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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu96.htm
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最初の覇権国スペインはなぜ進歩から取り残されたか?
東京裁判史観は日本を滅ぼす為の精神破壊工作である
2005年6月8日 水曜日
◆最高裁口頭弁論(一) 6月4日 西尾幹二インターネット日録
http://nishio.main.jp/blog/archives/2005/06/post_161.html
上告人の西尾幹二です。三点に分けて考える処を申し述べさせていただきます。
日本国民の一人として、日本国の公立の図書館から、理由説明もなく一括して廃棄された本のうちに、自著が含まれたことに、私は屈辱と怒りを覚えました。私の過去の全著作活動が公的機関から、理由もなく「差別」されたという感覚、私の人権が一方的に侵されたという強い認識をもったことをまず第一に告知しておかなくてはなりません。
第二点以下は私個人の感情ではなく、そこから離れた公的問題に絞ってお話ししたいと思います。
廃棄の対象となった私の本の9冊のうち7冊は、歴史にも政治にもほとんど関係がありません。私が「新しい歴史教科書をつくる会」に関わるより前の文芸書や人生論のたぐいで、私が会の代表であったというそれだけの理由によって、昔の本に遡って無差別な廃棄の対象となったのであります。
これはある集団に属していればそれだけで罪になる、という断罪の仕方であって、ユダヤ人であれば罪になるというナチスの論理、地主や資本家であれば罪になるという共産主義の理論を思わせるものがあります。「つくる会」に属していれば、それだけで、属するより前の書物までも罪になる、というこんな全体主義的な発想が許されてよいのでしょうか。
なにかに属している者はそれだけで罪になる、という「集団の罪」Kollektivschuldの概念に立脚して、1930年代に二つのの全体主義、ナチズムとスターリニズムは無実の人々を処刑しました。尤も、この「集団の罪」の概念は被害者である場合と加害者である場合とでは意味が逆になり、必ずしも一筋縄ではいきません。ドイツ人は戦後、悪いのはヒットラー「個人」であり、ドイツ民族という「集団」には罪はない、という詭弁を弄しつづけてきたのは周知の通りです。
ですが、本件のような被害者の立場からいえば、「集団の罪」を被せられるのは恐ろしいことで、私の本は私がなにかに属しているかいないかで判断されるべきではありません。
当件にナチスまで持ち出しては大袈裟に思われるかもしれませんが、決してそうではありません。体制の犯罪、自由の扼殺(やくさつ)は小さな芽から始まるのです。
図書館員の特定の思想をもったグループが団結して、しめし合わせて、歴史を消し去るということもあながちあり得ないことではないと思わせたのが本件であります。
さて、そこで焚書とは何か、歴史の抹殺とは何か、という三点目のテーマに移ります。
◆最高裁口頭弁論(二) 6月5日 西尾幹二インターネット日録
http://nishio.main.jp/blog/archives/2005/06/post_162.html
チェコ出身の作家ミラン・クンデラは次のように語っています。
「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明することだ。そうすれば間もなく、その国民は、国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」
とても示唆に富むことばですが、逆に一冊の本に書かれた内容がある民族に致命的であって、それへの反証、反論の本が書かれなかったために、その民族が悲運に泣くという逆の例から、歴史の記録がいかに大切か、歴史を消すことがいかに恐ろしいかをお示ししてみたいと思います。
近代ヨーロッパの最初の覇権国スペインはなぜ進歩から取り残されたか。16−17世紀に歴史の舞台から退いた後、なぜ近代国家として二度と立ち上がることができなかったのでしょうか。
それもたった一冊の薄っぺらい本から起こりました。一修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスが1542年に現地報告として国王に差し出した「インディアスの破壊についての簡潔な報告」がそれです。からし粒ほどの小著ですのに、大方の国語に訳され、
世界中に広がり、深々と根を下ろし、枝を張りました。日本でも岩波文庫から出て、よく読まれてきました。書かれてある内容が凄まじい。キリスト教徒はインディオから女や子供まで奪って虐待し、食料を強奪しただけではありません。島々の王たちを火あぶり刑にし、その后に暴行を加えた、等々です。
それ以後スペインとなると「黒の伝説」がつきまといます。中南米のインディオを大量虐殺し黄金を奪ったスペイン、狂信のスペイン、異端尋問のスペイン、文化国家の仲間入りができないスペイン、凶暴きわまりない闇の歴史を持つスペイン――そういうイメージにつきまとわれ、スペイン人自らが自分の歴史に自信を持つことができなくなりました。
最近わが国でも歴史認識に関する「自虐」心理が話題になっていますが、自分で自分を否定し、自己嫌悪に陥り、進歩を信じる力を失った最大級の自虐国家はスペインです。
それもたった一冊の薄っぺらな本に歴史的反証がなされなかったからです。あまつさえオランダとイギリスが銅板画をつけ、これを世界中にばらまきました。しかし近年の研究で、あの本に書かれた内容には誇張があり、疑問があるということが次第に言われるようになってきました。とはいっても、なにしろ16世紀です。ときすでに遅しです。
