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(回答先: Re: ただ、昔と較べて幼稚化してるだけじゃないかな。 投稿者 Sirent Tears 日時 2005 年 11 月 04 日 22:10:03)
>NHKの朝のドラマで有名な「おしん」の主人公と同世代だった祖母によると、
>当時の女性の結婚適齢期は13〜20歳だったそうだ。
>その子供である俺の世代で、やっと高卒が主流になる。
>つまり、それだけ社会に出るのが遅くなると言う事だ。
>祖母が13歳で憶えた礼儀作法を、孫の世代は19歳で習うのだから。
このへん、当時から現代までの時代背景やコミュニティーの変革、子供らの教育期間の長さ、人々の平均余命といった側面まで含めて考察していくと、実に面白そうです。
一応ここではSirent Tearsさんのご提言に沿って、下述の部分
>自分と相手の意見の正当性をめぐって感情的なやりとりが延々と継続されるだけで、合理的な論拠に照らして合意に至ることがほとんどない。
について、若干の言い訳をば・・(^^;
小生はあちこちに貼り付けた投稿で、何度も「文脈」について言及しています。
これは大変奥の深い言葉なのですが、ここではまあ「人の思想の大動脈」といった概念で捉えて頂ければ幸いです。
まっ、それはちょっと置いといて・・。
さてこの「自分と相手の意見の正当性をめぐって 〜 合意に至ることがほとんどない」が「日本社会特有のものではない」というご指摘なのですが、これは確かにその通りです。
また、「ガキの会話」というご指摘は、「言い得て妙」としか表現しようがない。(笑)
ただ、ここで今井さんが提言していることは、合意という到達点に至る為のプロセス(対話)じたいを最初から成り立たせない「*依存型コミュニケーションの弊害」が、日本社会を包括的に見た上で極めて特徴的であるということですよね。
つまり「自分と相手の意見の正当性をめぐって 〜 合意に至ることがほとんどない」というのは「*依存型コミュニケーション」におけるひとつの帰結であり、この日本型コミュニケーション体質をなんとかせぬことなしには一連の社会病理を払拭する為の議論すら始めることもできないと。
日本社会に特徴的なのは「〜合意に至らない」ではなく、「依存型コミュニケーションにある」と考えたほうがよさそうです。
(この論文の骨子は、今までは日本システムの体質や構造の行き詰まりと、それに伴う一連の社会病理の遠因を「日本人の集団心理や行動様式」に求めていたけれど、それを「日本人各個人の意識のあり方、価値観の歪みに帰するべき責任問題」にありと視点を変え、「それぞれが日常生活の中で反省し、身に覚えのある自分の行動なり考え方を自ら律し改めるという方向で徹底化」させなければ何も改善しないだろう、ということだと理解しています。)
* 注:小生これは「依存型コミュニケーション」と呼称するより、「依存型コミュニティ
ー」としたほうがわかりやすいだろうと思います。そもそもこういった抑圧的な環境においては「コミュニケーションそのものが成り立たない」と小生が考えるからです。
Sirent Tearsさんからのレスを読ませて頂いた後、小生気づいたことは、確かに小生、この論文の要諦といえる部分ではなく「帰結」を赤字で示してしまった為、読者の読み違いというか「思考の拡散」を誘って(mis_direct)しまったかもしれません。
ただ、こういったmis_directionからもSirent Tearsさんのご意見に見られるような「新たな視点」が派生してくるんで、それが掲示板投稿の醍醐味でしょうか。(笑)
>本当の意味が分かっていないからそれを補おうとしてイメージ的なものや感情的な表現が混ざり、
>更に、その感情的な表現で相手を打ち負かそうとするから余計に会話が混乱して来る。
>今の日本人がうまくコミュニケーションを成立させる事が出来ないのは、社会に出る年齢が遅い為に、
>集団の中で自分の立場を示し、会話と行動によって自分の意思を相手に伝える訓練が不足しているからではないだろうか?
