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結局、神学と科学主義をこえられなかった左翼 (荒 岱介)
http://www.asyura2.com/0502/senkyo8/msg/802.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 23 日 03:28:50: ogcGl0q1DMbpk


『近代の超克論者 廣松渉理解』出版記念講演(上)

結局、神学と科学主義をこえられなかった左翼

http://www.bund.org/opinion/20050125-1.htm

  荒 岱介

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あら・たいすけ

作家・編集者。1945年生れ。60年代全共闘運動以来の活動家。著書に『行動するエチカ』『環境革命の世紀へ』『破天荒伝』『大逆のゲリラ』ほか。
マルクスを貶めないように
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 昨年12月に上梓した『廣松渉理解』(夏目書房刊)では、廣松哲学と対質しながら現代社会のオルタナティブとしての左翼イデオロギーが、既に命脈つきていることをあばき出そうとしています。不可能なるコミュニズムに夢を託せと強弁しつづけるのは不誠実だと思うからです。

 とりあえず気になるところとして、では本書に対して廣松家がどう言ってるのか。それをはじめに紹介します。奥さんの廣松邦子さんの通読しての感想です。邦子さんは、哲学者の加藤尚武さんの奥さんのお姉さんにあたる人です。廣松渉と加藤尚武の奥さんは姉妹なんですね。

 それはともかく、御了解のうえで内容を抜粋します。  「このご本に関しましては、夫々にご意見があると思いますが、まさに、荒さん流の理解≠ネのですから、私は興味深く読ませて頂きました。荒さんが受け止めておいでの廣松はかなりの程度実態に近いところもあるのではないかと私は思います。実際に本人に聞いたら苦笑したりノーコメントだったりするのでしょうが……。廣松は実際以上にマルクス、マルクスと言っていると私は思います。ある時はなんでこんな所でマルクスに言及しなくてはいけないの≠ニ言った事もありますが、彼はニヤリとしてるだけでした。自分が紡ぎだしたものをマルクスのものにし過ぎるという思いが私にはずっとありましたから。

 でも少なくとも、マルクスを貶めて発言する事はしたくなかったのは確かです。特にソ連崩壊後誰もがマルクスを葬り去ろうとした時敢えて擁護に立ち上がり、顕揚しようとしたのはマルクスへの想いが深かったからだと思います。彼にはやりたい事、調べたい事、勉強したい事が山ほどあったのですから……。大学時代からの友人は、刈入の大事な時に不幸な事だった≠ニ哀惜し、マルクス派の若い友人は我々がしっかりしていなかったから……≠ニ無念の思いを述べておられました。廣松は常に俺は弱い者の味方だ≠ニ笑っておりましたけれど、これはエンゲルスやマッハを評価したのと同じ姿勢です。とにかく不当≠ノ扱われることには我慢出来ない人でした。

 著作物は、読者によって様々な読まれかたや受け止め方がなされます。同時代の読者(特に著者と直接かかわりをもった人々)と後の時代の読者も当然異なった読み方をするでしょう。自分の書いたものがどのように理解されているかを廣松も冥界からじっと見守っていると思います。野家さんにしても西原さん(名古屋大・社会学)にしても、その他多くの方々が廣松をマルクス派として云々していらっしゃるわけではありません。荒さんもあまりマルクスにこだわらず、でもマルクスを貶めずに、若い人達のリーダーであり続けて下さい」

 私は廣松の弟子の異端者なんですね。それを見守って下さっているということですか。  以下本論に入っていきますが、60年代以来私が言ってきたことが、どういう文脈で現代に至ったのかの説明として行っていきます。私が過去から今日に至るまでのイデオロギー的な積み重ねのなかで、かく考えたからマルクス離れを覚悟したのだと言いたいということです。

 わかりやすいようにレジュメ化したのがありますから、まずそれを読みます。

自由がかわらぬテーマ

 @かってサルトルは「自由とは必然性の洞察である」といい、マルクス主義革命への支持を表明した。だが彼は「必然性」とされるものが、人間が措定したものを物象化して客観的事実であるかのように捉えているという構図を見抜けなかった。これは私自身についても言えることだった。

 つまり「〜でなければならない」「〜であるべきだ」というゾレンの措定(カント・マルクスなどの考え方)は、科学主義的思考の結果といえるが、それが中世キリスト教神学の影響下に成立した神の教示のやき直し(科学版)であるとは考えられなかった。人間存在をはなれた外界(=内界)に、人間を司る何か(実体)があると考える点で両者は同根だったのだ。

 中世ではひとり異端者たるスピノザがコナトス(自己保存欲求)から考えようとした。進化論的視点から考えていたといえる。生命体の本能とは自己保存と恒常性の確保だが、彼はここを基点に人間存在の在り方を考えようとした。自然と共生する人間ということである。しかしこれは汎神論にもなる。だからスピノザは一神教たるキリスト教世界では無神論だといわれた。