じつは日本にも似た出来事があるのです。この赤い一冊の大きな本をみて下さい(私は裁判官の方に本をかゝげた)。アメリカ占領軍による『没収指定図書総目録』です。
マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を図書館から除籍し、廃棄することを日本政府に指示しました。書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大かがりとなります。昭和23年に文部省の所管に移って、各部道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし秘密裏に行われました。没収対象の図書は数千冊に及びます。そのとき処理し易いように作成されたチェックリストがここにあるこの分厚い一冊の本なのです。
勿論、占領軍はこの事実上の「焚書」をさながら外から見えないように、注意深く隠すように努力し、また日本政府にも隠蔽を指示していましたので、リストもただちに回収されていたのですが、昭和57年に「文部省社会教育局 編」として復刻され、こうして今私たちの目の前にあるわけです。
戦後のWar Guilt Information Program の一環であった、私信にまで及ぶ「検閲」の実態はかなり知られていますが、数千冊の書物の公立図書館からの「焚書」の事実はほとんどまったく知られておりません。
今となっては失われた書物の回復は容易ではないでしょう。しかし私は書名目録をみておりますと、この本がもどらない限り、日本がなぜ戦争にいたったかの究極の真実を突きとめることはできないのではないかと思いました。
「焚書」とは歴史の抹殺です。日本人の一時代の心の現実がご覧のように消されるか、歪められるかしてしまったのです。とても悲しいことです。船橋西図書館のやったことは原理的にこれと同じような行為につながります。決して誇張して申し上げているのではありません。
裁判所におかれましては、どうか問題の本質をご洞察下さり、これからの日本の図書館業務に再び起りかねない事柄の禍根をあらかじめ断っていただくべく、厳正にご判断、ご処置下さいますよう切に希望する次第です。
(私のコメント)
戦後、マッカーサー司令部の命令で日本中の図書館からリストに載った書物の多くが没収処分を受けた。その没収された書物はリストだけでも一冊の本になるほどの量である。これはマッカーサー司令部が戦前の日本の記憶を消し去ろうという野蛮な行為であり、没収された本の多くは処分されたり焼かれたりして戦前戦中の研究資料が失われてしまった。
占領期間中は新聞なども検閲を受け手紙などの私信も検閲を受けた。戦争期間中ならともかく戦後になってからも占領軍にこのような占領政策が行われたのはあまり知られていない。もっとも世界中でも革命が起きたり王朝が変わったりすると、全面的な歴史の書き換えが行われるのはよくあることだ。マッカーサー司令部はそれを行ったのだ。
西尾氏が例としてあげているのはスペインがなぜ没落したかについての考察ですが、軍事的にはスペインの無敵艦隊が敗れたことが決定打ですが、それとは別に中南米のインディオに対する虐殺行為が告発されてヨーロッパに広まり、スペイン人の心を蝕んでいったことが、ボディーブローのように効いていったのだろう。
このような女子供まで大虐殺して行ったという暗黒のイメージが後々のスペイン人に植え付けられてスペインは衰退して行った。これと同じようなことはドイツによるユダヤ人の虐殺ですが、執拗に繰り返されるプロパガンダにドイツ人は苛まれ続けている。それがどれだけ事実であったかも公には研究することは許されず、ニュルンベルク裁判史観が定説とされた。
それと同じことが日本に対しても行われて、東京裁判に南京大虐殺が告発されて、中国では各地に南京大虐殺記念館まで作られている。それらに対して日本政府は形ばかりの抗議をしただけに終わっている。これに対しても学術的に研究して真実を明らかにすればいいと思うのですが、政界から教育界まで東京裁判史観で洗脳されてしまったようだ。
歴代の総理大臣も中国や韓国への謝罪外交を繰り返しているが、それぞれの講和条約で解決済みのことを蒸し返されて右往左往している。日本の総理大臣や外務大臣や官房長官が戦死者を祀った神社に参拝に行くことに対して外国からとやかく言われる筋合いではない。中曽根総理大臣以降の総理大臣は中国の日本に対する覇権を認めるかのごとき行動だ。
日本の総理大臣からしてこれくらい腰抜けでは日本がスペインのように衰退して行くのは目に見えている。アメリカのブッシュ大統領は日本の首相が中国にペコペコ頭を下げて言いなりになっているのを見るのは不愉快だろう。これに対して小泉首相がぬらりくらりと靖国参拝を続けているのは、アーミテージに言われているからで、靖国神社は米中対決の象徴になっているのだ。
◆「戦犯」朝日新聞の戦争責任 6月5日 西村幸祐
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/4172109.html
「東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯は連合国に『ぬれぎぬ』を着せられたというのが神社の立場だ。」
そのA級戦犯より遥かに戦争責任があるのは、言わずと知れた朝日新聞ではないのだろうか? 内にコミンテルンのスパイを抱え、対米開戦に世論を誘導し、A級戦犯と言われる人々を日米開戦に向かわせた最大の犯人は、朝日新聞ではないのだろうか? そもそも、この期に及んで東京裁判史観を死守しようという朝日の意図は、対ソ従属の編集方針から対支従属に舵を切った71年の広岡社長の社論確定と関係があるはずだ。そうでなければ、北京の御用聞き本多勝一の「中国の旅」という連載もなかったはずだ。東京裁判史観の崩壊がもはや始まっているから、これだけ詭弁を並べるのであろうか?