おっしゃる通りだと思います。
それと同時に「相手の立場に立つ」「寄り添う」という訓練というか、発想じたいが欠落している。
これは常に内省を深めていないと、できないことなんですね。
今の人たちは知識だけは多いけれども、その知識だけで己を蓑虫みたいに鎧ってしまい、「自分が理解できることだけが真理だ」という錯誤に陥っている。
「自分には真理に到達できるだけの知識が備わっている」と勘違いしているとも言えます。
先に申し上げた文脈(思想の大動脈)が自身にあるかないかさえ意識せず、その代替物である「雑多な知識の寄せ集め」に依拠した者同士が議論をたたかわせても、トンチンカン同士があさっての方角を向き合いながら怒鳴りあう結果となるのが関の山でしょう。
小生自身も含め、「バカの壁」は誰の前にも等しく立ち塞がっていますが、その「自己の内にあるバカの壁」を認識していない奴がモノホンの真正バカで、そいつらと議論を交わしたら大変なことになります。(爆)
「自分は常に正しく、間違っているのは相手」と本気で信じこんでしまい、そこから一歩も出ませんから。(爆)
これに小生は、「パラダイム固着」という名称を与えています。
次に、ひとつのテーマに対して多角的なアプローチをしようとしない。
例えばある社会現象をテーマとする際、それを心理学的、社会学的、現象学的、人間行動学的、病理学的エトセトラといった様々な側面から検証してみると、それぞれに異なった「意味」が見えてくる。
そうやって見えてきた「意味」は、同じパラダイムの中ではそれぞれが「共訳可能」な筈だから、あとはそれらを十分に吟味、咀嚼してみる。
この吟味、咀嚼については他者との対話がもっとも効果的ですから、「吟味・咀嚼を目的とした対話」という前提を相互に認識してさえいれば、決して(対話)相手と喧嘩にはなりませんよね?
もし相手と目的を共有できず、相手がけんか腰でくれば、その時は対話を打ち切るしかありません。
コミュニケーションは相互に「議論の目的」を明確にしておかなければ、必ずや「我の張り合い」になりますから。
それから次に、これが最も大切なことだと小生は思っていますが、テーマに対して「視点を変えてみる」ということですね。
意味あいは、前述した「相手の立場(視点)に立つ」とほぼ同義なんですが・・。
端的な例として、最近小生がどこかの板に書いたことなのですが、「女性の社会進出」というテーマについて取り上げようと思います。
男女共同参画社会の実現が叫ばれ、女性の高学歴化とあいまって、どんどん女性が社会の中枢部を担うようになってきました。
これはこれで文句はないように見えますが、同時に大きな問題も出てきてしまった。
つまり、「専業主婦」の価値が社会的に貶められてしまったということです。
今、家庭の荒廃や、たぶんその帰結としての子供たちの「荒れ」が問題になっている。
深く考えなくても、家庭から女がいなくなれば家庭は荒れ、子供も荒れやすくなるくらいは容易に想像できます。
女性の社会進出と、家庭(子供)の荒れ。
この2つの問題を並列的に取り上げている議論というものを、小生は寡聞にして知りません。
これは社会的に、女性の社会進出というものがトレンドになり、全体のコンセンサスを得ているというのが理由でしょう。
女性の社会進出を煽っている人間(組織)にとってみれば、その結果生ずるであろう負の側面を、現段階において議論のテーブルに乗せたくないという心理が働くのは明白です。
社会全体の視点が「女性の立場」という一点に集中し、他が見えなくなってしまっている、また、見せないようにしているということですね。
この場合、視点を「家庭経営」や「夫」、また「子供」に移して考えたらどうでしょう?
当然これらは大なり小なり「犠牲」となる立場です。
社会的トレンドというものは、小生もっとも警戒すべきものと考えています。
それはトレンドというものには社会的思想としての文脈がなく、常に個においても社会においても真に大切な価値を隠匿してしまうからなんですね。
そもそも政府・官僚、そして産業界がこぞって女性の社会進出を煽り、その弊害を隠匿する背景というのは何なのでしょうか?
それはもちろん、来るべく近未来における少子高齢化と、その結果発生する「労働力不足」でしょう。
つまりは女性の社会進出というトレンドは、現代及び近未来における「社会的要請」に呼応して形成されているという側面がありますよね?
