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先日、アルバイト先の会社から帰宅途中での出来事である。突如、言い知れぬ腹部の不快感と腹痛を覚えた。場所は高田馬場の界隈であった。そこは学生を始めとする賑わいのある町であり、多くのコンビニや飲食店が軒を連ねている。私は突然の想定外の事態にコンビニに走りよった。
「すみません、トイレを貸してください」決して血色がいいとは言えぬ顔色に当然のことながら貸してくれると私は考えていた。しかし、無情にもその答えは・・・
「すみません、防犯上の関係でお貸しすることは出来ません」であった。
私は言い知れぬ怒りを覚えたが、防犯への警戒も理解できないわけではなく、仕方なく諦めて他のトイレを探すことにした。しかし、このような状況にあって断られた事に「どうせ他の店も断られるであろう」というある種のネガティブな心境に陥り駅を目指した。
読者の方々にはこの話はただの茶番に聞こえるかもしれない。しかし、私はこの一件に日本社会の抱える、治安低下と人と人の信頼感の低下という重大な問題を見出さざるを得なかった。以下、論点を挙げてみたい。
・トイレを貸すことも出来ない位に治安に対する不信感を持っていること。
・明らかに気分の悪そうな人間にも不審者ではないかと疑念の気持ちをかけてしまうこと。
・一度の拒否反応に怯え、たった一部への不信感が周囲一帯への不信感に増幅してしまうこと。
かつて、日本は世界一治安が良い国と言われた。検挙率も非常に高く日本の警察は世界一であると評価されていたし、確かに検挙率も非常に高かった。しかし、近年は警察の検挙数が犯罪発生数に追いつかなくなり相対的に検挙率が下がってしまった。犯罪者が検挙されないまま町に潜む可能性が増えたのである。現在東京都も警察官の増員を実行しつつありこの事態に対処しようとしている。
しかし、何とも悲しいことであろう。日本という国は治安が誇りであった。田舎に行けば家の鍵をかけずに眠ることなど極普通であった(現在も僅かながらに残っているであろうが)。日本人が無用心であったと言えばそうかもしれない。だが、少なくとも商店が客や体調不良者に防犯上を理由にトイレを貸さないなどと言うことは考えられなかった。これはトイレを貸さない商店を非難しているのではなく、人々が治安に対する不信感を持つことや人が人を信頼できなくなりつつある日本社会を指摘しているのである。
また、一度の拒否反応に対して周囲一帯への不信感を持つというのは現在の都市型社会が抱える問題である。かつては、一度の拒否反応で周囲一帯への不信感を持つことはなかった。むしろ「あの人には断られたけど他の人なら大丈夫だ」というある意味で根拠のない自信を町に対して持つことが出来たのではなかったであろうか?日常から何度も顔を見ることで話しかけることも気軽に出来たし、町の人同士がお互いを警戒しあうことはなかった。もちろん、噂がすぐ広がるなどの胡散臭い部分も当然あったが村社会的な連帯感が町には溢れていた。
少なくとも「町のどこの店もトイレを貸してはくれない」などと言った心理に陥ることはなかった。家の煮物が多く出来たのなら近隣に配るなどと言ったことは本当によくありふれた光景であった。
私は日本のかつてのような村社会が万能だとは決して思わない。マイノリティーが非常に否定される傾向にあったし、村八分にされるという事はよくあった。特にプライバシーが尊重される現在にあたっては過去の遺物なのかも知れない。しかし、過度のプライバシー重視が閉鎖的な社会構造を生み出しつつあるのは大方間違えのないところであろう。
「共生の社会」とは如何なるものであろうか?簡単に答えの出るものではなかろう。しかし、このままでは日本は間違いなく「共生の社会」ではなく「疑い合う社会」になるであろう。そして、トイレを探すのにも苦労する住み難い国になってしまう。村社会の復活とは言わぬ、だがせめて人と人が明るく挨拶が出来、困ったときくらいは気軽に手を差し伸べられるような心構えを持てる国にしたいものだ。
たかがトイレかも知れない、されどトイレの貸し借りから日本社会が見える。同様に私たちの身近な出来事を積み上げていくと大きな社会の課題が見えるのではなかろうか。
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熱血!! ☆ダッシュマン☆ 鈴木孝明の日々
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(鈴木孝明)