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(回答先: 生物種としての人間から考える進化論的視点 (荒 岱介) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 23 日 03:41:15)
AならばBという事が必然性でしょう。
しかし、自然界は無数の因子が複雑に反応して結果を出しているのでこの必然性を人間が完全に捉える事は最終的に不可能であろうと思います。
しかし、マルクスやレーニンやスターリンは人間社会の必然的法則が捉えられると豪語した。
商品の分析には一定の成功をしたかも知れないが、人間社会の発展法則が分かるというのは将棋の初手の段階で詰みまで読んでいると豪語しているようなものではないか?
ソ連の崩壊で一国社会主義は破産した。
計画経済は官僚統制型としては破産した。
「自由とは必然性の洞察である。」という言葉は森信成(民主主義学生同盟の理論的支柱)も引用していた。
これこそがその必然性を把握していると豪語する官僚の下部同盟員に対する支配の論理だったのだ。
「我は必然性を把握せり、よってお前は我に従うだけでよい。」
ところが必然性であるにも関わらず各個人は自分の頭で考えなければいい結果を生み出す
事はできない。
では自分の考えはどこから出てくるのか?
分からない。
よって、指導者から「こうすべきだ。」という事に従うしかなくなるのである。
しかも、あたかもそれは自分で考え出した結論であるかのごとく自分をだましながら。
高校生の時、私は「何々すべき」から「何々したい」に行動規範を変えようと思いました。
そうしないと自分の本当の意味の成長は無いと思ったからです。
やりたい事をやれです。
ロックを聴くのが大好きでした。
しばらくたってからジャズも聴くようになりました。
それで、ようやく人格形成に着手できたと思っております。
それまでは無気力な人間でした。
自由とは「〜からの自由」でしかあり得ないでしょう。
フセインからの自由も必要でしたが米軍からの自由も必要です。
イスラム教徒はアラーから自由になるべきです。
全ての宗教信者は宗教から自由になるべきです。
自己保存欲求とはすなわち「〜がしたい。」です。
しかし、言葉により過剰な意識を持ってしまった人間は
自然を支配しようとしてみたり、世界の富を独り占めしようとしてみたりするのです。
このような過剰の意識に対して制御するシステムが必要です。
マルクス主義が労働を至上の価値にした事も間違いです。
労働とは自然の加工に過ぎず、人間の為に自然を料理する事だからです。
生態系を破壊する労働に対して、生態系を回復させる労働が必要になってくるのです。
「生産力の発展が人類を幸福にする。」という事は幻想でした。