またその「社会的要請」じたい、社会の支配被支配という関係性において解釈すれば、むしろ「支配層」サイドから出された要請であるとも言える。
でも、よく考えてみて下さい。
将来においても「よりよき社会」を実現する為に最も大切なことは、次世代を担う子供たちをしっかりと育てることではないでしょうか?
また、個にとっても社会にとっても最も大きな喜びは、世界の将来を切り開いてくれる子供たちを愛しみ、育てる以外にあるでしょうか?
そこまで考えてみれば、「よりよき社会を実現する為」などという目的じたいが不遜ということにすら気がつく。
これは、「人類にとって、また私にとっての真の幸福とは?」に視点を移せば、容易に導き出せる結論です。
子を持つ親の大半が、心の根底においてはその人生や己の命すらも子供に捧げ、一心腐乱に子の幸福を願っているというのがその左証です。
それこそが親の悦びそのものだからです。
「生物学的、動物・人間行動学的」に視点を移せばどうなるでしょう。
われわれ人間も他の如何なる生物と同様、「遺伝子の運び屋」でしかないのです。
つまりは自らの遺伝子を子へと移し、その段階で死んだにしても、生物学的には最低限の目的は達成したとも言える。
だが、高度に精神的発達をとげた人間たる生物は、遺伝子以上の物を次世代に託そうとし、またそれができる存在でもあります。
文化であり、言語であり、芸術であり、思想であり、記憶であり、愛であり・・。
こうやって、ひとつのテーマに対してもさまざまに視点を変えて考えていけば、より大きくより大切な「価値」にアプローチできてくる。
社会的合意(コンセンサス)というものは、こういったより大きなものから構築していって、そこから段階的に下げていく(e.g. 社会政策の立案)ほうが説得力があり、ベターなのではないでしょうか?
現実として目に見える諸問題にばかり囚われ、場当たり的、近視眼的、対症療法的に社会の改善を模索しても、時間と労力の無駄でしかないだろうと小生は思っています。
ずいぶん長々と書き殴ってきましたが、この投稿で小生が訴えたかったことは「女性の社会進出に関する諸問題」ではなく、人との共通了解において大切なことは1)相手の立場になって考える、2)多角的アプローチをする、3)対象に対する視点を変える、の三点であるということです。
1) については、決して相手との間に「対立構造」を形成しないということが重要ですよ
ね。
ちょっとでも相手の意見が自分のそれと異なっていれば、概ね我々は反射的に反論してしまったり、「あなたの考えは間違っている」と決めつけてしまったりしますが、ここでいっぺん「対立構造」を形成してしまったら、その先はもう底なし沼しかありません。
このへんの技術的なことは、小生が投稿した「クライエント中心療法」を熟読頂ければ、エッセンスがいっぱい詰まっていると思います。
http://asyura2.com/0510/idletalk15/msg/409.html
また、たけ(tk)さんが提案された「クライエント中心療法的対話」というのは、まさにこのことを意味されているのだろうと思います。
http://asyura2.com/0510/dispute22/msg/298.html
2) については難しいことですが、これは旺盛な好奇心を原動力として、さまざまな知の
フイールドに触手を伸ばしてゆく以外に方法ありませんね。
「机上の論理」にばかり目を向けず、いろんな世界を経験し、いろんな人々と話をするということも大切でしょう。
日本を離れていろんな所に旅行され、できるだけ多くの“カルシャー・ショック”を経験するのは最良の方法だと思います。
人は常に自身の思想を“創造的に破壊”し、また再構築し直すといった繰り返しの中で、次第に自身の中にぶっとい「文脈」を形成していくのではないでしょうか?
3) については1)とも重なるんですが、もうひとつあっしらさんが投稿された「メディ
ア・リテラシー」をご参照ください。
「視点を変える」ことの重要性、その為のヒントが満載です。
http://asyura2.com/0510/hihyo2/msg/132.html
ところで身の程も知らず、ずいぶんエラソーなことを書いてしまいました。
これらはもちろん小生ができるとか、小生がそうであるとかという意味で書いたのではありません。
小生自身も未熟であり、壁にばかりブチ当たっています。
でも、「こうあらまほしき」という理想がないと、人はすぐに道に迷いますよね?
人はもっともっと、臆面もなく「理想」を語るべきだというのが小生の主張です。(^^;