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(回答先: イタリア人記者・諜報員殺傷に対するスペイン・マスコミの反応ぶりと、膨らむ疑問 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 3 月 07 日 05:12:33)
バルセロナより愛を込めてさん こんばんは。
もうおひとり、スペイン人ジャーナリスト、フリオ・フエンテスさんが米軍
爆撃開始直後のアフガニスタンで亡くなっていますが、この方の続報はあり
ますでしょうか?
襲撃されたジャーナリストグループの中に、イタリア人女性ジャーナリストも
いたのですが、彼女の経歴が興味深いのです。
(イタリアではもっぱら、知りすぎたために・・・と囁かれています)
事件(コリエレ・デラ・セーラ紙より)
・・・・・
http://www.corriere.it/speciali/11settembre2002/guerra/cutuli2.shtml
マリア・グラッツィア・クトゥーリ、アフガニスタンで殺害される
http://www.corriere.it/speciali/11settembre2002/guerra/cutuli2.shtml
2001年9月19日
ジャラバードとカブールを結ぶ幹線道路上で、4人のジャーナリスト
コリエレ・デラ・セーラ紙のマリア・グラッツィア・クトゥール、豪州人
ハリー・バートン・アフガン人アズィズラー・ハイダリ(両者ともロイターと
契約)、そしてエルモンド紙カメラマン フリオ・フエンテスが殺害された。
彼らの乗った車は武装勢力により止められた。犯人グループはジャーナリストを
車から降ろしたのち、カラシニコフの銃弾を浴びせて逃走。遺体は翌日発見された。
後略
・・・・
最初は物盗りの犯行と伝えられたのですが、その後、前日同幹線道路で襲撃を
受けた(負傷)もうひとつのジャーナリスト・グループのひとり、フィリピン人
カメラマンが撮影していたビデオから容疑者が浮かび上がり、うちひとりの妻が
マリア・グラッツィアさんの指輪を身につけていたことから、有力容疑者と特定
される。タリバン幹部だそうです。
遺族がイタリア地裁に再調査を要求する訴えを起こし、その後最高裁から
アフガニスタン政府に調査要求が出されたのですが、アフガン側があまり協力的
でないため、難航しているようです。
マリア・グラッツィア記者の経歴
http://www.grandinotizie.it/pro/383.htm より抜粋
1962年生まれ。享年39歳。
前略
最初のチャンスが訪れる。ミラノに転勤。チェントコーゼ紙とエポカ紙で働き
始める。海外ニュース部門に勤務。特派員として拠点を置き、興味を持っていた
地域は、旧ユーゴスラビア・中東・そしてイェルサレムだった。
コリエレ・デラ・セーラ紙に移ったのち、ルワンダの内戦を取材。難民問題に
心を打たれ、国連難民高等官との共同活動を開始。この仕事に打ち込むため、
ジャーナリスト活動を短期休業。
コリエレ紙に復帰後、特派員勤務を再開。
最後の地となったアフガニスタンにて、数度の取材活動を行う。短い期間であるが
ルポルタージュを書くために接触しようとしたタリバンに拘束されたこともある。
マスード将軍とのインタビュー成功。パンシールのライオンの異名をとる将軍は、
911前夜に殺害されたとみられる。
911事件の報を、イェルサレムにて受ける。
そして最後の旅。パキスタンに飛び、イスラマバード、ペシャワール経由で
アフガニスタン入国。最後の記事を寄稿。
9月20日のコリエレ・デラ・セーラ紙に掲載された署名記事で、オサマ・ビンラディン
の隠れ家から神経ガスが発見されたことに触れている。独占記事。けれどこの記事を
彼女が読むことはなかった。
・・・・
ここには書かれていませんが、ソマリア モガディショでも取材活動を行っており、
「アルカイダを知りすぎたジャーナリスト」と国営RAIテレビでもコメントされて
いました。
彼女が勤務していたコリエレ紙が続報をほとんど伝えない点を不思議に思っています。
(ベルルスコーニ首相傘下の新聞ですが)