 体制変革の問題もスピノザの視点から発想しなければならなかったのだが、私も含め誰もそう思い至らなかった。今やアクティビストにとっての出発点の再措定が求められている。ネグリなどとの問題意識の共有化が必要なのだ。

 A私の結論では唯物史観ではなく進化論を基点に考えるべしとなる。ダーウィンの言ってることのほうがマルクスより正しかったと思うのだ。結局マルクスはニュートン的科学を信奉してしまった。中世キリスト教支配の呪縛からの脱却をニュートン力学に求めたのだ。

 『資本論』は資本家的商品経済社会の経済法則を自然法則として明らかにするべく書かれている。マルクスなどの前提には教会支配の打破という問題意識があった。ニュートンが神の支配するキリスト教世界を突破したと思えたのだ。そこではマルクスは『経哲草稿』などを見てもわかるように、「人間の普遍性が実践的に現れるのは、まさしく全自然を人間の非有機的な身体にするところの普遍性においてである」(国民文庫本P105)などの言い方で、人間の力能のほうに軸点をおいて考えることを強調した。自然との共生ではなく自然の改造である。この影響下で考え続けてきたのが世界中のほとんどのマルクス主義者達だった。革命万能論は人間万能論とも通底した。

 B歴史的にいえば、ニュートン物理学のマルクス主義への適用を強調したのがレーニンだった。彼は法則実在論で考え、プロレタリア革命は科学であると考えた。マッハはこの対極にいたのだが、レーニンの考えでは現実の矛盾を止揚する運動ではなく、世界を見透かした前衛の措定する科学としての革命が真理ということだった。左翼はこの思考方法を突破できずにソ連の崩壊までつき進んでしまった。唯物史観ではなく生態史観から考え、現実の矛盾を止揚する運動を措定すべしとはならなかったのだ。

 例えば、進化論的に考えればその大本である地球環境を守ることは大前提となる。地球改造計画とか、人間が地球を造りかえるなどということは不可能であることは自明の命題なのだ。しかし人間中心主義にこり固まった左翼は、神は死なせたが、科学を信奉する人間を神にしてしまった。

 近代の超克とは近代物質文明の超克ということであり、ソ連やアメリカをこえるということを意味する。この問題意識を廣松哲学との対質をとおして言おうとしている。左翼の考え方の総括をしているわけである。

自由とは必然性の洞察?

 だいぶ抽象的なレジュメなので説明します。まずわれわれが環境保護運動など行っている一番大きなプロブレマティーク、問題意識は何か。何のために人間はいろんな活動や行動をしてるのかから言ってきますが、そこで変わらないテーマは「自由」だと思います。「自由」を求めて人間は呻吟しているわけです。

 では自由とは何か。何をもって「自由」というのか。自由論の世界に入ります。自由とは何かというとき、アクティビストの中には「我々はfree fromではなくて、Libertyだ」などと主張する人もいます。しかしこれは全くのデタラメです。そうではない。自由論の肝になることは「free from」しかないのです。 バーリンの自由論やイギリス経験論のJ・S・ミルなどが言ってる「自由」とは、要するに「free from」なのです。「積極的自由」と「消極的自由」といった場合、「〜に向かっていく自由」などとはならないのです。基本的人権の一番大事な自由の問題になりますが、「拘束からの自由」とか「束縛からの自由」といった消極的なものをテーマとします。「行動の自由」は、「移動の自由」「行動や移動の制限に対する自由」を意味するわけです。だから「free from」が自由の定義で、好きなことを勝手にやるのが自由ではないのだということです。  つまりわれわれが「自由を求める」というとき、それは拘束から解放されることを内容とします。人間を拘束しているものには、国家や教会などいろいろあるけれど、その呪縛から解放されていく状態を自由と呼ぶわけです。

 それで当然ながらマルクス主義のテーマも「自由」でした。マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「必然の王国から自由の王国へ」などといって、来るべき自由な社会は共産主義社会であると定義しました。共産主義社会でこそ完全な自由=freedomが人間に保証されると。それに対し現在の社会は自由があまりにも多く束縛されている、だから革命をやる必要があるんだと論じたわけです。

 マルクス主義を信奉した人間も自由を信奉し、資本主義を信奉した人間も自由を信奉した。それにかわりはないのです。そこでは、どちらがより自由に至れるかだけがあった。

 そうしたなかで、たとえば1960年代、フランスの哲学者サルトルなどは、「自由とは必然性の洞察である」と言い、マルクス主義革命への支持を表明した。「必然性」とは「必ずそうなる」とか「必ずある」ということですが、サルトルのみならず左翼は必然性といわれているものが、人間が措定したものを物象化して客観的事実であるかのように捉える構図の結果であることは見抜けなかった。ほとんどの左翼がそこで呪縛されてしまったのです。

