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(回答先: 西欧文明を中和化する戦略には先ず理論的基礎が必要です(バルセロナさんとスパルタコスポノさんへ) 投稿者 岩住達郎 日時 2005 年 2 月 13 日 08:50:25)
岩住様、貴重なご意見、興味深く読ませて頂いています。以前の投稿で「帰納法と演繹法」について書かれていましたが、科学の方法論について基本的な事について質問させて下さい。
一般的に、科学は疑問を持つところから始まる演繹が先発し、帰納、演繹と完結するものと解釈してよろしいでしょうか。それなら、帰納法先発で演繹、帰納と完結するのは科学ではないとされているのでしょうか(坂元邁、「マイナスの科学」)。ここを中心に、科学と方法論としての帰納法、演繹法について、少し詳しく教えて頂ければ有り難いのですが。これは論議版がいいのでしょうが、ここに出てこられましたので、お願いしました。
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「帰納法と演繹法」投稿者 岩住達郎http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/716.htmlより。
引用開始。
自然科学では普通帰納法と演繹法を組み合わせて使いますが、自然科学で沢山見られる「法則」は全て帰納法で導かれたもので、その理由は法則が正しいと証明することは不可能だからです。これらの法則をどうしても反証できない為、正しいのであろう、との結論に至るのです。そう取り決めた後、或る法則から出発して様々な結論に至るのには演繹法をつかいます。
引用終わり。
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参考:坂元邁(つとむ)著、「マイナスの科学」より引用。
自然科学観の基本的な間違い。
現代文明社会の諸悪の根元、それは自然科学観が間違っていることにある。
(1)我々は帰納法と演繹法で科学をやってきた。しかもはじめは、植物・動物・地質学など、すべて最初は帰納法で出発したのである。それにもかかわらず、科学の定義をよく見ると「演繹→帰納→演繹」と進むのは科学であるが、「帰納→演繹→帰納」と最初が帰納で始まるのは科学ではないときめている。その非科学ときめた中に、疫学・生態学・行動科学・心理学などが含まれている。
言葉を換えて言えば、真理を究明する方法である「科学認識」に二通りあるのに、残り半分を除外している。定義ではミクロから証明するものを科学とし、マクロから証明するものを除外している。つまり地球文明は、まだ自然科学観の未分化の状態にあることを知らなければならない。
(2)科学の対象である真理もまた、物心両面のうち「物」だけを扱い、「心」を除外している。(中略)我々は数百年に亘って誤った教育を受けてきた。事実に疑問を持って始めるのが科学であり、信じて始まるのが宗教であるといった間違った神話が、今でも臆面もなく通用するのである。これほど単純な間違いを、今なお気付かない科学者が多い。教育による洗脳の恐ろしさを痛感する。
科学と宗教の認識を、もう一度、整理してみよう。科学とは、事実に対し(a)疑問を持ち、それを(b)測定証明していく。宗教とは、事実を(c)信ずる発想から、それを(d)情念に訴えていく。【(a)疑問を持つ】と【(b)測定証明】→科学。【(c)信ずる】と【(d)情念に訴える】→宗教。現在はこのように考えられている。私が問題にしているのは(c)(b)は何か?、(a)(d)は何か?である。
科学と非科学の区別は、測定証明するか、情念に訴えるかで区別する。それなら、科学の反対側にあるのは、宗教ではなく、マイナスの科学であり、非科学はそれ同士で、宗教の反対側にはプラスの宗教がある。
科学とは測定証明をベースとして、疑問をもって始まるプラスの科学と、実態のデータを疑問を持たずに受け入れて始まるマイナスの科学(最初が帰納法で始まる)がある。
疑問を持つ発想をプラスとすれば、疑問を持たずに受け入れる(信ずる)発想はマイナスである。これを、プラスは科学的、マイナスは非科学的というのであれば、男は人間、女は非人間となり、磁石もプラスから見れば磁石、マイナスから見れば非磁石と言わなければならない。
科学者は一刻も早くこの科学観から脱却しなければならない。これが今日の諸悪の根元になっている。即ち、唯物論は正しくて、真理の全てをカバーしていて、尚その上で科学の半分であることに気付くことである。
マイナスの科学とは、実態のデータを疑問を持たずに、受け入れて始まるマイナスの科学(最初が帰納法で始まる)である。唯物論科学は科学の半分であり、演繹先発しか認めない。そこでは、普遍性、再現性があるものしか事実と認めない。選択的に起こる、再現性のないものは非科学とする。
(引用終わり)