「朝日新聞は中国の反日に迎合しているのではないか」とのご指摘もいただいている。
読者は賢明であるようだが、まだ、本質が見えていない。「中国の反日に迎合している」のでなく、支那の反日を支援、製造して、武器輸出を行っているのだ。その証拠に次の一文で支那を代弁し、朝日の主張=北京共産党中央宣伝部という等式を証明している。「だが、中国が問題にしているのは一般兵士の追悼ではなく、戦争指導者の追悼である。A級戦犯が合祀された靖国神社を、日本国を代表する首相が参拝するのが許せないというのだ。」
「小泉首相は、将来の平和を祈念して参拝するのだという。しかし、そのことが日中や日韓の間の平和を乱しているとすれば、果たして靖国に祭られた犠牲者たちが、それを喜べるだろうか。」
これが、この駄文最大の見所だ。首相の靖国参拝が「日中や日韓の間の平和を乱している」事実があったら、それを提示しなさい。論理的に相関関係を述べなさい。「日中や日韓の間の平和を乱している」のは、朝日新聞の資質と支那の覇権主義、支那、韓国の東夷秩序に基づいた反日ファシズムではないのかな? そして何よりも卑劣なのは、遺族を「戦争犠牲者」という戦後民主主義の黴の生えた観念語で粉飾し、遺族の心を勝手に利用して、遺族に代弁させようという、心の卑しい、人間性の一カケラも無い、文章責任を問われないようにする無責任な放言だ。朝日及びこの論説委員に、遺族の心を代弁する資格などあるわけがない。
◆また出たか、河野洋平!6月7日 殿下さま沸騰に日々
http://blog.goo.ne.jp/takkie0516/
よくよく考えてみれば、反日デモが起きようが、暴徒によって日本大使館や領事館が破壊されようが、日本製品排斥の運動が始まろうが、孔泉がキチガイのごとく連日にわたってわめき立てようが、支那婆が小泉首相との会談を直前になって呉儀ろうが、小泉首相は『靖国神社参拝をやめる』とは決して言わなかった。そんな小泉首相が、媚支那派として知らぬ者のいない河野洋平に、『わての親分が怒ってまっさ。あんた靖国神社に参拝しないほうがよろしいでっせ』と言われて、『はいはいそうでんなようわかりましたわ』などと言うわけなど絶対にないではないか。指摘するまでもなく、小泉首相の一貫した態度は誰にだってわかりきっているわけで、だからこそ、支那はキチガイじみた恫喝を連日にわたって繰り返してるのだ。だとすれば、そうと知りつつ河野洋平が、小泉首相にわざわざ諌言する理由なんぞひとつしかない。『靖国神社に参拝するな』と小泉首相に向かって言いつつ、河野洋平の顔はしっかりと北京に向いているのである。
そもそも、小泉首相の靖国神社参拝を、『支那ノ民衆カ傷ツクアルヨ』=いわゆる歴史認識という支那の主張と同じ土俵で語るのが間違っているのだ。支那が靖国神社参拝に関して、お得意の『民衆傷つき芸』を披露しているのは、いまのところ、歴史問題を持ち出して倫理的に優越的地位に立つことが、日本に対して最も効果的であると判断しているからに過ぎない。相手と事象と支那を取り巻く環境によって、支那政府にとって都合よく傷ついたり傷つかなかったりすることを忘れてはならないのだ。だいいち、支那政府の対日政策自身、環境の変化に応じて、反日→親日の紆余曲折を経てきたではないか。天安門事件に際して、欧米とは一線を画して対支援助を継続した日本に対して、『誰がほんとうの友人かよくわかった』と述べたのはいったいどこの誰だったか。台湾問題や常任理事国入りをみればわかるように、要は、長期的な将来にわたるアジア地域での指導力(支那の立場で言えば『覇権の確立』である)を巡って対立することが必至の、まさに両国の外交なのだ。国益とはつまり、そういうものであり、支那進出企業の目先の損得だけの問題ではない。
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