 「自由は必然性の洞察である」とは、中世であれば、人間社会を超越したところに超越者としての神がいて、その神が人間界を司っていることを知ることだという考え方になります。神の倫理を理解することが自由への道だと。そうした考えを教義として持ってたのは教会です。教会はその権威のもとに、あらゆる人間を束縛しようとした。それに対しニュートンやガリレオなどは教会の権威を否定し、もっと別のところに人間界のみならず、地球そのものを司っているものがあると考えた。つまり物理的な法則、「自然法則」が世界を司っていると考えたのです。

 ニュートン力学だったら慣性の法則、加速度の法則、作用・反作用の法則(力学の3法則)とか、「すべての物体は、2つの物体の質量の積に比例し、その間の距離の2乗に反比例するような力で互いに引き合っている」という万有引力の法則とかが有名ですが、その大本には時間は宇宙のどこにいても直線的に流れるという「絶対時間」と、空間はどこにいる観測者からも独立しており、影響をうけないという「絶対空間」の考え方があります。宇宙空間に絶対的な座標系を絶対静止系として位置づけたわけです。この考え方の下では自然法則の必然性を洞察できれば自由になると科学者たちは考えたわけですね。

 左翼も現象と本質とか、実体的とか連発します。現象の背後に本質があると固く思っているからそう言うのです。現象界に生きている即自的な人間は、本質的なことを知らないと左翼は主張したいわけです。科学法則を知らない大衆に対して、科学法則を知っている科学者たちは違う存在だというのと、全く同じようなパラダイムで考えていることになります。

 人間は自分が優れている、人より優位であると思いたいのです。だからサルトルは科学法則の対象化を「必然性の洞察」といい、マルクスは『資本論』で資本家的商品経済社会の経済法則を自然法則としてつかみとったと顕示したのです。まさに自然法則を洞察することが自由だと考えたのです。その意味でマルクスもニュートンと同じ発想だったといえます。

法則実在論のパラダイム

 ニュートンは古典力学で、先にもふれたように実際に人間を司っているのは神ではなく、物理的な諸法則=自然法則であると考え、同じようにマルクスも経済社会構成態の一つである資本家的商品経済には、固有の社会法則、経済法則が貫徹していると考えたのです。その経済法則を理解する、物理的に流れている法則を認識するのが左翼であり、マルクス主義者であると信奉したのです。

 そこで左翼は、自分たちは本質を理解しているが、大衆は理解してないという図式にこり固まっていきます。前衛―大衆理論とは、〈法則的なものを理解している前衛―全然理解してない即自的な大衆〉という図式です。この図式のもとに、必然性を洞察している自分たちが本当の自由を獲得するためには、いろんな制約もやむなしと考えたのです。「〜でなければならない」というゾレンを措定し、そのゾレンをいくつも超えていくことによって、初めて自由に至るんだと考えた。これが前衛党の理論の背景にあるパラダイムです。

 「〜でなければならない」とか「であるべきだ」というゾレンの措定は、カントならば『実践理性批判』では「格率」という言葉で表しています。「格率」とは、客観的な道徳律と自分の内的に思っている道徳とを一致させていくことを言います。そのようなカントの哲学は、マルクス・レーニン主義者には、本当の自由に至る階梯として「〜でなければならない」といういくつものゾレンを実現していくこととして引き継がれたのです。ゾレンを自分のものにして生きるんだ、それが自由への道なんだと考えた。それが自由への道なのか、だったらそう生きようと私なんかも考えたわけです。

 人間存在を離れた外界に何かがある、人間を司っている何かがあると考えれば、その何かを認識する、理解する、解明することに最大の興味を向けることが学問することであることになります。そのゾレンから入ると、「〜でなければならない」「〜であるべきだ」という発想で人も見るようになります。

 「前衛だったら〜でなければならない」「指導者ならこうであるべきだ」という自分で作った文法で人を見て、世界を見て、社会を見る。こうしてマルクス主義者は、あるべき姿を設計主義的にたくさん措定し、その先に計画経済を実現しようとしたわけです。そうなれば本当の自由がやってくるという信仰の下に。

 このような考え方は「神学の克服」の過程で起きたわけです。その意味ではニュートン力学に代表される科学主義も、マルクス主義も、外界に人間を司る何かがあると考える点では実は中世の神学と同根だったのです。その設計図にもかかわらず左翼が計画経済の社会を実現できなかったのは、実際の人間社会がそのようには成立していなかったからです。そもそも、いくら「こうであるべきだ」と思っても、はたして自分はそのようになれるのかという問題もあります。全能的な能力を持つとか、カントがいうような道徳律を生きることなどに、自分が内存在できるのか、人間には煩悩があるけど、それを超越しながら生活者として定位できるのか、できないことを措定してしまったところに左翼の悲劇があったわけなんですね。

             (次号につづく)


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(2005年1月25日発行 『SENKI』 1167号4面から)


http://www.bund.org/opinion/20050125-1.htm

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