本多勝一氏」の支援者である小倉氏が手がけておられることについて改めて考えると、著者たち、訳者、そして彼らを取り巻く人脈は、元からあるひとつの「スクール」に属しているのではないのかという、あたくしがホロコースト1板で既に持っていた感触の一つの補強材にはならないのかとも思われて来ます。
http://asyura2.com/0502/holocaust1/msg/711.html
また、あたくしに言わせれば、この書のターゲットは、貧民や放浪者、プロレタリアートなどから成るマルチチュードそのものなどでは当然なく、それを統率するポジションに就く人々、この書の内容を著者たちが意図したレベルで「愉しめる」人々、著者たちが経済学・思想関連の古今の著述家について言及する時に一通りついて行ける知識・知的レベルの人々、であると思われます。そういう人々のためのハンドブックなのですよ。
世のマルチチュードの知的レベルをあたくしごときのものと同位に考えるのは失礼なのかも知れませんが、貧民・放浪者・プロレタリアートの多数がこの書を、他著への言及部分も全て含めて余すことなく理解するとは思えませんのでね。
テロリズムという語が登場しないわけも、まず指導層の頭からそういった語を放逐しておく必要があるからではないのでしょうか。
自分が対テロ戦争の標的になることを望まないマルチチュードを煽動するには、彼らの警戒心を惹起するような語は無用でしょう。
そういう風に考えながらあちこち読んでいるとまた面白い箇所が出て来ます。
まずマルチチュードをがんじがらめにする帝国を内部から変革する運動を指導するのはNGOやNPOの役割になる、というのが著者たちの主張なようなのですが、訳者の小倉氏が自らそういった活動もおやりなのは衆知の事実です。
更にそういった民間団体をまた纏める大きなネットワークの構築にも関わっておられると理解しております。
それに、また著者たちは、帝国内部からのマルチチュードによる運動を組織するためには高速な情報処理化(informatizzazione 伊)の促進(つまりインターネットを駆使しての展開という意かと思います)が必須と説くわけです。
何も著者たちに言われなくとも、ちょっと考えると当たり前なことだからかも知れなくはありますが、「ホロコーストを否定する人々」のページをお持ちでAML参加者かつ東工大教授の山崎カヲル氏が若い運動家たちにネットを使った運動展開の手ほどきを行っていたことも衆知の事実です。継続なさっているのかどうかまでは存じませんが。
http://asyura2.com/0502/holocaust1/msg/614.html
あたくしみたいに下世話な人なら、
【そういったことは小倉氏や山崎氏のような方々がネグリ・スクールの教義の率先した忠実な実践者である、つまり、「帝国」という書のターゲットがどういった人々であるのかをよく体現していらっしゃる方々なのである、ということを意味するのだろうか】
とも考えてみるかも知れません。
*
先に、あたくしがこの書を購入したのは2003年のことだと書きましたが、最初はもちろん真面目に取り組むべき書なのかと思っていました。
が、何しろ明らかに事実に即していないと判断出来るために読むに堪えない点もあったりで(第1章2段目の biopolitica のところではイエズス会についても綺麗ごとが書かれている、他色々)やはり退屈なわけです。
で、第一章で眠気のあまり挫折といったことを何度かやった末に放置いたしておりました。
ホロコースト1板(2005年早春でしたかね)の頃には遂にこんなことを放言:
http://asyura2.com/0502/holocaust1/msg/711.html
その後気を取り直して上方で述べたように何度か読んでみたのですが、上の感想を読んでおわかりになるように、結局その見方が抜けていないわけなんです。その読み方でしか愉しめない。
視点をスイッチするとしかし、この書を取り巻く人脈ウォッチと絡めて行間を読んでいれば、著者たちが明確に言及しない帝国主義の実態が、一種のネガ画像という形で浮かび上がるかのような様相であるとも言えるようではあるのです。
お読みになりたいですか?(笑)
現時点ではこのくらいでご勘弁下さいませ。
ではまた、ごきげんよう。