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「フィクション性のある表現活動をたくさんさせることが、子供の言葉を育てる」と話す宗我部講師◇お茶の水女子大学子ども発達教育研究センター 宗我部義則講師
視点を変えると、事実だと思っていたことが違って見えることに気付かせようと、お茶の水女子大学子ども発達教育研究センターの宗我部義則講師は、「三びきのコブタ」の童話をオオカミの視点から描いた絵本「三びきのコブタのほんとうの話−A.ウルフ談」(岩波書店)を使って、物語がどの視点で描かれているかを考えさせる授業をしている。「文章も映像も、必ず誰かの視点で作られている。表現した人の意図や立場を意識させることで、情報の受け取め方を考えさせたい」と話す宗我部講師に、授業のねらいを聞いた。【岡礼子】
−−どんな授業ですか?
「言葉の授業」と名づけて、国語とは少し違った、「言葉」そのものの仕組みを考える授業をしています。「三びきのコブタのほんとうの話」を使ったときは、まずお話を読みきかせて、元の話はコブタの目から見た話ですが、それをオオカミの視点で見ると、違う話に見えることを気付かせました。その後、生徒に好きな物語や小説を選ばせて、元のストーリーとは違う視点で書き直させました。子供たちは夢中で取り組んでいました。
−−コブタの目で見ると、恐いオオカミに襲われる話が、オオカミから見ると、食べる気はなかったのに……というストーリーになっていますね。
自分が今、どの視点で見ているのかを絶えず意識していないと、ひとつの物語を書き換えることはできません。途中で視点がぶれてはだめですし、元のストーリーから離れてはいけないという約束もありますから、子供たちは書いている間ずっと視点を意識して、「元のストーリーはこうだったけど、それをこちら側から見ているから…」と考え続けているはずです。
−−子供たちはどんな話を選んだのですか?
多くの生徒は日本や世界の童話を書き換えましたが、「世界の中心で、愛を叫ぶ」をヒロインの視点で書き直した女の子がいましたし、「冬のソナタ」を取り上げた子もいました。どんな作品がいいか考える過程で、最近人気がある「あらしのよるに」はどうだろうかと考えさせてみました。これは、オオカミと羊が暗闇の中で出会い、お互いを仲間と思い込む話で、物語の外の第三者の視点で描かれています。子供たちはすぐに「これはおもしろくない」と気付きました。暗闇を舞台の外から見ている設定だから、読者はオオカミと羊がいつ相手に気付くのかとはらはらする。それをオオカミの視点でみても、相手は仲間のオオカミだと思っているわけですから、おもしろくないのです。
−−授業のねらいは、書き手の視点に気付かせることですか?
書き手の視点が変わることで、同じ事実、出来事が変わって見える。このことから、言葉のしくみ、表現のしくみに気付かせたいと思っています。インターネットや電子メールなど、子供たちが文章のやり取りをする機会が増えていますが、子供は、言葉を額面通り受け止めて、たったひと言で傷つくことがある。どんな内容でも、書き手には必ず立場や意図があります。「地図は現地ではない」のと同じで、「言葉も表現されている事柄そのものではない」と教えることで、子供たちの言葉の受け止め方に、もう少し幅を持たせたいと考えています。
−−お話を作るのは、言葉の学習に役立つのですか?
そうです。フィクション性のある表現活動をたくさんさせることが、子供の言葉を育てると思います。生の言葉のやりとりをする前に、練習のためのワンステップが必要なのです。子供たちは、自分の持っているしがらみから少し離れたところで、言葉の仕組みを学んだり、言葉を操作したりする訓練ができるからです。友達の意見に反対することができない子供でも、ディベート学習などで反論する役割を与えられると反論できます。大切なのは、ディベート学習の場面で反論できることではなくて、「反論する」経験を積むことです。反論のし方、どうしたら説得力を持たせることができるかは、実際に言葉を発してみなければ、学べませんから。
−−現代は子供同士の意思疎通が難しくなっているのでしょうか。
そうではないと思います。子供の間では、丸文字を使ったり、仲間同士の固有の表記をしたり、書き言葉を和らげる工夫をいろいろしています。しかし一方で、言葉そのものの意味の取りかたや使い方が限定的になっているのではないかという心配があります。子供同士のメールのやり取りは、お互いにつながっていることを実感する、暖かいやり取りなんです。相手を知っていると、文章の意味を膨らませて読めるでしょう。子供たちは普段、そうやって何気なく友達のメールを読んでいます。それを意識化することで、言葉の受け止め方が変わるのではないかと考えています。
−−メディア・リテラシーの学習が必要と。
言葉もメディアのひとつと考えています。これまでメディア・リテラシーは主に、マスメディアが情報にどんなフィルターをかけて、どう構成しているかを、受け手として読み解くことに取り組んできました。でも、子供が発信者になる機会が増えてくると、情報を「構成する」ことを子供自身が経験する必要があると思います。表現方法によって、事実と違ってしまったり、自分の意図とは違う理解のされ方をすることがあることに気付けば、発信する時も受ける時も、言葉に対するかかわり方が違ってくると思います。
−−メディア・リテラシーとか情報モラルというと、「私には教えられない」と思う先生や親が多いようですね。
メディア・リテラシーの本質は「コミュニケーションの指導」だと考えています。インターネットや携帯メールのような新しいメディアに慣れていなかったり、惑わされたりして、「自分には教えられない」と思ってしまう先生が多いのですが、「この子は、何を言おうとしているのだろうか」と考えさせる指導なら、誰でもやっていることです。メディアとかITなどと言わずに、「人とつながる新しい手立て」だと思えばいいんです。友達との付き合い方を教えるように、言葉によるコミュニケーションについても繰り返し教え、考えさせていけば、子供たちは、言葉にどのように接するかを考えるようになると思います。
毎日新聞 2005年10月28日 18時46分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20051029k0000m040029000c.html