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(回答先: 「粉砕」という言葉について 投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 07 日 00:02:54)
愚民党さん、こんにちは。
ワヤクチャさんには割り込みレスになりましたことをご容赦願います。
私にとって、「粉砕」や「打倒」は鋭利なナイフを呑み込めと迫り来るような、今も尚どう受けとめるべきか戸惑いを覚える、単なる言葉ではない何かです。
ワヤクチャさんは、時折、意識してか、意識せずにか、無造作にも思えるくらいにさらりと鋭い言葉を使われます。同じような複雑な胸の内が、愚民党さんの『「粉砕」とか「打倒」という、70年代から80年代におけます用語なのですが・・・』に、表出していると感じました。
「粉砕」や「打倒」の語句をアジびらに記すとき、自分自身を鼓舞する思いと共に、なんと言うか戦慄のようなものを覚えたものです。また、シュプレヒコールや討論を繰り返しているとき、同志との連帯感ともに「粉砕」や「打倒」は具体的にはどうしたら可能かといった思考が脳裡を駆け巡ってきては、今やっていることこそが道を拓くのだと自分に言い聞かせていたあの頃が蘇って来ます。
>言葉というのは、自分にも帰ってくるわけです。手元から飛ばし、また手元に帰ってくるブーメランといいますか。「粉砕」と使いますと、おのれが「粉砕」されてしまう、ことがあるわけです。「打倒」と使いますと、おのれが「打倒」されてしまいうといいますか。
その後暫らくの間、ブーメランを受け止めるにも自身はボロボロ、投げ返すのにもその先を見い出せずに難儀したものです。けれども、「粉砕」も「打倒」もされていない自分と、同じく「粉砕」も「打倒」もされてはいない相手が、こうして今も厳然と存在していることに何か割り切れない複雑な思いがあります。
>モニターに表示される言葉は、単独で読みますので、けっこう内面に入るといいますか 自己対話に限りなく近いです。「粉砕」という言葉は、すこし強烈といいますか、違和感がありました。「粉砕」という言葉で、応答と対話がスットプしてしまうという感じがいたしました。
「粉砕」という言葉を発する状況は、同行者に対し連動した行動、つまり同質的なコミットメントを限りなく強いることにも重なります。私と同様に愚民党さんも嘗て他者にそのようにし、他者からもそのようにされた過去が違和感を惹起しているのではないでしょうか。また、“強烈”にはその言葉を使ってきたことへの何か責任や重さといったものを意識した心象風景が反映されていると感じました。蓋し、阿修羅が何らかの政治的行動へ誘導するものではなく、互いの世界認識や歴史認識の感度・精度を高めていく場であるとの弁別は肝要であると思っています。
私がスレッドの題名に惹かれクリックするのは主に言葉に因む記憶が想起された場合が多いです。そして、応答の真実は愚民党さんが述懐されているように究極的には自己との対話であると思います。
ところで、たとえ敗北人生であっても、断じて粉砕も打倒もされてはいないと思うのですが、どうでしょうか。そのときまで、ひょっこりと生きている、庶民(根)の気概とは実はそんなところにあるのではと考えています。
また、会いましょう。